前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

435.私の会社員時代、やってらんない記憶.97

長いサラリーマン人生、本当に色々な事がありましたが、中には「マンガかよ!」と言ったような事が起きた事もあったのです。182回目のブログに書いてありますが、昔、鉄チャン旅行で泊まった宿が、会社の取引先の奥さんの実家だった、なんていう話は本当にマンガみたいな、典型的な話でした。そう言えば、今年の野球、WBCでも大谷選手の活躍はまるでマンガのようでしたね。そんな中で、まるでマンガのようだった思い出を4っ程書こうと思います。

まずは何と言っても、夢の中の稟議書の話です。これはあのバカ店長がいた時、私もベテラン営業からリーダーになった頃の話です。当時は金融危機が叫ばれていた真っ只中。世の中は殺伐として来ており、弊社でもその影響は凄く、財務内容の改善をして行かないと金融機関から貸し剥がしをされると、毎日のように本部から指示が来ていました。特に我々営業には、掛売りの金額にかなりのプレッシャーが掛けられました。また大口の取引先に対しても容赦なく、掛売り金額枠の追加担保や、枠自体の縮小、利益率アップの為の商品の値上げも指示されたりして、毎日がストレスとの戦いのような日々が続いていました。

その当時、私は2件の大口顧客を抱えており、毎月の受注が入る度に事務や本部とやり合って、顧客の希望の販売額を卸していたのでした。しかし本部はこの販売額自体が信用リスクとして、担保や保証金を大幅に超えている状態を何とかしろと、益々プレッシャーを掛けて来るのでした。しかし、私はガンとして顧客側に付き、販売額を少なくする事をしませんでした。毎月毎月、何だかんだと理由を付けて稟議書を書き、本部に対抗していたのでした。バカ店長は宛にならないし、正に孤軍奮闘といった状態でした。

しかし、こんな事を数ヶ月も続けていると、段々とネタが尽きてきます。本部も「いい加減にしろ」と言った感じで、最終通告のような話もして来ます。しかし、私は何としてでも自分の顧客を守りたいと思い、抵抗する手段をいつも考えていたのです。何でこんなに燃えていたのかは318回目のブログを見ると分かりますが、この頃、自分の実家も銀行から貸し渋りを受けて大変な時期と重なっていたからなのです。業界が違うにしても、この事象が尚更、私の闘志に火を付けたようになっており、何としてでも顧客を守ってやると言う、使命のような物を勝手に感じて仕事をしていた時期でした。

そしてある日ついに、この顧客のうちの一件の稟議に、本部からストップが掛かりました。これ以上の販売枠を超えた販売はしないと、連絡があったのです。しかし私はそれでも本部に食らいつきました。そして、本部の判断を覆すような資料を作ると断言したのです。それからが地獄の苦しみでした。時間は刻々と進んで行きます。顧客には断らないと決めています。本部はこのままでは絶対に決裁しないと言っています。このジレンマとストレスは相当な物でした。血尿が初めて出たのはこの時でした。毎日のようにウォークマンX-JAPANの音楽を大音量で聞き、ストレスに潰されないように気合を入れていました。しかし、本部を覆すような資料など、いくら考えても出来ません。そんな日が続きました。

私は、その頃は既に、悩んだ事案をそのままにしておくのは1週間が限度、と思っていました。これ以上行動したり考えたりしても、新しい事が起きる事は少ないと言う経験がそうさせていたのです。それ以降は硬直状態となり、ロクでも無い事が起きて来る物なのです。そして、その限度の1週間が過ぎようとしていました。相変わらずアイデアは出て来ません。しかしまだ時間はあると思っていた、その時です。

何と、その晩の夢にその案件が出て来たのです。私が事務の担当と話し合いをしている夢です。そして、その時に私が稟議書の補足資料を書いているのです。詳細はここでは書けませんが、それは起死回生な内容だったのです。そして私はその時、目が覚めて布団からカバっと起き上がったのでした。「そうか、そう書けばいいのか!」と、急いでメモを取りました。そしてその後は興奮して一睡も出来ず、そのまま朝を迎えて出社。資料を作成して本部に送った所、渋々決裁を下ろしてくれたのでした。

これは本当にマンガのようですが、本当の話なのです。そして驚いた事に、これと同じような事象がその後、2度もあったのです。これには自分でもビックリ。これがあったのはこの顧客だけだったのですが、それだけこの社長とは色々な話をしていたのは確かでした。またその内容から、その事を色々と調べていたのも確かでした。そんな内容が潜在的に自分の頭に蓄積され、それが夢の中で繋がっていったのかも知れません。

この事は、その後色々な人に話していますが、誰も信じてくれません😵。妻に話しても信じてくれませんが、その頃はよく寝言を言っていたし、いきなりガバッと起き上がった事も多かった、と笑っておりました。こうなるとどこまでは夢で、どこからが現実なのか分からなくなりますが、しかし一つだけ確かなのは、それだけ顧客を守る事に一生懸命だったのは事実だと思います。

この頃は40歳前後、まさに働き盛りな時期でした。今思い返すと、あの頃が一番厳しかったけど、一番充実していたと思います。コロナでも無かったら、退職した同期とかと飲み行って、こんな武勇伝の言い合いでもしていたのかと思います。あの死に物狂いで仕事をしていた時期、本当に懐かしく感じています。

この頃は良く色んな町まで遠征して飲みにも行ってました。元気だったんだな〜って思います😅f:id:x-japanese:20221205105952j:image