前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

45.入院2日目、治療開始

寝付けなかった夜が明け、いよいよ今日から治療が開始します。かと言って直ぐに始まる訳では無く、朝、看護師さんの回診があり、朝食の後は先生の回診があり、後はもらった記録表に、熱、食事の様子、排尿、排便等を記録していくだけの時間が続きます。

まだ重粒子を照射していないので、回診は挨拶と体調の確認程度でした。その後、看護師さんが今日の照射の順番表を配りに来ました。それだけでは照射の時間は分かりません。あくまで今日の照射する人数と自分の順番が記載されているだけです。いつお呼びがかかるのだろう?と内心ドキドキして待っていましたが、午前中は何も無く終わってしまい食事の時間となりました。全体を通じて照射の時間は大体が午後2時過ぎから5時位の間でした。後日、入院の患者は午後の照射になるという噂を聞きましたが、確かに午前中の照射は退院の日だけでした。

同室の患者さんが食堂に向かったので、私もその後に付いて行きました。その人と同じテーブルに座り入院後に初めて簡単な会話を交わしました。食事は全体的にまあこんな物だろうという感じで、可もなく不可も無い感じ。患者さんの中にはふりかけや佃煮等を持参している方も多かったです。私はふりかけを用意し、ほとんど毎回かけて食べてました。

そんな食事なのでササっと食べてしまい、話を続けようとしたところ、看護師さんがやって来てお呼びがかかりました。同室の方から頑張ってとエールを送られ、看護師さんと一緒に一旦病室へ戻りました。今日が初めての照射なので昨日配られた排尿時刻記入表の説明が再度されました。呼ばれたら必ず排尿をして下着を履き替え、その時刻を記入した表を持って照射に行くように指示されました。ここで初めて専用の下着の出番となります。所謂パンツです。サラッとした生地のサポーターみたいな簡易パンツって感じで、治療の邪魔にならないように余計な物が無い無機質なものです。針生検の時にもこんな物履いたな〜、などと思い出しながら着替えを済ませ治療に向かいます。

場所は固定具を作った新治療研究棟です。ここは以前は外から入って行ったのですが、病院棟からは地下道と地上通路で繋がっています。看護師さんからも「初めてなので緊張しないように頑張って」とエールをもらい、通路が間違えやすいから気を付けてと言いながらエレベーターの所まで見送ってくれました。

病室がある4階から地下1階に降りて、そこから新治療研究棟の案内に沿って進みます。まずはインフォームドコンセントを行った診察室などが並ぶ通路を通った後、その奥の地下道を進みます。この地下道が結構長く途中直角に折れていたりして、最初は本当にこの通路でいいのかまごつきました。すると少し古い感じでピンクの扉のエレベーターが見え、それで2階へ上がります。扉が開くと急に明るくなり新治療研究棟へ繋がっている地上通路が見え、そこを通って行きます。この地上通路はとてもお洒落な作りでちょっとした美術館のようです。その長い通路を歩いて行くと突き当たりが新治療研究棟で、そこにまたエレベーターがありそれで地下1階に行くと、そこに固定具作成の時に来た治療の受付と待合室があります。この辺りもダイジェスト版に写真を載せてあるので参考にして下さい。

行きつけのゴルフ場、メイレイクヒルズのハート型のグリーンとバンカー。ここの露天風呂もお気に入り😊f:id:x-japanese:20210325074612j:image

44.入院初日、夜

入院の説明はそれ程大変でもなく、以前診察で聞いた事の復習と排尿表をしっかり確認出来れば、後は特に気にする必要は無い感じでした。一通りの説明が終わると看護師さんは戻ってしまい、妻と二人きりになりました。荷物の片付け等が終わり同室の患者さん達に挨拶を済ませた後は、特に話す事も無く暫くは何をする訳でもなく病室にいました。

その後、夕食の時間が近づいてきたので、二人して食堂に移りました。4階なので景色も良く、暫く外を見ていました。その後食事の時間となったので、患者が続々と食堂にやって来ました。初回はまだ慣れないので、妻と2人で端の方で食事をしました。妻はお菓子をつまみながら、付き合ってくれました。夏至を過ぎたばかりでしたので外は明るいのですが、妻の家路を考えるとゆっくりさせてはいけません。そそくさと食べて、妻とはしばしのお別れです。何だか急に寂しくなり、病院の玄関で妻が見えなくなるまで後ろ姿を見ていました。

