前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

492.ジジとお孫のハチャメチャ鉄チャン旅29

ここでちょっとこのテーマ。今回は私が一度行って見たかった、神奈川県の寒川神社の近くの、廃線跡に行って来た話です。そこに到着すると、まあよくこんな保存をしてくれたモノだなあと思わず感心。そして昔はこんな廃線跡が結構あったなあと、感慨に耽ってしまう程の光景でした。そしてこんな所、お孫ちゃんは一緒に来てくれるかなと初めは思いましたが、前々回の久里浜での謎の踏切が結構気に入ったらしく、すぐにOKの返事。しかしどちらかと言うと、東海道線に乗りたかったのもあったようです😅。

最近はますますアクティブになって、休日の面倒をお願いされる度合いがさらに増して来ていて、中々面倒を見るのもキツくなっているのが現状です。しかし、この鉄旅は公園とかと違って、走り回ったり追いかけたりする事は無いので、割合とストレスがありません。最近はホームドアがある駅も増えて、そういった意味で安心なのもあります。なのでついつい鉄旅に連れて行ってしまいます。最近は、早く父親に帰って来て欲しい心境と、このまま色んな所に鉄旅がしたいという心境が交錯しており、私は少し精神的に不安定な感じがしています😊。

そんな訳で、当日は娘の住む駅で待ち合わせ。お孫ちゃんを受取り、カートももちろん受け取って、湘南新宿ラインでまず茅ヶ崎へ向かいました。そこから相模線に乗り、寒川駅を目指します。この日は、また発車音に興味があるようで、この茅ヶ崎駅の音が聞きたいとの事で、少し東海道線のホームにいる事にしました。相変わらず計画通りに進みません😅。この駅の発車音は、サザンオールスターズの曲なのは有名な話。まさかお孫ちゃん、それを知っているのかどうなかのか😅。f:id:x-japanese:20240312143336j:image

そしてそれを聞くと、中々ご機嫌な様子。私がこの発車音の説明をします。以前、赤羽駅でもあるアーチストの曲が流れていた事があり、それと同じだと説明すると、お孫ちゃん何故だかノリノリになり、「後でママに聞いてみる」との事。そしてビデオを撮ってご機嫌で相模線のホームへ行きました。

この路線、結構かっこいい電車が走っていました。私のイメージは昔のディーゼルカーです。一体いつの話かと思いますが、それ程、こちらの方には来る事が無いと言う事です。ドアも手動ボタン式です。お孫ちゃん、これにも大喜び。そして寒川駅に到着です。f:id:x-japanese:20240312143905j:image
f:id:x-japanese:20240312143903j:image

周りにはファミレス等は無さそう。とりあえずトイレを済ませ、駅前のコンビニで緊急用のお菓子と水を買い、廃線跡までのウォーキングがスタートです。距離的には1㎞位ですが、割合と駅の近くから遊歩道があって、結構遊びながら歩けるので、これは皆さんにもお勧めです。遊歩道は、地元の有志の方達による飾り付けや花壇、そしてベンチもあり、とてもほのぼのする感じです。

そして何やら廃線跡らしい物が見えて来ました。お孫ちゃん、それを見つけると一目散に走って行きます。すると車輪のオブジェがお出迎え。その先に、今にも列車が走って来そうな、ムード満点の廃線が現れます。f:id:x-japanese:20240312144726j:image
f:id:x-japanese:20240312144723j:image
f:id:x-japanese:20240312144719j:image

ここは公園の一部になっていて車も来ないので、思う存分に遊べます。お孫ちゃんはおおはしゃぎで線路の周りを走ったり、線路の上を歩いたり、石を拾ったりして遊んでいます😊。私はのんびりとベンチに座り、それを見ていました。こんな公園が近所にあったらさぞいいだろうに思いました。子供達も結構いて、皆、楽しそうに遊んでいました。そしてマニアのような大人も数人来ており、写真を撮っていました。最近、廃線跡ウォーキングもメジャーになっているようで、それを感じました。

ここでお孫ちゃんを少し休憩させ、お菓子とかを食べさせます。この日はもう一つの目的地、寒川神社にも行く予定なので、あまりここで遊んでいると時間が無くなってしまいます。適当な時間で切り上げます。そしてここから寒川神社までを歩かせようか、それとも一駅電車に乗ろうか考えました。でもまあ、直線距離で1.8㎞なので思い切って歩かせる事にしました💪。そして寒川神社近隣にファミレスを発見。そこでお昼を食べようと出発したのでした。

遊歩道を戻り、相模線の踏切を渡ると、そこには寒川神社の参道が見えました。お孫ちゃんに気合を入れます。「さあ、ここから1㎞位だから、頑張って歩くよ」と言うと、少し不機嫌になります。「ジイジは歩くばかりで嫌だ」とか「お腹すいた」だとか言いながらも何とか歩かせます😅。「鉄チャンは歩かないとダメ」とか言って、なだめすかしながら参道を進んでいると、何やら「水道記念館」なる看板がある横道がありました。お孫ちゃん、こういった勘のようなモノがあるのでしょうか。スルスルっとその横道に入って行きました。「ここ、面白そうだから行きたい」と言いながら、掛けて行ってしまいました。私は変な場所で怪我でもされたら大変と思い、必死で追いかけました😅。

