前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

392.私の会社員時代、やってらんない記憶.74

またまた脱線してますが、この回辺りでは私がいかに前向きな性格になって行ったかを書いています。390回目と合わせ、ぜひ読んで欲しいと思っています。

とにかく後悔の無いようにという意識の下、特に高校に入ってからは積極的に運動をしたり、友人を作ったり、鉄チャンをしたり、アルバイトをしたりと、活発に動くようになっていました。しかしこのアルバイトに落とし穴があったのです。当時の学生のアルバイトで効率よく稼げると言えば、男子はまず掃除でした。私もご多分に漏れず、友人から紹介されてビル掃除のアルバイトに勤しみ、鉄チャンやカメラにお金をつぎ込んでいたのです。しかし、高校2年の終わり位に、突然、喘息の発作が起きたのでした。これは結構な発作で入院とまでは行きませんでしたが、大学病院で精密検査を受ける位に重症だったのでした。大学受験期に向けて大事な時にまた喘息がやって来たと、この時は小さい頃の悪夢が蘇りました。原因はビル掃除の埃が、完治していた喘息を誘発してしまったようでした。

この時の心情は「やっぱり自分はだめなんだ」「喘息は自分から離れる事は無いんだ」と、またまた暗くなる自分を感じていたのでした。しかしこの頃は喘息の研究も随分と進んでいて、吸入器もかなり小型な物が出来ており、ポケットに入る位になっていたのです。また減感作療法なる治療が確立され、学生の間に完治させるべく、毎月病院通いをするようになったのでした。治療は順調に進んだのですが、心の傷はこの治療とは裏腹に癒えず、良くなって来ていてもまたいつ発作が起きるんだろうという、いつもビクビクしているような生活になってしまったのでした。大学受験も思うような結果とならず、自分の人生展望にも暗い影が忍び寄って来る、本当にやってらんないというイメージでいました。

そんな中、偶然に今の妻と出会う訳ですが、この時に第二の覚醒が起こるのでした。彼女とは高校の時に少し付き合った事があり、高校の時の元気な頃の私を知っているのでした。そして彼女は、再び私と付き合うようになると、どこか不安げな、どこか自信の無い私に違和感を感じていたようなのでした。そしてある日、そんな私に彼女は、「あなたはいつからそんな諦める人になったの?」と言われたのでした。何かをしようすると「そんなの出来る訳が無い」とか、「おれには無理」とか、やる前から諦めている事に、昔はそんな人では無かったと疑問を言われたのです。これには私は全くその通りだと思ったのでした。まさにこの時は、自暴自棄とまでは行かないまでも、何をやるにしても結局喘息という魔物が出て来て自分の邪魔をすると思うようになっていて、何をやるにしても最後まで踏ん張れない、途中から諦める、そんな人間に戻っていたのでした。

しかし、この言葉がキッカケとなり、このままではいけないと思うようになり、自分の気持ちを軌道修正して、何とか前向きに生きていくように頑張ろうという気持ちになったのでした。そして本当に必死に自分の気持ちを前に向かそうと頑張ったのでした。この彼女の言葉のお陰で喘息の呪縛から抜け出せ、多少なりとも青春というモノを謳歌出来るようになり、その後の就職活動も大学受験の時のようなことにはならず、自分の大学からはなかなか難しいと言われていた、希望の業界の会社に入る事が出来たのでした。そして自分の将来が開けていく感覚になったのでした。

そして夢と希望の就職。しかし、ここで初めてイジメを受けるようになり、かなり精神的にやられてしまったのでした。そして、自分はこの会社の人達と毛色が違うように感じ、会社生活では馴染めず、仕事では上手く行かない事が続き、次第にまた後ろ向きな考え方になって来ていました。初めて喘息以外で感じるストレスでした。この辺りの苦悩はこのブログのシリーズに書いて来た通りです。しかし何とか、後ろ向きの考えに染まり切らずに、踏み留まる事が出来たのです。それは、彼女の存在と、彼女が気づかせてくれた第二の覚醒が自分を支えてくれたように感じます。「自分なんて」とか「どうせ」というキーワードを言わないように心掛け、何とか前に進めるようにもがき苦しんでいました。そしてこんな状況で負けないように、潰されないようにするにはどうしたらいいか、一人、暗中模索をしておりました。

そんな中で第三の覚醒があったのです。これは苦労して暗中模索をしている間に自然とそうなっていたという感じですが、顧客を自分の実家の会社と見立てて、敢えて感情移入させる事をやるようになっていたのです。自分の実家の商売の事は小さい頃から見ていたし、父や祖父が時には厳しい表情をしていた事もよく覚えていました。うちの実家も、業界こそ違うけど苦労していた時期がありました。実家は既に兄が継いでいましたから、自分は顧客を実家に見立てて、自分が顧客を引き継いで行くんだというイメージで頑張るようになっていたのです。商品を売るにしても、新規開拓をするにしても自分の実家をイメージして、この顧客の為になる商品を売るのだという信念を持ち、またその顧客が必要とあれば、どんな大変な案件でも果敢に会社や本部に挑戦して、顧客を絶対に守るのだという使命感のような感じで仕事をするようになっていたのでした。この頃は前向きというよりは、負けるものか、負けない為にはどうしたらいいか、といった感情が大きかったと思っています。

この頃から聞き出した、X-JAPANとの出会いも、この第三の覚醒を後押ししてくれる物となってくれたのでした。f:id:x-japanese:20221005081232j:image