前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

196.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.19

このシリーズもこれでおしまいです。書いてみると、中2から大学1年の6年間に一泊以上で鉄チャンをしに行っているのは、2度の受験期を挟んだとは言え、これに書いて無い3回を含めると18回しか無い事に割とビックリしました。もっと行っていたように感じましたが、その他は日帰りだったり、何か違う事で夜行列車に乗っていた事が分かりました。この日帰りまで書くとかなりの量になるのでこの辺が潮時、またの機会があれば書きたいと思います。本当にもっと行きたい所はたくさんあったのですが、やはり先立つ物はお金。暇はあるけど金は無いという典型的なパターンで、しがない学生では中々旅費を出せず、また写真のフィルム代はもちろん、帰って来てからの現像代やプリント代がバカにならなかったのもありました。さらに、いい写真が撮りたいと交換レンズを買ったりアクセサリーを揃えたりと、お金はいくらあっても足りませんでした。逆を言うとそんな中でもよくこれだけ行けたと思っています。その後も友人の付き合いとかで、結構出掛けていたのですが、真の鉄チャン旅行は大学生になると急速にしなくなって行きました。最後に変速の鉄チャン旅行を書きたいと思います。

1977年の高2の春、私の高校はまず秋の修学旅行の計画から始まります。旅行委員を決めて、それぞれのクラスで行きたい所を決めて、全体の行き先を決めるという学生主体で計画を進めるのです。その頃私はまだまだ撮りたい物がたくさんあって、特に広島に興味のある機関車がありました。この年の夏に行こうと思っていたのですが、どうしても予算的に難しいと思った私は、この修学旅行を利用して広島まで行けないかと考えました。学校内の鉄チャン仲間を集め、新幹線が使える修学旅行の行き先を広島にして自由行動の日を作り、あの機関車を撮りに行かないかと提案しました。それに賛同してくれた仲間達と旅行委員に立候補、私を初め3人が委員となり、名目は広島の記念館の見学と尾道散策とかのプレゼンをして、見事コンペに優勝。修学旅行を広島にする事が出来ました。

その後の詳細は先生と旅行業者が決めるので、本当は一泊目と二泊目は広島市内のホテルにして翌日の自由行動日に直ぐに出発出来る様にしたかったのですがこれだけが叶わず、広島からかなり遠い観光旅館になってしまい中日の自由行動の撮影時間が少なくなってしまいました。そして修学旅行初日、まだ出来たばかりの山陽新幹線であっという間に広島に到着。その速さには本当に驚きました。そして市内観光、翌日が自由行動でした。我々は観光どころでは無く、早くも明日の自由行動の日が待ち遠しく、心ここに在らずという感じでした。その日は旅館に着くと、先生の説明や色々なレクレーションがありましたが、それが終わると直ぐに翌日の撮影の準備をしました。事前にある程度の準備はして来ましたが、さすがに修学旅行にカメラバッグを持って行く訳には行かず、撮影の時の荷物に苦労しました。

そして翌朝、当初の予定から随分と遠くなってしまった為、目的地まで時間がかかり、朝食もそこそこに直ぐに出る事になってしまいました。この旅行では帰りの門限を設けていましたが、出発時間の制限は設けて無かったのです(普通設けてないですよね😅)。先生達も我々の事は何となく分かっており、その辺は見過ごしてくれていたんだと思います。旅館の人に挨拶をしていざ出発。今考えるといい時代でした。

お目当ての場所はセノハチと言われた瀬野駅、ここには旧型電気機関車のパイオニア的な機関車と、東京地区で数年前に使われなくなってしまった機関車が移動して頑張っていたのです。短くなってしまった撮影時間を有効に使おうと、駅や機関区での撮影が主となってしまいましたが、往年の名機関車と、久しぶりに見るその機関車に一同感激。この機関車はこの地域にある急坂区間で、貨物列車の後押しをする作業を行なっており、以前に活躍していた頃とは比較にならない程の地味な仕事でしたが、それでも元気に活躍する姿は本当に嬉しく、やっぱり会いに来て良かったと思いました。すると一本位は撮影名所で撮りたいという話になり、時間的に厳しかったのですが走るようにその場所へ行き撮影しました。しかしお目当ての貨物列車はスカスカの状態で、その機関車の後押しする姿はありませんでした。機関区で確認しなかったので、これは勿体無い事をしてしまったと思いましたが、時既に遅し。修学旅行を鉄チャン旅行に利用したバチが当たったのかと少し反省しましたが、その後はまたダッシュで戻って来て、帰りの時間まで駅や機関区で撮影をしていました。

そして自由行動の門限ギリギリに旅館に戻りました。何事も無かったかのように夕食を食べ風呂に入り、朝も早かったから早々と寝たかったのですが、修学旅行の夜は中々騒がしく、途中で起こされたりして夜中まで騒いでいたのを覚えています。翌日は計画通り尾道観光の為、広島を後にする事となりました。我々はあの旧型機関車に会える事が出来た事に大満足、しかし唯一、苦労して行った撮影名所でお目当ての写真が撮れなかったのが悔やまれ、またいつか来たいと思っていました。

その機関車はその後も暫く走り続け、私はその後も幾度か行く事を計画しましたが、修学旅行のように新幹線が使えればいいのですが、その資金が出せませんでした。かと言って、いつもの大垣夜行を使う手もありましたが、計算すると17時間以上電車に乗る事になりさすがにキツいという事で、断念していました。鉄チャン熱が冷め初めた後も、この機関車だけはまた撮影しに行きたいと思ってました。社会人になった後もこの機関車は走り続けていたので、あと1回でいいから何とか撮影に行きたいと思っていたのですが、今度はお金はあるけど暇が無い状況になっていました。そしてついにそれは叶わずにその機関車は廃止の時を迎えてしまいました。鉄チャンシリーズの最後の勿体無いと思ったのはこれです。そしてこの時に、時間をもっと有効に使っていれば少し位の自由な時間は作れたはずと強烈に思うようになりました。この頃の会社と言えば、個人は後回しで団体行動が当たり前、ダラダラと無意味なサービス残業だったり、取れない有給休暇だったり、休日の会社行事の付き合いと、当初は遠い昔の会津のYHを彷彿させるような社会人人生でした。まだまだこの時代はパワハラ全盛時代、まだ土曜日は休みじゃ無かったですし、休まず出社する事や、長い時間会社にいる事が良しとされた時代です。しかし私はこれを契機に、所謂、社畜社員にならず、人間的な暮らしが出来るように時間を安売りするような事はしないと決め、歩むようになって行くのでした。

この鉄チャン人生は、私にさまざまな経験をさせてくれ、生きていく為にもさまざまな教訓を教えてくれました。そのお陰で、何とかいい人生を送れるようになったと思っています。やっぱり何か目的を持っている人は時間の使い方も上手ですし、会社人間にもなっておらず、鉄道の趣味はそう言った意味で、私にいいモチベーションを与えてくれたと思っています。今でも時折、復活しているSLを撮影しに行く事がありますが、その都度鉄チャン旅行の色々な事を思い出し、その時々が懐かしく思い出され、鉄道に感謝しながら撮影をしています。これからも色々あるでしょうが、昔を思い出しながら、SLなどを追いかけて行こうと思っています。この記録などもこれから書いて行けたらと思っています。

瀬野機関区から貨物の後押しの運用に出区する機関車f:id:x-japanese:20220106120745p:image