するとそこには古めかしい「水道記念館」なる博物館のような建物がありました。ちょっとした公園もあり小川が流れていて、子供が遊ぶには危険が無いように思えました。とりあえずホッとして、お孫ちゃんが駆け回っているのを見ていました。そしてふと見ると、休日だったのに博物館の建物が開いていました。トイレもありそうだったので、ここでトイレ休憩する事にして、お孫ちゃんを呼びました。そして入ってみると、そこは何だか面白そうな施設。入ると同時にお孫ちゃん、目がキラキラ😅。子供が楽しめそうな、水道関連のプレイランドのようでした。f:id:x-japanese:20240312153535j:image
f:id:x-japanese:20240312153540j:image
f:id:x-japanese:20240312153546j:image
f:id:x-japanese:20240312153543j:image
f:id:x-japanese:20240312153538j:image

ここは結構遊べました。休日だと言うのに混雑しておらず、さらに無料。トイレも休憩所もあり、これはお孫ちゃん、いい場所を見つけたと思いました。漏水体験など、凄いマニアックな展示もあり、子供達も好きそうな展示がたくさん。しかしここでお孫ちゃん、超ハマってしまい、時間はどんどん過ぎて行きます。これには参った。何度も帰ろうとか、次に行こうと言っても、全く動かなくなりました。それだけゲームのような物がたくさんあったのです。

その後、やっとの事でそこを出ました。しかしお孫ちゃん、水道記念館で結構遊び疲れたのか、中々歩きません😅。仕方なくカートにしがみついてもらい、お孫ちゃんを乗せてカートを引っ張って行きました。そしてファミレスに到着、遅い昼食を食べました。そしてやっと寒川神社へ着いたのは夕方の4時。この後、大船の観音様に寄る予定でしたが、それはキャンセル。寒川神社で、娘と赤ちゃんの健康と無事をお参りしました。おみくじは惜しくも中吉。しっかりと結んで帰って来ました😅。f:id:x-japanese:20240312172124j:image
f:id:x-japanese:20240312154440j:image

そして寒川神社の最寄駅である宮山駅まで歩きます。菜の花が満開の河原や高い建物が無い道を、のんびり2人して歩きました。そして駅に到着。ここは無人駅でした。駅正面にタッチ式の改札があるだけの駅は、お孫ちゃん不思議だった様子でした😅。そして線路も単線。結構電車が来ず待ちましたが、ここでも駅や単線の話をして、楽しい時間が過ごせました。f:id:x-japanese:20240312154814j:image
f:id:x-japanese:20240312154811j:image

茅ヶ崎に着くと既に5時近く。帰りが遅くなって心配でしたが、ここでお孫ちゃん、一度、辻堂駅で降りるとの事。そこでまた発車音の確認がしたいそうです。このこだわり具合が何とも子鉄です😅。そしてその駅で一旦下車、しかし大した音では無かったようで、すぐに次の電車に乗りました。その車両はボックスシートでガラガラだったので、お孫ちゃんとワンボックスを占領して、楽しく家の駅まで帰ったのでした。f:id:x-japanese:20240312155136j:image

今回は、鉄旅と言うか、記念館で遊んだだけのような旅でしたが、お孫ちゃん、かなり楽しそうでした。そして帰りの電車では、「あの水の博物館、僕は何かあると思ったんだ😅」とか言って、自慢をしていたのが面白かったのでした。確かに私では絶対に入って行かないだろう小道を、お孫ちゃんさぐんぐんと進んでいったのです。子供は本当に面白い所を探す能力があるのか、とても感心した今回の鉄旅でした。

 

491.私の愛車遍歴の思い出、6

次はエルフトラックです。私が運転し出した当時は、トラックと言えば「エルフ」といった感じで、街中には至る所に走っていました。これはバンや小型トラックでは無く、本格的なトラックです。私の家にあったのは2トントラックで、大量の荷物だったり、大きい物、重い物を運ぶ時に駆り出されていました。形はデリカトラックをもっと大きくしたサイズで、初めて運転した時はとても緊張した思い出があります。大きいトラックだった為、それ程は運転した訳では無いのですが、それでも緊急の時はお構いなく父からお呼びが掛かり、免許を持ってるんだから運転出来るだろと、エルフで荷物の配送に行かされておりました。f:id:x-japanese:20230616084442j:image

当時は大型トラックと言えばディーゼルエンジンが主流。パワーがあるし、燃費はイマイチでも燃料代はガソリンよりも断然安いし、運送には持ってこいだったようです。しかし音がうるさく振動は大きいしスピードは出ない。おまけに今では考えられませんが、エンジンがすぐにかからないのです。何故だかエンジン始動時に、余熱という一手間が必要でした。そしてその一手間が完了した後も、チョークという物を使って暖気運転のような事をしてエンジンを落ち着かせて、始めて発信すると言ったモノだったのです。なので当時は乗用車には向かなかったのだと思います。今ではそんな事は無いようですが、私は、その大きさと手間の掛かり具合がまるでSLのように思えて、結構このトラックは好きだってのです。

