前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

498.私の愛車遍歴の思い出、11

今回の車はジェミニです。これはいすゞの車で、それまではトラックのメーカーだと思っていたので、乗用車も作っているんだとビックリした思い出があります。この頃は、ローレルを兄と共有状態で所有していた為ダブルブッキング多く、中々ドライブの予定が決めずらかった時です。そして、この時は私の予定が入っていたのにも関わらず、兄が予定を入れてしまった為、兄弟喧嘩になったのでした。しかしこれは、兄が当然悪いのを自覚していました。兄は仕方なく、兄の友人からこの車を借りて来てくれたのでした。これは195回目のブログに書いてありますが、友人と鉄チャン旅行に行く予定だったのです。なので正確には、この時は家の車では無く、その代わりで兄の友人の車で旅行に行った事を思い出しました😅。f:id:x-japanese:20230629215653j:image

ジェミニは兄のレース仲間の車でした。多少チューンナップがされていましたが、外観は普通の車でした。今、見返すとまあまあなスタイルだったなあと思いますが、この時は私のニーズに合わず何とも思わない車でしたし、それ程売れていたようには感じていませんでした。よく音楽や芸能の世界で「出て来る時代が早過ぎた」とか言われている物があります。あまりに時代の先端と言うか、その先を行き過ぎていた為にその時代の人達が付いて来れずに、殆ど流行しなかった事を言うのですが、正にこの時のジェミニがそんな感じに思えました。写真を見ていると、今でも十分通用するスタイルのように思います。

そんなジェミニで、初めて友人と夜通しのドライブに出発。富士の麓の身延線を撮影しに行ったのです。そしてこのドライブ、この後、とんでもない物と遭遇する事になるのでした。この時のドライブは本当に貧乏ドライブそのものでした(当時の若者は本当に金が無かった連中ばかりでした😅)。しかし、私はお金が無かった訳では無く、自分の車を買う為に貯金をしていたのもあったのでした。とにかく東京から富士まで、ほぼ一般道を走りました。有料道路は第三京浜と横浜新道のみ。あとは国道1号から海岸沿いに出て、そして246号を走って行きました。この道はトラックドライブで通い慣れた道、まだ出発したばかりで気分は上々です。

当時はファミリーレストランやコンビニはまだ少なく、休憩はドライブインという、大駐車場がある食堂の場所で休んだのでした。そこは大抵24時間営業、そして大体ジュースの自動販売機がたくさん並んでいました。そしてこの頃は平気でビールなんかの自販機もありました。今では信じられないですよね😳。そこには大体大型トラックが所狭しと止まっていて活気があり、まさに眠らない町ならぬ眠らない場所。まだ「トラック野郎」と言う映画の影響が残っていて、綺麗な電飾を施した大型トラックもたくさんありました。この国の経済は昼夜問わずに動いているんだと実感せざるを得ませんでした。そして途中から134号に入り、海岸線を行きま。ちょうど箱根駅伝のコースです。当時はそんな事は全く興味無く、この道もそんな道だとは全然知りませんでした。

そして海岸線、と言っても真っ暗な道でしたが、快適に走行していました。友人達は気を遣って起きていてくれましたが、この辺りから怪しくなって来ました。1人、また1人と寝てしまうのです。まあ起こす事もせずに、私は黙々と車を走らせていました。幸い私は、緊張感からか私はそれ程眠気を感じませんでした。

するとその途中です。前から凄く明るい光が見えて来ました。何だろうと、派手なトラック野郎かなあと思っていると、道一杯に広がっている光がこちらに近づいて来ます。まるでその頃流行っていた映画、「未知との遭遇」の円盤が、真正面から近づいてくるような光景でした。みるみる前の車が左側に避けて行きます。そして前方が開けると、そこにはとんでもない光景が現れたのです。何と道一杯に広がって、こちらに走って来る車の一団。私は思わず友人を起こしました。初めて見た暴走族の集団だったのです。それまでは数十人程度の暴走族は見た事はありましたが、これ程大規模な暴走族は、これ以後も見た事はありません。