それからが長かった。患者さん達と話す気力も無いし、すぐに病室に戻って寝転がっていました。ただ天井を見つめ、今までの事が急に思い出されて来ました。家族の事、会社の事、これからの事、治療の事、色んな事がごちゃ混ぜになり、少し精神的に不安定になってしまいました。何でこんな事になってしまったのだろう、何が悪かったのだろう?。治療は実際にはどんな物なんだろうか?、本当に痛さとか無いのだろうか?、治療が上手く行かなかったら死んでしまうのだろうか?、放射線は周りの臓器に当たってしまわないだろうか?。悪い事ばかりが頭に浮かんできました。

入院初日の夜はいつまでも寝付けず、時に病院中をウロウロしていました。4階には夜勤の看護師さんはおらず、本当に静かなフロアです。私は、入院は盲腸や肺炎で経験があるのですが、夜は結構騒々しいイメージがありました。病院はお年寄りの方も多いですし、病状が良くない患者もいます。時折そんな患者のうめき声がしたり看護師さんが小走りする音がしたりで中々寝付けなかった思い出があるのです。しかしこの病院は静かで、返ってそれが目を覚ましてしまうようで、初日の夜はいつまでも寝付けず、明日の治療に影響が出なきゃいいなあ、などと考えながら過ごしたのを覚えています。

群馬県庁の最上階はレストランもある展望フロア、一見の価値ありf:id:x-japanese:20210323130449j:image

43.入院時の説明

病室に案内されるとまず着替えをしました。病室のすぐ脇にはロッカーがあり、ベッドの横には袖机があり物の置き場には事かきません。私は夏の入院で、途中一時退院希望だった為荷物は少なめだったので、十分余裕がありました。トイレはロッカーの向かいにありました。袖机にはその上にテレビ、鍵のかかるミニ金庫、読書用のライトも付いていて、病室もまあまあ広く、私は4人部屋でしたが全く圧迫感は無く十分快適でした。この辺りはダイジェスト版に写真を載せてますので参考にご覧下さい。

病室はこの4人部屋が最大のようで、後は個室が多かったように感じました。混んでいるという割に病室は結構空いており、日が暮れてくると暗い所もあり少し寂しい感じがしました。結構、治療は通院、または近隣のホテルを取っての通院の患者も多いようです。お風呂は特に診察で問題さえ無ければ基本自由でした。スタッフステーションの横にシャワー室があり、予約ボードに記入し予約さえすれば、いつでもOKでした。

着替えも済み、一通りの病室、館内の説明が終わると、早速用紙が配られ明日からの治療の説明が始まります。まずは「重粒子治療看護マップ」の説明です。これは入院生活から治療、退院後の事までの詳しい内容が書かれています。看護師さんは一つ一つ丁寧に説明するので結構時間が掛かりました。次に毎日の生活記録表、これは朝からその日の生活についての記録を記入します。体温、体重、血圧測定、食事は食べたか、尿の回数等、まるで幼稚園の連絡帳みたいです。

最後は重粒子治療では重要な鍵となる「排尿時刻記入表」の説明です。これは治療の前に必ず排尿する必要があるのですが、その時間を書いておく用紙です。順番が来たらすぐに用を足し、その時間を記載し、それを持って照射室のある新治療研究棟に向かいます。治療の日は午前中の早いうちに順番表が配られ、その照射人数と自分の順番で大体の照射の時間が予想付くのですが、患者のトラブルや機械の不具合により、中々予想通りにはならない事が多かったです。順番が来ると看護師さんからお呼びがかかります。すかさず用を足しその時間を記載し、それを持って照射室へ向かう作業を12回繰り返します。この辺りもダイジェスト版に写真がありますので参考にご覧下さい。

初夏の奥日光、戦場ヶ原f:id:x-japanese:20210321173603j:image

42.入院当日

随分と長い間待ち焦がれていた入院の日がやってきました。前立腺癌と診断されてから約9ヶ月の歳月を費やしここまで辿り着いたのです。

その日は朝から感慨深かった、と言うよりは「やっとここまで来た、本当に長かったな」と思った事を覚えています。特に最後の入院までの3ヶ月が精神的に本当にキツかった。それに加え、いよいよ始まるが本当に治療が上手く行くのか、癌の進行具合は大丈夫なんだろうか、等、どちらかと言うと不安の方が大きく、今までとは違う心境になって急に行きたくない気持ちになりました。しかし賽はすでに投げられています。本来なら希望に満ちた重粒子線治療の開始の日ですが、心の動揺で重い気分の中、妻と一緒に指定された時間に病院に行きました。

受付を済ませて看護師さんに案内され、4階のスタッフステーションに行きました。入院施設は病院棟の4階と5階にあります。一瞬緊張で身が引き締まる感じがしましたが、そこは明るく清潔な感じで、入院の不安を取り除いてもらうにはいい環境でした。そこで入院担当の看護師さんに引き継ぎされ、部屋に案内されました。