しかし、このエルフの思い出と言えば、配達で行った先の広大な工事現場でぬかるみにハマり抜け出せなくなり、半日位なす術もなく呆然と立ち尽くしていた事を思い出します。そこは多分、神奈川県の金沢シーサイドタウンだと思います。今から40年位前の開発地であり、横浜の先で海沿いの長細い埋立地でしたから、場所的にここだと思います。今でもその広大な工事現場は明瞭に覚えています。

その場所に着いた時にはあまりの広大さに、荷物をどこの現場に届けるのかが分からず、色々な現場に寄って聞くのですが、全て違うとの返事。当時はケータイが無く、またコンビニもそれ程無かった時代、一旦電話ボックスがありそうな国道に戻り、現場に電話して確認してまた向かうのですが、同じような景色で同じような現場ばかり。電話で聞き取った事をメモに地図書きし、工事現場の道をそのメモを見ながらそれっぽい現場を探す為にゆっくり進みます。しかしお目当ての現場は見当が付かず。その時です。ガクンと前輪を工事現場の道から外してしまったのです。

そこはぬかるんだ泥でした。やばいと思っても後の祭り。バックで出ようとしても荷物が重い為、トラックが泥から這い上がれないのです。暫くはすったもんだの繰り返し。しかし前輪は全く這い上がって来ず、逆に泥に埋まって行く感じでした。時折り通り掛かる工事車両を止めては手伝ってもらいますが、結局は無理。それ以外助けを呼ぼうとしても、この工事現場が広大過ぎて人影もまばらで、どこに行けばいいのか分かりません。来た道を戻るとしても泥だらけの道でかなりの距離です。まさに途方に暮れるとはこの事。既に時間は夕方です。このまま自分はどうなってしまうのだろうと、本当に情けなく思っていました。

すると天の助けとはこの事か。何とブルドーザーがこちらへ走って来たのです。私は大手を振って「助けて〜」と叫びました。そこには数人が乗っていて何事かと近寄って来てくれました。理由を話すとトラックを無事に引っ張り上げてくれたのでした。そして更に配達先の現場を知っていたので、無事に辿り着く事が出来たのでした。時は既に日没寸前。荷物を下ろした時は、腰が抜ける位にホッとしたのを覚えています。

とにかく重い荷物だとスタッグしたら大変。この時からぬかるんだ道がトラウマになり、山道とかダートコースには近づかなくなりました。未だに乗用車でも舗装されて無い道を走るとこの時の事が思い出され、雨が降りぬかるんだりなんかするともう大変。もう運転してるといつぬかるみに捕まりスタッグするか気が気でなくなります。

しかし悪い事ばかりでも無く、その後私は飲料水会社のアルバイトをするのですが、この時にエルフを運転していた経験が役立ったのです。当時のアルバイト事情はかなりおおらか。アルバイトでも運転をお願いされる事があったのです。夏になると季節がら、こういった会社はとても忙しくなります。まさしく猫の手も借りたい程の忙しさ。そんな時に配送のトラックがエルフだったので、すんなりと私は運転手を務められました。当時の若者は車好きが多かったとは言え、2トントラックを運転出来る人はそれ程はいませんでした。これにはかなり重宝がられ、それからこの会社には約2年お世話になる事になったのです。ここではかなり小遣いを稼がせてもらいました。

何事も経験をしておくモノだと言う事を、このエルフからは教わったと思っています。そして父の会社の手伝いとは言え、この会社の色んなトラックで色んな所に行く度に、何だか自分が自由でどこにでも行けるような、自分が大人になったような気分になったのでした。何と言っても、自分思った時に思った所に自分が運転して行けるのが最高でした。気がつくと、私は鉄チャンの世界から車の世界に完全に移っていたのでした。

 

 

 

490.私の愛車遍歴の思い出、5

続いて書くのは軽トラです。メーカーは忘れてしまいましたが、やはり会社にあったトラックで一台だけだったと思います。この形は今でも基本的な形は変わっておらず、当時から既に完成されていた形だったのだと思います。デリカトラックを小さくしたような形はとても可愛く、運転し易そうに思いましたが、逆に小さ過ぎて運転がちょっと怖かったのを覚えています。排気量も小さくパワーも無いので2人しか乗れない。トラックですから乗り心地は当然悪い。そしてボディがとにかくチャちいと言うか薄い。事故でもあったら一巻の終わりと言った感じでした。なので私は基本的には1人の用事以外は、あまりこの軽トラには乗りませんでした。

そして、この軽トラで私はまたやらかしてしまいます。例のデリカの一件もあり、会社へは配送以外は出入禁止になったのでした。しかしそんな事も直ぐに忘れほとぼりが収まると、またトラックを拝借するようになりました😵。それはある日の夜です。友人の所へ遊びに行くので、会社の車を拝借しに事務所に入ると、この日は軽トラのキーしか見当たりません。この軽トラには決まった運転手はおらず、いつも会社にあったのです。その他のトラックは、ダットサンを始め担当者が決まっていた為、その人の営業や配達の関係でそのまま直帰とかがあったので、無い事も多々あったのでした。

仕方なくこの軽トラで友人の家へ行き、その帰りです。この軽トラもボンネットが無く前輪の上に運転席があるタイプです。なのでデリカと同じように、ひとテンポ置いてハンドルを切る必要があったのです。しかし小さい車なのでその辺を甘く見ていました。するとある交差点で左折した時です。軽いショックと共に、ゴツンという音を聞いたのです。夜だったので良く見えず、何かに当たったのは分かったのですが通行人もいない道だったので、また車はそのまま動いていたので、気にせず家まで走って行きました。