乗っていた友人達も初めて見る暴走族の大集団にビックリ。彼らは反対車線などお構い無し。一番前を大きな旗を持った先導車がおり、その後ろにとてつもない数の車やバイクが付いて来ていたのです。中々その光景が綺麗で、私はそれを呆気に取られて見ながら走行していました。そして自分の前にその光がどんどん近づいた来ました。ハッと我に返り、それを避けるべく、左側の路肩を探しますがもう間に合いません。とりあえず左側に車を寄せ停車しました。それと同時に私の横を爆音と共に、凄い数の車、バイクが通り過ぎて行きます。その人達は、皆んな我々と同じ位の年齢に見えました。その時間は数分間続いたと思います。

しかし彼等は我々に何かをする訳でも無く、ひたすら走っているだけでした。中にはこちらを見て手を振っている若者もいたりしました。女性もたくさんいました。箱乗りしている若者、叫んでいる若者、蛇行運転している若者等々。しかし一般市民には手を出さないと言った感じでした。その数に圧倒され、通り過ぎた後も暫く呆然としていました。友人達も車から降り、暴走族の走り去った後を追いかけ見ていました。遠くで爆音がまだ聞こえていました。その後は友人と共に暫く呆然。本当にまるで「未知との遭遇」の円盤が通り過ぎたようでした。気持ちが落ち着いたのを見計らって、改めて富士目指して走り出したのでした。

当時も、暴走族と言うか反社的な人達は結構いました。しかし、彼等は我々一般人には危害は加えなかったように感じます。今も、当時と同じように事件事故が多く報道されていますが、こう言った、「一線」が無くなっているように感じます。当時のこういった人達は、関係無い人には危害を加えないという、掟と言うかプライドと言うか誇りと言うか、そう言った物を持ち合わせていたように感じます。

今はジェミニと言う車も生産打ち切りとなって20年以上経ちますが、この車と一緒に、そう言った物も消えてしまったのだと思うと、何だか切ない。そんな事を思い出す車です。

 

 

 

 

497.私の愛車遍歴の思い出、10

突然やって来たカリーナとの別れ。それは兄と共有という所が原因でした。兄はこのカリーナには満足していなかったようで、確かに休日でもあまり乗っていませんでした。そしてカリーナが来てからも、ずっと他の車に買い替えようと思っていたそうなのでした。そしてある日突然、カリーナを下取りに出し新しい車に買い替えると言い出したのです。それがローレルでした。ある日それを乗って来たのです。やはり中古で4年落ち程度でしたが、金色っぽい車体でお洒落な感じ。グレードは1.800ccのGL。4ドアのハードトップでエアコン装備。車体はかなり大きく感じ、一気にジャンプアップしたような感じでした。そしてこの車のウリはオートマティック車でした。兄は社会人でもあり、少し落ち着いた車が欲しかったようです。それは普段の趣味のレースでガンガンと走っているという事もあったようでした。

兄は私に「今よりいい車になるんだからいいだろう!」と言って、あっという間にカリーナを下取りに出し、このローレルを買ってしまったのでした。金銭的な事は兄が全て負担しました。そして、その後も平日は私、土日は兄のような配分で車を運転していましたが、この車になってからはその配分がかなり変わって来ました。このローレルは兄はとても気に入っていました。なので平日の夜なんかもかなりの確率で乗って行く事が多くなったのでした。

それでも空いている時は、私もこの車でドライブをしていました。しかし、カリーナの時とは違い、何と無く使いづらくなって来たのです。とにかく兄の使う時間が数段多くなったのでした。さらに、大きくなった車は私はとても運転にプレッシャーを感じました。兄が大切にしているから、なおさら感じたのかも知れません。ボンネットが大きく膨らんで見えて、特に左の先が見えずらいのです。私は、がたいは大きい方なので、こんな事は今まで無かったのでした。また初めてのAT車というのも何か違和感がありました。

今まで乗った事のある車は、全てマニュアル車でした。そしてキビキビ走っていた感覚だったのですが、このローレルは、大きい車体をATでゆっくりした感覚で動かす感じでした。確かに当時のこの車のテレビのコマーシャルでも、歌手の上條恒彦が「ゆっくり走ろう〜🎵、」と歌っていましたから、この車のコンセプト自体がそうだったのかも知れません。ローレルからは、車とは余裕を持って贅沢に走るのだと言われているようで、兄は正にそう言った乗り方をしたかったようでした。しかし私はあのキビキビと走るカリーナの走りが好きでした。そしてはやり気になったのが、燃費でした。

