前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

498.私の愛車遍歴の思い出、11

今回の車はジェミニです。これはいすゞの車で、それまではトラックのメーカーだと思っていたので、乗用車も作っているんだとビックリした思い出があります。この頃は、ローレルを兄と共有状態で所有していた為ダブルブッキング多く、中々ドライブの予定が決めずらかった時です。そして、この時は私の予定が入っていたのにも関わらず、兄が予定を入れてしまった為、兄弟喧嘩になったのでした。しかしこれは、兄が当然悪いのを自覚していました。兄は仕方なく、兄の友人からこの車を借りて来てくれたのでした。これは195回目のブログに書いてありますが、友人と鉄チャン旅行に行く予定だったのです。なので正確には、この時は家の車では無く、その代わりで兄の友人の車で旅行に行った事を思い出しました😅。f:id:x-japanese:20230629215653j:image

ジェミニは兄のレース仲間の車でした。多少チューンナップがされていましたが、外観は普通の車でした。今、見返すとまあまあなスタイルだったなあと思いますが、この時は私のニーズに合わず何とも思わない車でしたし、それ程売れていたようには感じていませんでした。よく音楽や芸能の世界で「出て来る時代が早過ぎた」とか言われている物があります。あまりに時代の先端と言うか、その先を行き過ぎていた為にその時代の人達が付いて来れずに、殆ど流行しなかった事を言うのですが、正にこの時のジェミニがそんな感じに思えました。写真を見ていると、今でも十分通用するスタイルのように思います。

そんなジェミニで、初めて友人と夜通しのドライブに出発。富士の麓の身延線を撮影しに行ったのです。そしてこのドライブ、この後、とんでもない物と遭遇する事になるのでした。この時のドライブは本当に貧乏ドライブそのものでした(当時の若者は本当に金が無かった連中ばかりでした😅)。しかし、私はお金が無かった訳では無く、自分の車を買う為に貯金をしていたのもあったのでした。とにかく東京から富士まで、ほぼ一般道を走りました。有料道路は第三京浜と横浜新道のみ。あとは国道1号から海岸沿いに出て、そして246号を走って行きました。この道はトラックドライブで通い慣れた道、まだ出発したばかりで気分は上々です。

当時はファミリーレストランやコンビニはまだ少なく、休憩はドライブインという、大駐車場がある食堂の場所で休んだのでした。そこは大抵24時間営業、そして大体ジュースの自動販売機がたくさん並んでいました。そしてこの頃は平気でビールなんかの自販機もありました。今では信じられないですよね😳。そこには大体大型トラックが所狭しと止まっていて活気があり、まさに眠らない町ならぬ眠らない場所。まだ「トラック野郎」と言う映画の影響が残っていて、綺麗な電飾を施した大型トラックもたくさんありました。この国の経済は昼夜問わずに動いているんだと実感せざるを得ませんでした。そして途中から134号に入り、海岸線を行きま。ちょうど箱根駅伝のコースです。当時はそんな事は全く興味無く、この道もそんな道だとは全然知りませんでした。

そして海岸線、と言っても真っ暗な道でしたが、快適に走行していました。友人達は気を遣って起きていてくれましたが、この辺りから怪しくなって来ました。1人、また1人と寝てしまうのです。まあ起こす事もせずに、私は黙々と車を走らせていました。幸い私は、緊張感からか私はそれ程眠気を感じませんでした。

するとその途中です。前から凄く明るい光が見えて来ました。何だろうと、派手なトラック野郎かなあと思っていると、道一杯に広がっている光がこちらに近づいて来ます。まるでその頃流行っていた映画、「未知との遭遇」の円盤が、真正面から近づいてくるような光景でした。みるみる前の車が左側に避けて行きます。そして前方が開けると、そこにはとんでもない光景が現れたのです。何と道一杯に広がって、こちらに走って来る車の一団。私は思わず友人を起こしました。初めて見た暴走族の集団だったのです。それまでは数十人程度の暴走族は見た事はありましたが、これ程大規模な暴走族は、これ以後も見た事はありません。

乗っていた友人達も初めて見る暴走族の大集団にビックリ。彼らは反対車線などお構い無し。一番前を大きな旗を持った先導車がおり、その後ろにとてつもない数の車やバイクが付いて来ていたのです。中々その光景が綺麗で、私はそれを呆気に取られて見ながら走行していました。そして自分の前にその光がどんどん近づいた来ました。ハッと我に返り、それを避けるべく、左側の路肩を探しますがもう間に合いません。とりあえず左側に車を寄せ停車しました。それと同時に私の横を爆音と共に、凄い数の車、バイクが通り過ぎて行きます。その人達は、皆んな我々と同じ位の年齢に見えました。その時間は数分間続いたと思います。

しかし彼等は我々に何かをする訳でも無く、ひたすら走っているだけでした。中にはこちらを見て手を振っている若者もいたりしました。女性もたくさんいました。箱乗りしている若者、叫んでいる若者、蛇行運転している若者等々。しかし一般市民には手を出さないと言った感じでした。その数に圧倒され、通り過ぎた後も暫く呆然としていました。友人達も車から降り、暴走族の走り去った後を追いかけ見ていました。遠くで爆音がまだ聞こえていました。その後は友人と共に暫く呆然。本当にまるで「未知との遭遇」の円盤が通り過ぎたようでした。気持ちが落ち着いたのを見計らって、改めて富士目指して走り出したのでした。

当時も、暴走族と言うか反社的な人達は結構いました。しかし、彼等は我々一般人には危害は加えなかったように感じます。今も、当時と同じように事件事故が多く報道されていますが、こう言った、「一線」が無くなっているように感じます。当時のこういった人達は、関係無い人には危害を加えないという、掟と言うかプライドと言うか誇りと言うか、そう言った物を持ち合わせていたように感じます。

今はジェミニと言う車も生産打ち切りとなって20年以上経ちますが、この車と一緒に、そう言った物も消えてしまったのだと思うと、何だか切ない。そんな事を思い出す車です。