しかし何か変な感じがします。曲がる為にウインカーを出すと、ライトが一瞬暗くなるような感じです。しかし曲がり終わりウインカーが戻るとまた明るくなるので、そのまま家まで走って行きました。そして車庫に入れて鍵を返して、そのまま家に帰りました。そして翌朝です。親父が血相変えて「昨日の晩、軽トラ乗った奴は誰だ!」と騒いでいます。私は何が起こったのか分からず、「おれだけど何か?」と言った感じで返事をしました。すると、「バッテリーが壊れていて軽トラが動かないんだ!」と言って会社に戻って行きました。私は急いで親父の後を付いて行きました。

すると軽トラの荷台のすぐ下にあるバッテリーにヒビが入っていて、バッテリー液が漏れていました。幸い換えのバッテリーが会社にあり事なきを得たのですが、親父はカンカンです。仕事以外では出入禁止であったにも関わらず、またやらかしてのです。社員の手前、許す訳には行きません。社員の前でこっぴどく叱られ、私は皆さんに謝りました。社員の人達は、「一言言ってもらえば良かったのに」程度の事を言って許してくれましたが、経営者の息子に怒れる訳がありません。何かその空気感がとても面白かったのを覚えています😅。その後も父に怒られてるのに、社員の、どうしていいか分からないその対応を見てると、内心は可笑しくてたまらないという珍しい経験を、この軽トラにはさせてもらいました(本当にバカ息子だったと思います🙇)。

原因としてはダットサンと同じ感覚でハンドルを切ったので少し曲がるのが早まり、交差点の角の縁石にぶつけたのだと思いました。そして私は会社へ完璧に出入禁止になり、暫くは会社の車には乗る事が出来なくなってしまいました😵。そして軽トラにはこれ以降、乗る事は無いのでした。

しかしこの軽トラはその後色々な場面で登場する事になります。特に地方の家にはよくこの軽トラがありました。よく覚えているのは雪国の軽トラです。秋田の友人の家に遊びに行った時に、友人がこの軽トラで遊びに行こうと言うのです。付いて行くと広い原っぱのような雪原に着きました。そこでスリップカートさながらの運転を楽しむのです。私は例の一件があったし、雪道は運転した事が無かったのでただ見ていましたが、友人達は面白がって軽トラをスリップさせ、レースさながらの運転をしていました。

また私の父方に、はとこに当たる同年代の男子がいるのですが、そいつが若い頃、富山からやってくる時に必ず家の軽トラでやって来るのです。それだけでも驚くのに、ある日の帰る日の富山の天候が雪だった時があったのでした。父は帰る日をずらせと言っているのに、大丈夫と言って帰って行ったのでした。そして翌日無事に帰ったと連絡がありました。あんな車で雪道を走って行くなんて信じられなかったのを覚えています(もちろん四駆でしたが😅)。

また大学の友人の引越しを手伝いに行った時、その時借りたレンタカーが何かの手違いで軽トラになってしまった時があったのです。案の定荷物が乗り切れず、途方に暮れている友人。それでも引越しはしないといけません。それからありとあらゆる隙間という隙間に荷物を入れ、上に積めるだけ積んで何とか全部を積める事が出来たのでた。運転席にまで積んだので私は電車で付いて行く事にし、彼を見送ったのでした。その後ろ姿が今にも荷物を落としそうな、フラフラ走って行く姿は漫画みたいでほんとに笑えました。

何だか軽トラと言うと、こんな可笑しい思い出ばかり。そう言えば「軽トラ」と言う言葉や響きも何だか可愛いし、可笑しいと思いませんか。この写真、私が壊したバッテリーが見えます😅。f:id:x-japanese:20230615204334j:image

 

489.私の愛車遍歴の思い出、4

大きな事故を起こしてしまい、デリカトラックはこの事故で廃車になってしまいました。幸い私は大した怪我も無く翌日退院。事故処理は保険会社に任され、その後も私は再び親から怒られ、暫く会社の車は使えなくなりました。そして、このデリカが私の命の引き換えに廃車になってしまった事は結構ショックで、それ以来、街で走っているデリカを見ると「あの時は悪い事したなー」と思うようになりました😔。そんな訳でデリカトラックは私の命の恩人なのです。暫くすると会社には新しいデリカトラックが搬入されていて、少し気分が紛れました。

それにしても、あの時もしダットサンがあって、それを乗っていたらと思うと今でもゾッとします。そして彼女を送って行った後で本当に良かった。これは、守護霊さんが守ってくれたからなんだろうとしか思えず、このデリカが、改めてご先祖様と言うモノを意識させれくれたと思っています(466回目のブログのような体験でした)。

