前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

180.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.3

この回は、北海道の続きです。その後に帯広では広尾線のSLと、その頃大人気だった愛国から幸福行きの切符を買いに行きました。私が北海道に行くという事が分かると、家族や友人からその切符のお土産を頼まれて、ここだけはどうしても寄る事になってしまったのです(当時はネット販売など無く、現地に行かないと買えなかった物ばかりでしたね〜)。今考えると結構無茶な頼みですよね😅。ここでも勿体無い話し、ここまで来て幸福駅まで行く時間が無く、愛国駅までしか行けませんでした。この線は当時から列車本数が少なく、時間的に間に合わず断念したのです。まあ愛国駅には駅員がおり切符を売っていましたが、幸福駅無人駅で切符が買えなかったしSLの時間も間に合わなかったので、これは事前に調べて仕方無しと諦めていました。愛国駅では結構観光客がいて、切符を求める人でごった返していました。我々は無事切符を購入。結構な枚数をゲットし、その後しっかりとSLの撮影をする事が出来ました。

その日は早々に帯広駅近くのYHにチェックイン。帯広駅ではまだまだ貨物の入れ替え等にSLが活躍していました。まだ陽もあったのでそれを撮影する事も出来たのですが、さすがに身体は疲れ果てていたので、それを横目で見ながらYHまで歩いて行きました。そして、ゆっくりお風呂に浸かりたらふくご飯を食べて、翌朝も早い為、早々と床に着きました。

翌日は始発に乗り旭川までロングラン、たった一本のSLを見るだけにそこに行ったのですが、信じられない事に既にSLは廃止となりディーゼル機関車に代わっていました。こういった事はこの旅行では多々ありました。本来であればこのSL列車に少し乗って、折り返して登別へ向かう予定でした。しかし雑誌の情報は数ヶ月前の物です。今のようにネットがあればこんな無駄な行動もせず、それこそ網走まで行ったり、幸福駅とかの撮影などしていたと思います。少しの間ショックで呆然として、駅を出て機関区の方に歩いて行ってみると、そこには廃車となったSLが数台置いてありました。これにはいよいよSLも終焉なんだなと強烈に思い、急に寂しい気持ちになってしまいました(ぼやけて分かり辛いですが、門デフのC57が見えます。おそらくはるばる九州からやって来た130号機です)。f:id:x-japanese:20240210180808j:image

その後は気を取り直して計画を変更。情報誌を見て、ちょうど深川という駅でSLが撮影できる時間だったので、そこに寄る事にしました。そしてここでは先程の落胆を駅員さんが知っているかのような対応を我々にしてくれました。お目当てのSLが止まっているのを遠くから見ていると、駅員さんがやって来て我々に、まだ出発前で時間があるので近くで撮影しても良いとの許可をくれたのでした。これには大感激。このSLと一緒に記念撮影したり、間近にその熱を感じてみたりと興奮冷めやらぬ体験をさせて貰いました。そしてこの時の石炭を満載した貨物列車の出発シーンは大感動もの。それは凄い迫力で、先程の大ショックはどこへやら。我々は大満足して駅員さんにお礼を告げ深川駅を後にしたのでした。これもその後、自分の教訓となりました。f:id:x-japanese:20240210180850j:image

「悪い事の後は必ず良い事が待っている」。そして信じられない事にこの時のSLはその後保存され、現在はJR横川駅の鉄道博物館に保存されているのです。先日も、お孫ちゃんと横川までこのSLを見に行き、大感激に浸って来ました。人生って本当に何が起きるか分からないものですね(以前にも挙げたSLの写真はここで撮った物です。本当にいい記念になりました)。f:id:x-japanese:20240211171446j:image
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その後は岩見沢からSL列車に乗り、その晩は登別のYHに2泊しました。このYHは登別駅前にあり、ペアレントは老夫婦でした。帯広のYH同様、特にレクレーションは無く単なる宿泊施設という感じで、その情報は知られているのでしょう、その時の宿泊者はほぼ鉄チャンで占められており、大学生のような人達が多かったように思いました。夕食の時はSLの情報交換が出来、仲間同士の情報交換は大事なんだとこの時思いました。

その中でも我々は中学生という事で珍しがられ、随分と可愛がられました。その時に登別温泉の話が出ました。当時、ドリフターズが歌う「いい湯だな」の歌でその温泉名はよく知っていました。宿泊者の中には日本を代表する温泉なのだから、折角だから行ってくるといいと言われました。しかし、駅から温泉は結構距離がありました。当然まだ寒いし歩いては行けません。バス代もかかるし入浴料もかかるだろうし、友人と色々相談しましたが、当時は温泉と聞いてもウキウキ感は無かったので、行かない結論を出しました。大人達は「勿体無い」と言ってましたが、お金もそろそろ心配になって来た頃だったので、早々と諦めてしまいました。

今考えると本当に勿体無い。せいぜいバス代と入浴料で千円もあれば十分だったと思います。温泉嫌いだった頃は全く感じませんでしたが、温泉開眼後は、あそこまで行って何で入らなかったんだと歯軋りする思いでした。たったその程度のお金が無かったのか、自分でもその当時の自分が情けなくなりました。その後、登別温泉にリベンジに行ったのは、それから42年以上経った2016年の夏でした。飛行機とレンタカーであっという間。朝、家を出てお昼前にはもう登別を通り過ぎ、有珠山の方まで行けるのですから、時代も変わったんだなと実感しました。中2の時は確か上野駅を午後3時位の列車に乗って登別辺りを通過したのは翌朝の7時過ぎた位、本当に時の流れを感じました。登別は近くに地獄谷という景勝地があり荒涼とした山肌の景色と、温泉の中に間欠泉もあったりとムード満点。硫黄泉のそのお湯は評判通りのいいお湯でした。やっぱり日本有数の温泉地だけある、その時泊まったホテルのお風呂のスケールも大きく大満足な温泉でした。しかし、帰りに少し立ち寄った登別駅前はSLの時代よりも随分寂れているように感じました。あの時泊まったYHもどこだか分からず、思い出に浸る事は出来ませんでした。北海道は国鉄が民営化後、鉄道が衰退しSLはおろか鉄道自体が廃止の危機に瀕しています。これも時代の流れなのかと思うと、寂しさを感じてしまいました。

登別から追分に向かう途中の苫小牧駅にて。旅行初日の写真は無惨にも消えてしまったので、その後は闇雲に撮っていましたf:id:x-japanese:20220125080345j:image