前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

211.鉄チャン旅行の思い出13 食事編

人には衣食住という生きていく上で必要な三要素があります。それは鉄チャン旅行に行っても変わる事はありません。衣についてはナップザックに必要最小限の着替えの荷物を持って行きますが、冬の旅行となるとやはり大荷物になります。昔はダウンやホッカイロなんて無かったので、冬の撮影は本当にしんどかったです。住については夜行列車が主、その他はYHや駅での野宿ってところでしょう。この2つは我慢すればまあ何とかなるのですが、問題は食です。長い旅行となると1週間程度は外食という事になります。これが中々厄介だったのです。今でさえ駅弁を楽しむ余裕がありますが。この頃は本当に貧乏旅行ばかり。駅弁やその地方の名物等は買った事も無く、この辺りも本当に勿体無かったと思います。

当時はコンビニやファミリーレストランなどはまだ全国的に普及していません。大体我々の主食は駅蕎麦と菓子パンでした。そしてその菓子パンも甘い物がほとんど。また駅前のパン屋さんというか雑貨屋さんでは、賞味期限は大丈夫なのかといったお店も多かったのです。食べるとパサパサだったり固かったりする事も多々あり、よくお腹を壊さなかったなあと思っています。また水分の確保が結構大変でした。ペットボトルなどはまだ無く、ジュース等は一度栓を開けると飲み切らなければならず、地方に行く時は水筒を持参していた時もあった位でした。首都圏や地方でも市街地であればそれ程心配する事も無いのですが、ローカル線の撮影等に出掛けると飲食の確保は死活問題となります。下手をすると降りた駅に何も無い事もザラにありました。今回は一般的な食レポでは無く、変わった思い出を書きたいと思います。

まずは会津のSL撮影での事。この時は初めての泊まりでの撮影旅行。夏休みなので夏真っ盛りの時期です。我々は夜行列車で早朝の会津若松駅に到着。そこで腹ごしらえをして、撮影地のある山間部へ向かったのです。とある小駅で下車。そこから30分位歩いて撮影場所に向かう予定でした。無人駅を出て道路まで降りて行くと、舗装されていない道路と古めかしい家がありました。そこは飲食や雑貨を扱う商店でした。我々は昼食は用意してあったので、ここで水分の補給をしておこうとお店に入ったのです。当時はコーラやバヤリース等の瓶の飲み物が主体でした。大体が冷蔵庫か、氷が入った大きな箱の中に沈めてあり(お祭でよく見かけるあれです)、それを取って買うといった感じです。しかしこのお店はそのような物がありません。飲み物は置いて無いのかと尋ねると、店主のお婆さんは店先の側溝を指差します。そこは水が勢い良く流れていました。そこに籠が沈められており、その中に瓶があるのが見えました。当時の川や海は公害問題でとにかく汚れている所が多かった時代です。「こんなの飲めるかよ」と思ったのですが、そこで冷やしてあるのとの事。嘘だろっと思いながら、しっかり見てみると綺麗な水です。そして半信半疑に手を入れて瓶を取りました。するととても冷たく瓶のジュースは十分に冷えています。それをお婆さんのところに持っていくと、栓抜きで開けてくれました。そのジュースがとても冷たく美味しく感じました。まるで「となりのトトロ」の世界感です。こんな自然の中での経験に我々は大感激しました。この光景はその後、家族と同じ福島の大内宿を旅行した時に見た事がありました。今でも見れると思います。思えばそこからその撮影地はすぐ近くだったのです。この地方の生活様式なのかも知れません。しかし本当に新鮮な光景で今でもあの感動は覚えています。

次は、水分が取れず大変だった思い出です。今のようにペットボトル等もありません。夏には、少し歩いて撮影する時などは本当に喉が渇き大変な思いもした事があります。仕方無く駅で十分飲んで行くか、店や自販機を見つけると前もって飲んでおく事をよくやっていました。どの旅行だったか忘れましたが、ある時降りた駅に水飲み場が無く売店も無く自販機も無く、仕方無く1人で山中を歩いて撮影していた時がありました。その時は本当に暑い日で喉が渇きが我慢が出来ずに、綺麗そうな川を見つけその水を飲んだ事がありました。幸いお腹を壊す事も無かったですが、今考えると本当に恐ろしい事をしていたものです。

またある日、友人とある駅に降りた時、ここで何か食べて行こうかという話になりました。私は菓子パンを持っていたのでそれを食べる事にしました。友人達は駅前に並ぶ2軒の喫茶店と食堂を見て、どちらにするか迷っていました。私は早々と自販機でジュースを買い、駅のベンチに腰掛け菓子パンを食べていました。すると友人達が笑いながら帰って来たのでした。聞くと友人達は、それぞれ喫茶店と食堂に分かれて店に入ったそうですが、扉を開けると中は同じ店で、びっくして扉に手を掛けたまま暫く見つめ合っていたそうです。

またこれは登別のYHで夕食の時の話ですが、このYHは本当に駅前のビジネスホテルのようで、ご飯のお櫃や味噌汁が適当に並べてあり、おかずだけがそれぞれのお盆に分けて取るようになっていました。全てがセルフサービスのようになっており、色々と約束事を書いた用紙が食堂に貼ってあったのです。その言葉が衝撃的で、なんとそこの方言がそのまま用紙に書いてあったのです。普通はそういった物には標準語を使う物と思っていた我々は本当に驚き、友人達と顔を見合わせていたのでした。

食に関しては本当に色んな思い出がありました。紀伊半島では農薬に触って唇が腫れてエラい目にも合いました。身延線では面白い焼きそば屋のオバさんにも会いました。本当にいい思い出もあり、よく無事で来れたと思う事も多々ありました。これもすべて鉄チャンをやっていたお陰だと思っています。

定年退職して約1年半、最近はこの頃の友人達も同様な環境なのか、SNS等でまた繋がって来る事も増えて来ました。またこんな面白い旅をしてみたいと思っている今日この頃です。

f:id:x-japanese:20220316102451j:image飯田線名物、貨物より機関車の方が多い列車です