またそれ以外にもこの事故では不思議な経験をしました。事故の時は夜ですし、当時の車のライトはお世辞にも明るいとは言えませんでした。道路にも電灯も少なく、視界という意味ではかなり悪かったのです。なのにぶつかる瞬間、確かに真横に迫るタクシーが見えたのです。人間の視野を調べると、認識できるがハッキリしないという幅は、大体前方200度だそうです。ほぼ前方が全部認識出来るイメージです。しかし、しっかり物体が認識出来る視野は大体30度と書いてあります。事故の時は夜で、私はしっかり前を向いて運転していました。それなのに、私はぶつかって来るタクシーがしっかり見えたのです。ライトを点けた、オレンジ色のグロリアのタクシーでした。そして咄嗟にハンドルにしがみついたのでした。

以前、人間は危機状態になると普段の数倍のポテンシャルが出てくると聞いた事がありました。所謂、火事場の馬鹿力という奴です。私もこの時、咄嗟に危機を感じ視野が広がり、タクシーを認識した事によりハンドルに掴まるという回避する行動が取れて、それ程の怪我も無く済んだのだと思いました。これには今まであまり信じて来なかった世界を認識するようになりました🤔。

それまではご先祖様とか守護霊さんとかいうと、やはり漫画で、昔連載していた「うしろの百太郎」という物があり、何となく怖いし胡散くさいイメージを持っていました。今でいうスピリチュアルの世界です。私の母親はそう言った意味でご先祖様を大事にする人達で、私や兄弟は昔から随分と、「ご先祖様が守ってくれているんだ」とか「ご先祖様が一人一人に守護霊として付いてくれているんだ」と言われておりましたが、この近代的な世の中でそんな事があるかと、全く気にしていませんでした。しかしこの事故からはそんなイメージが無くなり、ご先祖様が自分の事を守ってくれているかも知れないと、思うようになったのでした。また人間の不思議な力というモノも考えるようになったのでした。本当にこのデリカトラックでの事故は、その後の私に多大な影響を与えた事件だったと思っています。

こんな心境の変化を与えてくれたデリカトラックですが、私はと言うとそんな感謝はすぐに忘れて、この新しくなったデリカトラックに対し、とんでも無い事をしていたのでした😵。それはガソリンです。この頃から私は兄と共同で自家用車を所有するのですが(その車についてはこの後に書く予定です)、この車で結構なお金を注ぎ込んだ為、暫く金欠状態になり、ドライブのガソリン代が無くて参っていた時期があったのです😵。すると、あんなにお世話になったデリカに目をつけ、そこからガソリンを失敬するようになったのでした。

ガソリンタンクは普通は外から見えない場所にあるモノですが、このデリカは荷台のすぐ下にガソリンタンクが丸見え状態だったのです。今考えると恐ろしい事をやったと思っています。ガソリンは揮発性が強く引火の可能性が高く、下手をしたら爆発事故なんかも起こしていたかも知れません。しかし当時の私はそんな事もお構いなく、せっせとガソリンタンクから抜いて、それを自分の車に入れてドライブに行っていたのでした😵‍💫。この写真にそのガソリンタンクが写ってます。f:id:x-japanese:20230615131446j:image

全くとんでもないバカ息子だったと思います。そのうちにバイト代とかで潤うようになるとこんな事は止めましたが、それにしても私は本当にいい歳をした悪ガキだったと思います😩。デリカトラックはこんな私に壊され、ガソリンまで盗まれて、散々な目に遭わされていたにも拘らず、その後も父の会社の為に頑張って働いてくれていました。そんなデリカを見ていると、その律儀さに頭が下がる思いでした。今思い返しても、ご先祖様から叱られそうです。

こんな思い出のあるデリカトラック。もうこの形のデリカはもう見る事も無さそうですが、いつか会えたら、改めてしっかりとお詫びをしたいと思っています😅。

 

 

 

 

488.私の愛車遍歴の思い出、3

次の思い出のトラックは三菱のデリカトラックです。デリカと言うと当時流行し出したのワンボックスカーの先駆けの車のように思えますが、私はデリカと言うとトラックのイメージがあるのです。確かにこの1980年頃のデリカは「スターワゴン」というグレードが登場し、今では当たり前の回転対座シートなどを導入し、今まで無かった画期的なワンボックスカーとして人気がありました。三菱のマークもまだMの字を模った可愛いマークでした。そんな中でも私は、遊びに行く時にダットサンが出払っていると、仕方なくこのデリカトラックでドライブに行ったのでした。f:id:x-japanese:20230615073019j:image

このデリカトラックもダットサン同様に、運転席のすぐ後ろは荷台で、コラムシフトの3人乗り。やはり荷台に荷物が無いと軽いので、悪路では上下左右動は激しかったのでした。さらにこのデリカはボンネットが無く、運転台の下にエンジンを持って来て、荷台の広さを大きくしています。そして前輪が運転席のすぐ下。道路の凸凹の振動をお尻で感じるようで、乗り心地という意味ではダットサンよりは数段劣る感じでした。

しかしこの車、ボンネットが無いので前方の見通しは半端なく良い。特に都心の狭い道や交差点では、その性能を遺憾無く発揮。見通しが悪くても少し身体を前に乗り出せば、そこは左右180度視界が開け車や人がいるのかは一目瞭然。まず事故になるようなシチュエーションにはなりません。ダットサンでは危険な交差点では一旦停止して、恐る恐る左右を見ながら進み、車が来ない事を確認してやっと発進する感じでしたが、これは初心者の私にはとても運転し易かったのでした。