そこで驚いたのは自己紹介をした女性の看護師さんの名前でした。その方の名前が先日亡くなった父と同じ漢字の名前でした。父の名前は「美」という字が入っているのですが、それを「よし」と読むので漢字では女性の名前とかぶる事はよくありました。しかし、まさかこの病院の担当看護師さんが父と同じ漢字の名前の方というのは、やはり父が天国で見守ってくれているんだと感じずにはいられず、こんな事があるんだ!と、とても不思議な感じがしました。看護師さんにもこの話をしたところとてもビックリされて、「何かの縁ですね、治療頑張りましょうね!」と言って微笑んでくれました。

この看護師さんのお陰で今までの不安や緊張が一気に解け、落ち着いてこれからの入院、治療の説明を聞く事が出来ました。

群馬県、夏の四万湖の四万ブルーf:id:x-japanese:20210320171658j:image

41.会社への報告と父の死

癌が見つかった時点で会社には報告していましたが、その後は治療の方法や日程が決まらずスルー状態でした。法医研に決め診察に行き入院日程が決まったので、会社に報告したのはそれから半年ほど経った頃で、4月の下旬でした。7月から夏季休暇を含め約3週間の休暇申請を出しました。半年も経過していると職場の人は皆、私が癌である事を忘れてしまっていたようで、上司は身体優先と快諾してくれましたが、現場は微妙な雰囲気でした。その分仕事が皺寄せとなるので、この仲間達に迷惑がかかる事がすごいプレッシャーとなりました。しかし入院まで約3ヶ月あるので仕事を計画的に進め、ほぼ迷惑をかけずに済みました。これは私が定年間近でもありお客さんをあまり担当していなかった事と、また割と特殊な業務であった為、業者やお客さんとのスケジュール調整が比較的容易で、長期休暇の取得が可能だったと思います。自分の職場で働き盛りの年代でこのような長期療養は厳しかったかと思います。まだまだ日本は休みずらい習慣が脈々と残っていますよね。この辺り、身体を一番に考え、自分がいないと困るのは会社だけではなく、むしろ家族なのです。若ければ若い程、会社は自分がいなくても何とかまわっていく位の気持ちを持って、治療に専念するようにして欲しいと思います。そんな私でも、入院の翌日から出社する事にして休暇は一日でも少なくするようにしました。上司はその週くらいは自宅静養しないのかと言ってくれましたが、休暇に対する罪悪感がそうさせたのだと思います。そして、ほぼ治療の準備が整った時に、思いもよらない父の死の知らせがありました。私の病気が見つかってから自分も体調が良く無いのにも拘らず、随分と気にかけてくれてました。この頃はかなり容体も悪く、私の入院中にもしもの事があったらどうしようなんて考えていたのですが、その前に逝ってしまったのです。きっと私が気を揉むのを見越して、治療に入る前に逝ってしまったんだなって思いました。父は愛情を表に見せないがしっかり見守ってくれる、そんな人でした。自分は父に何もしてあげられなかったけど、きっとこれからも我々を天国で見守ってくれるのだろうなんて、子供みたいな事を自然と考えていました。

自宅近くで見た虹f:id:x-japanese:20210319234022j:image

 

 