カリーナはリッター10㎞程度は余裕で走っていました。しかしこのローレルは大体がリッター7㎞程度。エアコンはあり、静かな室内、ATなので余裕な運転が可能でしたが、学生の私には少しでも燃費がいい方が良かったのでした。またこのローレルは彼女の評判が悪かったのでした。まるでお父さんの車を借りて来たようだと言うのです。所謂、年相応に見えないと言うのです。学生には不釣り合いな車だと言うのでした。また乗り心地もあまり気に入らなかったようなのです。

サスペンションがゆったりしているからか、加速の時やブレーキの時など、または左右に曲がる時などは、まるで船のような具合で車が揺れるのです。これは感じ方の問題なので、何とも言えません。彼女はこういった、船のような揺れに弱く、車酔いしてしまうと言うのです。確かに高級車なのだろうけど、このサスペンションの具合が合わないようで、あまりドライブにも着いて来てくれなくなってしまいました。

その後も兄との共同保有の状態が続いたのですが、このローレルは、確かに買い替え代金は兄が全て出しています。私の割合はかなり少ない金額なので、何となく乗る時は兄に対して「車を貸して」という感覚になってしまったのでした。これは何か違和感がありました。そして段々と使う時が競合するようになって来たのです。しかしそうなると兄の方が強いのは、何となく昔からの流れです。この辺りがフラストレーションになり出したのでした。

何となく、このローレルとは疎遠になって来ました。そして私は、自分専用の車が欲しいという願望を持ち始めて行きました。持ち出した15万円という金額をどうしようかとかは思いませんでした。兄に返せというのも何か筋違いな気がして、それには目もくれず、何とか自分の車が欲しくなり、それに向かって前進するようになっていたのです。そして、その準備を始めます。父にはもう一台駐車場を何とかならないか直談判しましたし、保険の件もどういった物が分からなかったので、保険の人に会って金額を確認したりしました。父は、こう言った根性ある行動は結構好きな人間だったので、「自分で何とかするなら駐車場と保険は何とかしてやる」と、言ってくれたのでした。

そして、私はこの時から車の雑誌に載っていた中古車情報を小まめに見るようになったのでした。しかし、車の種類や性能をそれ程細かく知っている訳でも無かったのでこの車の選定には手こずり、また中々目を引く車も見つからず、暫くは兄との共有状態で、このローレルに乗っていたのでした。このローレルからは、自分の好きな物というのは共有では無く、絶対に自分1人で所有するべきだと言う信念を貰ったと思っています。そして、この辺りから貯金という物をし出したのでした。

ローレルと彼女のショットはこの写真しかありません。本当に嫌いだったんだと思います😅。f:id:x-japanese:20230826162302j:image

 

496.私の愛車遍歴の思い出、9

今回は私が初めで買った車、カリーナです。車の運転にも慣れ、そして社員さん達の乗用車を借りて乗ったりなんかしていると、やはりトラックとかでドライブするのはもう卒業したくなって来ます。自分も自分だけの乗用車でドライブがしたいと思うようになりました。この頃になると、鉄道の雑誌より車の雑誌を読む事が多くなりました。「カートップ」とか「ベストカーガイド」、「月刊自家用車」等、当時から車の雑誌は結構多かったです。そこにはたくさんのカッコいい車の情報が、写真と共にありました。しかし値段を見るととても学生の私が買える訳がありません。父はそもそも乗用車に興味が無いので買う気はさらさら無し。それでもその雑誌を見ながら、いつか自分の車を持ってみたいと思ったモノでした。

それは兄も同じ気持ちだったようです。兄は車の趣味があり、仲間内でレースをやっていた関係で車関係の知人が多く、この頃から色んな中古車の情報を持って来ていました。この時、私は初めて中古車という概念を知ったのです。新車では手が届かなかった車も、中古の車なら手に入れる事が可能な値段です。しかも年代さえ許容出来れば、かなり安価な値段で買う事も可能なのが理解出来ました。そしてある日、兄が一台の車を乗って来たのです。それがこのカリーナでした。