しかし一つだけ注意する事がありました。それは前輪がお尻の下にあるので、いつものようにハンドルを切ると思った以上に早く曲がり、トラックの側面を擦りそうになるのです。これは内輪差と言い、ボンネットタイプは運転席の前方にタイヤがある為、タイヤの位置の違いでこういった感覚が起きるのです。このデリカはその前輪がある場所に運転席がある感じなので、普通にバンドルを切ると自分の感覚より随分前に曲がり始めてしまうのです。なのでこのデリカを運転する時は、曲がる時にはひとテンポ置いてハンドルを切るようにしていました。この感覚が中々掴みづらく、暫くは右左折や駐車に苦労した覚えがありました。

そして何と言ってもこのデリカの思い出と言うと、生涯一度きりの交通事故です。それも結構大きな事故でした。この時は、ひょんな事から今の妻と再び出会って、少し付き合いを再開した頃で、彼女が何かで遅くなったので家まで送ってあげると言って、夜にこのデリカで駅まで迎えに行ったのです(こんな事をしながら彼女との距離を縮めていったのです😅)。彼女は当時からなぜかダットサンが結構お気に入り。彼女の母親の実家も商売をやっており、こういったトラックは懐かしいとの事で、結構喜んでくれたのです。しかしこの日は全車出払っており、仕方なくデリカで出掛けたのです。既に夜の10時になっていたでしょうか。そして無事に家まで送り届けて、私はその後、友人の家にちょっと寄って行こうと思ったのです。そして事故に遭ったのです。

彼女の家を走り出すと、道は少し上り坂になっていてその上に十字路があります。そこは私の方が優先で、横切る道には「とまれ」の標識があります。彼女をよく送っていたので、その交差点はよく知っていました。なのでその坂はいつも加速させていました。この時もデリカを加速。坂を登りきり一路友人の家へ、と思った瞬間です。その十字路の右からライトが見えました。「何か来る」と思ってハンドルに思わずしがみついたその時、大きな衝撃と共にトラック共々左側に飛ばされました。右側からタクシーが突っ込んで来たのです。

大きな音がしました。近所から住人が出て来ました。私はハンドルにしっかり捕まっていたからでしょう、無傷でした。そしてトラックから降りてタクシーの運転手に掴み掛かりました。この頃は私も血気盛んな若者でしたので、大声で駆け寄って行きました。先方は初老の運転手でした。交差点の角の家の木が「とまれ」の標識を隠したようになっていて見えなかったとの事でした。近所の人が連絡したのか、すぐに警察がやって来て現場検証が始まりました。そして私は近所の人に電話を借りて家に連絡。親からはこっぴどく叱られました。デリカは運転席下の部分から真ん中に掛けて大きく凹み、修理は不可能っぽく見えました。

その後は会社の保険会社からすぐに連絡があり、事故も警察で処理がなされたのですが、私は保険会社の指示でそのまま病院へ。一晩検査の為、入院しました。そしてその後、警察からの事情聴取の続きを受けました。細かい事は忘れてしまいたが、一つ覚えているのはその警察官から、「もし普通の車に乗っていたらあなたは死んでいたかもしれない」と言われた事でした。現場検証の人が言っていたそうなのです。要するに、ボンネットタイプの車だったらモロに運転席に衝突されていたようなのです。確かにデリカは運転席の下の部分から後ろが大破していました。ダットサンだったらまさにその部分に運転席があり、私が座っていた事になります。私はこれを聞いてゾッとしたのを今でもハッキリと覚えています。なぜあの時、いつもあるダットサンが無かったのか、それを考えると何か不思議なモノに守られている気持ちになったのでした。

長くなってしまったので続編で書こうと思います。

 

 

 

487.私の愛車遍歴の思い出、2

この頃の我が家もご多分に漏れず裕福な家では無く、自家用の乗用車は無く、車と言えば会社にあるバンやトラックのみ。免許を取り立ての頃は、このトラックとかバンを休日に借りて、友人を誘いドライブへ行ったモノでした。よく乗っていたのが当時の日産の「ダットサン」のトラックでした。まず1回目はこのダットサントラックを書こうと思います。

この車は、運転席がひとつの平らなシートになっており、背もたれはほぼ垂直。お世辞にも乗り心地はよく無く、後部座席は無く後ろが荷台になっている小型トラックです。しかしボンネットもあり、運転しているだけなら乗用車を運転している気分に浸れます。また、後ろが荷台だった為、後方の視界が良かったのがとても助かったのです。運転席の後ろには窓が広がっており、振り返ればすぐに後方の視界が入って来ます。駐車場に入れる時なんかはとても助かり、免許を取ったばかりの私はこのダットサンが気に入って結構乗っていました。コラムシフトなので(当然マニュアル車です)、運転席に3人乗れるので、土曜日の夜なんかはこの車で友人の家まで迎えに行き、そのまま第三京浜とか横浜新道に乗り、江ノ島とか湘南海岸の方まで遊びに行ったモノでした。