40.再診から固定具の作成

先生から検査結果が悪かった為、入院まで例のホルモン療法を行うとの説明がありました。結局、このホルモン剤は約6ヶ月飲み続ける事となり、因みに、私の頭髪は結構復活してきましたが、その後は悲しいかな胸の膨らみも含め元に戻ってしまいました。良かったのが悪かったのか😅。そして最後に照射の時に使う固定具の作成の説明をされて終了です。今回は予想外の悪い診断に2人して沈んだ気持ちになり、診察後に飲みに行く気分では無くなってしまい、稲毛駅の喫茶店で少しお茶をしてそのまま帰りました。その後の3ヶ月間は、中リスクという診断であったため精神的にとても不安でした。癌治療は早期発見早期治療と言うけど、早期発見したはいいがこれでは早期治療にならないではないか、癌が進行して手遅れになるのではないか、やはり早く手術してしまえば良かったのか。もう既に法医研でも治療の準備に入ってしまった為どうする事も出来ないのですが、この日から今までの楽観的な気持ちは影を潜め、ひたすら時が過ぎるのを待つ日が続きました。この固定具は入院の10日くらい前に作成します。入院前にまた病院に足を運ぶので、ちょっと手間でした。固定具は病院棟では無く、重粒子照射を行なっている新治療研究棟で作成します。時間は待ち時間も含め1時間程度だったと思います。6月の月末近く、会社に半休を取り午後から病院に向かいました。新治療研究棟は病院棟の手前を左に折れ、ちょっと工場みたいな所を通って行きます。その奥に朝顔で覆われた綺麗なビルが見え、それが新治療研究棟でした。全体的に白っぽい学校のような建物が多い中、この建物は逆に異様に感じる程お洒落な物でした。中に入ると、そこは近未来的な内装でとても斬新な空間でした。入口に受付があり、固定具の件を伝えると地下一階へ行くように指示されました。そこは重粒子治療の受付と待合室があり、そこに隣接した場所で固定具の作成を行なっていました。そこで暫く固定具作成のビデオを見ているようにと指示されました。その後、呼び出しがあり、部屋に入り、着替えをしてベッドに横たわり、固定具の作成を行います。この作成についてはストレスは全く無く、ビデオの内容そのもので直ぐに終了します。法医研のホームページでも詳しく紹介されているので参考に是非見て下さい。この時は呆気ないくらいでこれで終了。いよいよ入院を待つのみとなります。帰りには、前回再診の時、思わぬ悪い診断で意気消沈し飲みに行かなかったので、少し遠回りして豊洲の方まで繰り出し、海を見ながら食事をしました。妻と二人でこんな所に来るのは久しぶり、今までの苦労の労いと治療の成功を祈り乾杯しました。

初夏の千葉館山の海沿いのレストランにてf:id:x-japanese:20210413180858j:image

 

39.再診、意外な診断

再診はほぼ予約時間に行けたので、少し待って診察を受ける事が出来ました。再診の先生は前回と一緒だと思っていたら違う先生でした。前回の時の先生とは雰囲気が違い少し嫌な感じの先生でしたが、テキパキと診察をしてくれました。そこで早速言われた事は、検査結果が思ったより悪いという事でした。

前立腺癌の診断は結構複雑で、PSAの値の他、どこまで広がっているのかを表すステージ、どの程度の悪性度なのかを表すグリソンスコア等を用いて判定し、リスク度合を低、中、高の3つに分類します。私は当然低リスクと思っていたのですが、なんと中リスクという診断でした。これにはショックを受けました。ここまで引っ張ってしまったのが悪かったのか、やはり早く手術を受けた方が良かったのか、頭の中で結構混乱しました。しかしすぐに、この診療情報は針生検の時の物だからそれは関係ない事が認識出来ました。ここまで来たらなるようにしかならない、先生の指示通り動くしか無いと自分に言い聞かせて、先生の話を聞きました。

悪性度を測るグリソンスコアが悪かったようで、この判定についてはネット等で詳しく調べられますので、是非勉強して欲しいと思います。早速入院の手続きの話となり、なるべく早くと言っても、そこから約3ヶ月後の7月が最短との事でした。この時は少し目がくらむような気分になりました。「これからまた3ヶ月待つのか、中リスクだというのにそんな時間がかかって大丈夫か?」と先生に聞きたい感情が爆発しそうでした。しかし診察と入院の手配がどんどん進んで行くので、何も言い出せずその場に座っていました。

その後には、私はまだ50代という所から、研究の協力の話をされました。もちろん強制では無く協力です。現在の前立腺癌の治療は12回照射ですが、これを4回に短縮すべく研究を続けており、協力者を募っているとの事。これも事前に調べてきたので知ってたのですが、割と最近まで16回照射だったようで、こういった研究から12回まで減らしてきたのかと思いました。協力は是非したかったのですが、それにしても12回からいきなり4回なんて大丈夫なのかと疑問に感じました。

それと尿道カテーテルを使うとの事でした。どうも、そのカテーテルで病巣である前立腺を固定させ、重粒子線を集中照射するようです。現在の治療の一番のリスクは、便の溜まり具合により前立腺の位置が動いてしまうので病巣を絞りきれず、周囲の臓器への影響の関係で、どうしても一度に強力な放射線を当てられないとの事です。尿道カテーテルを使い前立腺が動かないように固定し、そうする事により病巣だけに強力な重粒子線を当てる事が可能となり、照射回数を少なくする計画を進めているようです。尿道カテーテルは針生検の時に経験がありますが、中々覚悟がいるなと思いました。さらに回答は早急にして欲しいとの事。事前に言っておいてくれたら考えて来たのですが、その場での心の決心がつかず仕方無くお断りをしました。だからと言って態度が悪くなるとかは全く無かったです。

日光湯元温泉の湯畑、硫黄の匂いが強烈です♨️f:id:x-japanese:20210318100128j:image