その形は中々カッコいい。2ドアのハードトップスタイル。サイズ感もちょうど良く、白色のそのボディは思わずいいなあと思ったのです。確かコマーシャルで、「足のいいヤツ」と宣伝されていたのは知っていました。しかし兄も私も同じように金欠状態でした。社会人になっていたとは言え、やはり車の趣味と言うのはカネが掛かるのでしょう。すると兄は、私と共同で買う事を提案して来ました。一瞬躊躇しましたが、兄は社会人、私は学生。乗る時間帯はそれ程は被らないだろうと思ったのです。私もこのカリーナは結構気に入りました。女の子とデートをする車としては十分です。私は了解と言いました。

車の性能とかは兄が詳しいので、その辺は任せました。値段は仲間内という事で、かなりの好条件でした。諸経費込みで35万円。兄が20万円、私が15万円出す事で決まりました。しかし肝心の駐車場です。さらに自動車保険。これには参りました。車と言うのは買うだけでは足りず、所謂ランニングコストが掛かるのを初めて知ったのでした。しかしこれは兄が父と相談していたのです。幸い駐車場は、我が家の会社の資材置き場に余裕があった為、そこに置かせて貰える事になっていました。あとは保険。これも会社に保険会社が出入りしていた関係で、父がその分は負担してくれる事で、無事にカリーナはやって来る事になったのです。

このカリーナ、確か1976年位の年式、4年落ち位だったと思います。排気量は1,600cc、5速マニュアル、グレードはST、2ドアのハードトップ、カセットプレーヤーが付いていましたがエアコンは無し。当然ナビなんてありません。兄はGTグレードが欲しかったようですが、私はそんな事はお構いなし。これで、もうトラックでのドライブからは卒業だと、まさに天にも昇る気分だったのでした。このカリーナでも学生の分際では十分な車でした。私はドライブに行く時は平日に学校をサボり、出掛けて行くようになりました。

カリーナがやって来たのが初夏の頃だったので、そろそろ暑い季節です。エアコンが無かったので、もちろん窓全開で走っていました。それでも当時は爽快な気分でした。確かに渋滞時は暑いと感じる事はありましたが、今のような殺人的な暑さでは無かったので、夏になってもエアコン無しで十分走れたのを覚えています。

そしてこのカリーナでは、本命の女性を積極的にデートに誘いました。この女性はオースターの一件の子で、現在の妻です。高校の時の鉄チャンデートをして、フェードアウトしたのに、ひょんな事からまた合うようになっていたのでした。しかし、一般的に女性は車にはそれ程興味無いようです。しかし、そんな事はお構いなし。当時の若者は、こぞって彼女が出来たら車でデートがステイタスでした。箱根方面や、三浦半島伊豆半島へ海水浴にも行きました。しかしやはり車はカネが掛かる。そして、出かけるにもガソリン代はもちろん、食事や駐車場代なんかも掛かります。お洒落な場所ほどそれは高額になり、私はさらにお金を稼ぐ為、色々なアルバイトをやったのでした。

そして友人ともよくドライブに行きました。土日は兄が使う事が多かったので、私は大体が平日か夜が多く、夜は友人と横浜や江ノ島の方へ行ったり、または学校まで乗って行って、帰りにドライブして帰って来る事をよくしていました。本当にこのカリーナ、私に翼を付けてくれたようで、行きたい時に行きたい所へ、自分の運転で行く事が出来たのです。この世界観は初めての感覚。自分の車が持てた事で、自分にも自信が付いて来たような気もして、あの自信の無い喘息人間はどこへやら。高校の時に再発していた喘息も影を潜める感じで、積極的な人間へと変貌して行ったのです。これはかなり、このカリーナのお陰だと思っています。

しかしこのカリーナ、思わぬ事でお別れをする事になるのでした。f:id:x-japanese:20240302231026j:image
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495.私のX-JAPAN奮闘記31

今回は、先日行ってきたToshIのディナーショーの話です。いきなりですが、このディナーショーはとにかく高い😵‍💫。値段は想像にお任せしますが、第二の会社員生活になった身にはさすがに応えて来ます。しかし、今回は何と、今話題になっている麻布台ヒルズのレストランで開催と来れば、一度は行ってみたいと思い、ちょっと無理をして来てみたのです。このレストランは、以前は四谷にあった、あの有名な三國シェフが開店したお店。その上の階にはイベント用のホールも完備されており、コンサートはこのホールで行うとの事で、期待してやって来たのです。

