前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

192.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.15

あまり勉強もせずそれなりの大学に合格し受験が終了、約10ヶ月振りの1979年3月、気分転換にちょっと遠出をするかと、単独で紀勢本線ディーゼル機関車の牽く旧型客車に乗りに行きました。この旅行は一人でしたから誰にも相談せず、ふらっといつもの大垣夜行で出発。当時は紀勢線内に夜行列車が走っていたので、翌日はそれを往復して夜を明かし、途中YHで一泊、その翌日も同じ夜行で夜を明かしそして帰りも逆の大垣夜行と、5泊6日の旅行でした。近くには伊勢神宮があったり二見ヶ浦があったり松坂牛のグルメがあったりと、機会があれば寄りたいなと思いながらも、何故だか昔を懐かしんで久しぶりに真の鉄チャンをやろうとも思ってました。この旅行は、満足した結果が出なかった大学受験の反省と、今後の自分探しでは無いですが自分を見つめ直す事をしたいと思っていました。心が揺れ動いている状態だったので、暫く一人でいたかったんだと思います。

初日の撮影は順調、その後、今夜の夜行に備えて亀山に戻ります。途中、松坂で降りて夕食は松坂牛と行きたい所でしたが、見てみるとやっぱり高い。まだ旅行も初日でしたから我慢して中華そば屋で夕食を済ませ、亀山へ向かいました。そこから紀伊田辺まで夜行に乗りそこで折り返し、また夜行で帰ってくるという事で宿泊代を浮かしました。夜行列車はガラガラの状態で発車。結構この夜は冷えました。まだ3月中旬の伊勢地方は暖かいのを想像していましたが、山間部に入ると何とチラホラ雪が舞っています。しかしこの客車はいい感じで温かい。この客車は、今では当たり前の電気式暖房では無く蒸気式暖房と言うもので、初めて認識して乗りました。時折「キンキン」とか「カンカン」とかの金属音が車内に響きます。蒸気暖房だと思うと何だか優しい温かさに感じて来るから不思議です。待ち合わせ等で長時間停車する時に機関車を見に行くと、暖房用の蒸気が漏れて辺りに漂っており、それに信号やら駅の灯りなどが重なり幻想的な風景になっています。SLの夜汽車もこんな感じだったのかなと思い、もう少し早く生まれて来たかったと思いました。

翌朝は朝一の列車の撮影の為、新宮で降り海岸に向かって歩きました。まだ薄暗い町を歩くと既に朝市の準備をしている通りに出ました。賑やかで活気のある風景で、その光景が珍しく少し見たりしてましたが買っても仕方無い、見るだけにしてその後海に出ました。するとそこには遮る物が何も無い太平洋が見え、まさに水平線を太陽が昇る所でした。思わずシャッターを切りました。こんな綺麗な朝陽を見た事が無く、暫くその光景に見惚れてしまいました。この土地の人達は毎日こんな朝陽を見られるのかと思うと、都会住まいは勿体無いと思いました。そんな事を考えていると列車が来る時間となってしまい、あまりいい写真が撮れませんでした。

その日はその後泊まる予定のYH近くで撮影し、早めに宿に入り休息を取る予定でした。すると私よりひと回り位年上な感じの人に話し掛けられました。同じ撮影に来ている人でした。色々と情報交換しているとその晩の宿を決めていないとの事。私がYHに泊まると言うと、その人は妙に懐かしがり自分も泊まっていいか聞いて欲しいとの事。その人はやはり昔、SLを撮りに行っていた時よくお世話になったようでした。宿に連絡してみると空きがありOKの様子。その日はその人と2人でYHに宿泊しました。宿には我々を含めて3組程度の人が宿泊しており、夕ご飯の後、何となく皆で話すようになり、その晩は結構楽しかった事を覚えています。全く知らない人達とこんな会話が出来るのもYHならでは。しかし基本的にYHはお酒は置いていません。私の相方の人はそれが結構辛かったらしく、翌日は他の宿にすると言っていました(笑)。そして寝る時に、この旅行の数日間を思い出し、色々と話したり感じたり見たりしているうちに、単純ですが自分に少し元気が戻ってきている感じがしました。やはり旅行っていい物だと思っていました。

翌日はその人とも別れ、また撮影の旅に出掛けます。そしてその日はとんでもない事が起きました。朝からある丘に登り撮影していると、たくさん美味しそうな大きなミカンが周りに成っていました。「これは何の種類かな?」などと何気なく触ってそのままの手でいました。その後買っておいたパンと牛乳で腹ごしらえ。春の穏やかな日差しにいい気持ちになり、ウトウトしてしまうようないい天気。目の前には白い海岸が見え、我ながらいい場所を見つけたと思い、そこでかなりの時間ゆったり撮影していました。そして昼を過ぎ場所を移そうと駅まで歩き始めました。すると何となく指がヒリヒリします。そして程なく唇もヒリヒリ。原因が分からず我慢してましたが洗面所で洗ったりしても収まらず、痛さや皮膚のガサガサは段々と酷くなります。しかしこんな場所では薬局も無く、かと言って医者にかかるお金も勿体無い。その後はひたすら痛みに耐えながら、夜も痛さに耐えて夜行列車に揺られ一晩明かしました。

翌日も唇は腫れて指はガサガサ。撮影どころでは無く、気を晴らす為列車で行ったり来たりしていました。どうもあのミカンの白い粉のような物が農薬だった事が後で分かりました。当時は果物や野菜の農薬なんて我々があまり知らなかっただけで当たり前な時代。そんな事も知らず、ミカンの農薬に触りその手でパンを食べた訳ですからたまったもんじゃありません。内臓をやられなかったのが幸いでした。しかし医者や薬局には行かずに我慢し続けました。この日はもう帰る日だったので家まで我慢しようと思っていたのですが、夕方にはついに不安になりある駅前の薬局に行きました。すると農薬に触った事による肌荒れと分かり、塗り薬等を買いました。もっと早く来ればこんなに苦しまなくて済んだのに、治療費を勿体無いと言ってもケチるのも、今考えてみてもどうかと思います。そしてその夜にはやっと痛みも収まって来て、家に帰るべく名古屋駅へ向かいました。

しかし、潰れたしまった撮影日程が気になり、その後一日延長する事に決め、その日の宿をどうしようか考える事としました。

紀勢本線ディーゼル機関車、春の伊勢路は暖かそうですが意外に寒かったf:id:x-japanese:20211023163130p:image