この車、結構スピードと言うか加速がいいのです。パワーとか排気量は忘れましたが、荷台に何も積んでないのでその分パワーに余裕があるのか、とにかく早い。交差点で停車して信号が変わると、よく隣の車とスタートダッシュの競争をしたモノでしたが、普通の乗用車にはそれ程負けなかったのを覚えています。さすがに高速では時速80㎞を出すとエンジンが唸って来ますが、男友達と運転の練習方々ドライブするのには十分な車でした。時には当時付き合っていた彼女なんかも、ダットサントラックに乗せてドライブなどもしていました。よくこんな事をやって彼女も付いてきたと思います。

しかし、貨物運搬というくくりの車なので、サスペンションが硬かったのです。当然重い状況で安定する車と言う事になります。しかし荷物が無く軽いと、その分車は少しの凸凹でもガタンゴトンと飛び跳ねます。当時は舗装の悪い道は結構多く、そんな道を走ると車は上下動が激しくなり、運転席では天井に頭をぶつけるくらいに飛び跳ねてしまう事もありました。すぐ隣に友人などがいると、本当に肩や身体がぶつかりあってしまう位に上下左右に揺さぶられ、長距離などを走ると結構疲れるドライブとなったのも思い出深いです。

またエアコンは当然無く、窓ももちろんパワーウインドウでは無く、取って(手回しハンドルと言うそうです😵)をくるくる回す手動です。今考えると、夏なんかエアコンも無く、皆さんよく乗っていたと思います。また当時はタバコの全盛期。車の中の灰皿はいつもタバコで一杯。ガソリンスタンドに行くと灰皿の掃除は当たり前。しかし、タバコの匂いが車に染み込んでいて窓を開けていても消えません。私はタバコを吸わなかったので、それだけはキツかったのを覚えています。しかし、このトラック、サイズ感が免許取り立ての私にはとても使いやすく、本当によく乗っていました。

父や会社にも無断で、本当に勝手に乗って行ったモノでした。当時このダットサンは会社に3台あり、一応、それぞれ社員に割り当てられていました。夕方会社が終わると、事務所に入って適当にダットサントラックの鍵を持って来て、キーが開く車を乗って行ったのです。そしてこのダットサントラックで初めて気がついて感動的だった事が、同じ車なのに性能と言うか走りと言うか、全く違うのを感じた時の驚きだったのです。

これは鉄チャンをやっていた時にSLの話を聞いた時、同じ機関車の種類でも運転しやすい機関車と、逆に運転しづらい機関車があると聞いた事があるのです。そんな事ってあるのかなあとずっと思っていたのですが、このダットサントラックが正にそんな感じだったのです。年代も形式も同じ車なのに、ある一台はとてもエンジンが回るというか噴けると言うか、アクセルを踏むともの凄く回転が上がるのです。なので信号でのダッシュも大体が勝てるのですが、ある一台はそんな事は無く、アクセルをいくら踏んでも回転は上がらず、ちょっとかったるい走りとなります。なので信号ダッシュは勝てないのです。何で同じ車なのにこんな事が起きるだろうと不思議に思ったのでした。

しかしその原因は、色々と探って行くうちに普段の運転のせいだと分かります。エンジンが回るダットサンの運転手は所謂性格がせっかちで運転も粗い。営業や配達に出る時は、思い切ってエンジンを噴かしタイヤを鳴らして出発して行きます。見ている方はヒヤヒヤもの。片や、大人しいダットサンの運転手は、結婚もして子供もいる穏やかなおじさんでした。この人は事故を起こすまいと、ゆっくり出発。いつもとても慎重に運転をする人でした。これはブレーキが効きにも同じ事が言えました。こんな運転の違いが、車の性能も変えてしまうモノなのかと、すごく不思議だった思い出がある車でした。

その後、ある車のディーラーで、「暴走族が乗っている車はエンジンの噴け具合が最高」と言っていたのを聞いた事がありました。車も運転する人の環境によって、性能が変わるモノなんだと認識し、これは人間にも当てはまるなあと思ったのでした。同じ人間でも、環境によりその後色々と変わってしまうと言う事を、妙に思わせてくれたのがこのダットサントラックなのでした。この車はそういった意味で、鉄チャン同様、その後の人生において「環境」と言うキーワードを意識させてくれてたと思っています。f:id:x-japanese:20230802231202j:image

何か今見ても乗りやすそうな車ですね😊。

 

 

 

486.私の愛車遍歴の思い出、1

突然ですが新しいシリーズ、車の話題を書きたくなったので、書いてみようと思いました。私の今のお気に入りのテレビ番組と言えば、BS日テレの土曜日の夜にやっている(令和6年2月現在)、「おぎやはぎの愛車遍歴」です。私は鉄道も大好きですが、車も大好き😊。この番組は、出て来る色々なゲストの人達が、人生を共にして来た愛車達を紹介する番組なのです。その話はもちろん面白いのですが、何と言ってもその時の話と共に、その時所有していた車と同じ形式の実車が登場して、運転までするのがこの番組の見所なのです。

私が若い頃に憧れていた車なんかが出て来ると、思わず絶叫モノ。この実車は今現在所有している別の人の車で、それを借りて来ているのですが、結構、年代物の車も多く、よくこんな車を動く状態で保有しているなあと、感心する所もあるのです。私もぜひこの番組に呼ばれて、歴代の車の思い出を語りながら当時の実車を見て、そして乗ってみたいモノですが、有名人でもない私に取って、それは叶わぬ夢だと諦めています😅。なので突然このブログで、番組に出演しているつもりで書いてみようと思ったのでした。

私の車の思い出と言うと、まずは中学生の時に流行ったスーパーカーブームでしょうか。当時の漫画と言うと「少年マガジン」や「少年サンデー」が中心でした。そこに突如「少年ジャンプ」と言う雑誌が創刊。我々の間に瞬く間に人気となり、その中で「サーキットの狼」と言う連載漫画が始まったのです。私の生活環境は、前述の通り会社を経営しており、小さい頃は数人の住み込みの社員もいた関係で、住み込みの人用のアパートがありました。そこに行くと若い男性が住んでる訳ですから、漫画を始め様々な大人の匂いのするモノがたくさんあり、もちろんお酒や麻雀、花札等もたくさんありました。そのアパートに行くのが我々兄弟もとても楽しみで、いつもそこにタムロしていたものでした。そしてそこでは漫画を読み耽り、そこで見た「サーキットの狼」に兄弟全員がハマってしまったのでした。

兄はそれから車にハマり、弟はこのスーパーカーにハマっていました。私もこのスーパーカーには随分と心踊らされた覚えがありました。兄弟間でも、そして中学校の友人間でもこの話題で持ちきりな時があり、既に鉄チャンだった私も随分とその話題に乗り遅れまいと、スーパーカーの情報や、時にはモーターショーを見に晴海の会場まで行った時もありました。そこには漫画のモデルのロータスヨーロッパを始め、カウンタックやポルシェ、フェラーリ等の様々な外車が並び、それはそれは夢のような世界だったのを覚えています。当時のリコーハーフカメラ(210回目のブログで登場しています😅)で、このスーパーカーも随分と撮影したものでした。

しかし当時のこの国の一般庶民は、このスーパーカーや外車はもちろん高嶺の花。電車と違い、買わなければ乗る事が出来ないし、また見たくても決まった道路を走っている訳ではなく、決まった時間に走って来る訳でも無いので、見たいけど見る事も出来ない。私の近所にも所有している人はもちろんおらず。中学生の私はそもそも所有するといった意識も無く、そのうちにこの熱は冷めて行きました。そして高校生にもなるとスーパーカーブームも終わり、私は純粋に鉄チャンへの道へと進んで行ったのでした。

我々の年代の連中はこんなスーパーカーブームもあったので、車好きな奴が多かったように思います。私が免許を取った当時(1979年頃)は、まだまだこの国自体もそれ程裕福では無く、外車などは問題外。車好きは多かったですが、そもそも車などは持てなかった連中が殆どでした。私はそんな中でも実家が商売をやっていた関係で、トラックやバンのような商用車は数台ありました。そして、資材の配送もしていた関係で、兄弟全員18歳になると親から免許を取るようにと言われていました。私も19歳に免許を取得、会社の配送をよく手伝わされました。時に緊急な配送などは、親父が暇してそうな子供を見つけては、「お前、〇〇まで材料を配達して来い」と言われていたので、幸い車を運転する機会は多く、友人達の中では運転は上手いと言われていました。

そして、週末や平日の夜になると、このトラックやバンで友人とかと遊びに行ったモノでした。そして段々と、車を運転する魅力に取り憑かれるようになりました。それは、私の兄の事も関係しているのです。私のすぐ上の兄は、スーパーカーブームの後、そのまま車にハマり続け、それが趣味となりレースにのめり込み、バイト代やその後の社会人になっても給料等は全て車につぎ込むという人間でした。友人達ともちょっとしたチームを作っていて、時折、私もそれに着いていってサーキット場にも遊びに行っていました。そんな事もあって、私は大学生にもなると、鉄チャンよりも車の方に興味が行くようになっていたのです。もちろん当時は鉄チャンでは女性にモテなかったですが、兄は結構モテていたので、自分もそのようになりたいと色気づいた根性も育っていたのでした😅。

今は車を欲しがる若者が減っていると聞きますが、私はそれを聞くと信じられない思いで一杯です。例えトラックだって、自分で運転して好きな場所へ行ける、思い通りに運転出来る。電車やバスと違い、時間にも縛られず、気に入った場所だったら好きなだけ居れる。そして走っている時の爽快感は最高な気分です。まさに自由な空間を感じる事が出来るのです。レンタカーとかが充実して来たといった環境の変化はわかりますが、それにしても、こんな自由を感じる空間を与えてくれる車に興味が無いなんて、本当に勿体無いと思ってしまいます。

免許を取って車を乗り始めた時に感じたあの自由な世界観。それが、何だか元気が出て来る感じで、暇さえ出来ればトラックやバンに乗って、ドライブに出掛けていたのを思い出します。まずはこの時によく乗っていた、家業のトラックの事を語りたいと思います。ただ、私はそれ程車のメカに強い訳ではないので、性能や走りの事はあまり語れず(温泉と一緒です😅)、単なる思い出中心に書こうと思っています。この「愛車遍歴」の番組に出演してると思いながら、書いて行きたいと思います😅。写真については、いかんせん古い話になるので画像が悪かったり、またはパンフレットからの引用のお世話になっていますが、御了承下さい🙇。

ドライブの醍醐味はこんな素晴らしい景色でしょうね〜😊f:id:x-japanese:20230614110157j:image