とにかくX-JAPAN系は、YOSHIKIが絡んでいるからか、昔から値段が高いです。しかし内容はそれなり。豪華だしとにかく満足度が違います。もちろんファンだからでしょうが、一説には転売ヤー対策とも言われています。その値段には、行く前はディナーショーは今回で最後にしようと思うのですが、ショーが終わると絶対にまた来たいと思ってしまう内容なのです。

今回はまるでお登りさん状態で、都心に出向きました。まずは麻布台ヒルズがどこにあるのかが分からず、すったもんだ😵。我が家からだと六本木一丁目が最寄り駅と分かると、それは何線なのかですったもんだ。当日も現地に着いたはいいけど、三國のレストランがあるJPタワーがどこにあるのかで、すったもんだ。そのビルに着いても、どこからレストランのある33階に上がるのかで、すったもんだ。時間的に余裕を持って、麻布台ヒルズを少し見学してから入ろうと思っていたのに、結局、開場時間間近に着けたのでした😅。f:id:x-japanese:20240318171650j:image

今回のディナーショーは、まず三國のレストランで食事、その後コンサートです。まずは美味しい料理に舌鼓。この三國のレストランは、四谷にあった頃から、このToshIのディナーショーで食べていますが、本当に美味しい。妻はここの大ファン。ランチは来た事がありますが、ディナーにはまだ来た事が無いので、一度は個人的に来てみたいと言っています。

席に着くと、この食前酒がお出迎え。このビジュアルが素敵ですよね。こういったお洒落で贅沢な気分になれる事も、このディナーショーのいい所であります。f:id:x-japanese:20240318172751j:imagef:id:x-japanese:20240318223143j:image
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周りを見ると相変わらず着飾っているご婦人達が大勢います。しかしその中にはチラホラ男性の姿も。以前よりは増えている感じです。これは「艦これ」と呼ばれる、ゲームとアニメ系の新しい世界のファン層です。私のくくりではそのファンの中のさらにコアな、8.0世代と言った所でしょうか(397回目のブログを見て下さい)。ToshIも本当に次々と新しいファン層を開拓していると言えます。ToshIはこの「艦これ」の世界では「提督」と呼ばれています。一度だけそのイベントに行った事がありますが、また違ったToshIが見れて面白かったのを覚えています。それにしてもこのイベントには、所謂男性のマニア達が結構集まっており、何か鉄チャンと同じ匂いのする連中がたくさんおりました。それには少し引いてしまったのを覚えています😅。それにしても、営業が長かった私は、その開拓精神と努力には、本当に頭が下がります。

美味しい料理を堪能後は、お待ちかねのショーです。場所を上階へ移動。そしてそこからは撮影NGです。そのホールはこのディナーショーの人数に丁度良く、席もゆったり。前の四谷のレストランとは雲泥の差で(四谷はとにかく狭かった〜😵)、贅沢な気分。また34階なので夜景も最高。東京タワーやお台場の景色が見え、また遠くには羽田空港に発着する飛行機が見えます。本当にとても雰囲気のいいホールで、ToshIの歌を存分に味わえそうな期待感で一杯になります。

そしてショーの始まりです。ショーはいつものようにToshIの素晴らしい歌声で、時はあっという間に過ぎて行きます。ところで、私はいつもバラード系の曲は静かに聞いて、ロック系のハードな曲には、デスボイスならぬそんな声で「ToshI〜」と、声援を送るのが常なのですが(X-JAPAN時代を偲んでです。もちろん歌舞伎のように、絶妙なタイミングでです👍😅)、この日のToshIは、「今日は随分とノリノリだね〜。前日まではお淑やかだったね〜」とか言っていたのです。やはり、ファン層が変わっているのだと思いました。以前ならば、私と同じようなファンがたくさん声援を送っていました。まあ、コロナ禍も悪かったのでしょう。コロナ禍が明けているのに最近は静かめのコンサートが多く、私も声掛けを迷う事も多々あります。妻には、「もう声掛けはやめた方がいいんじゃない?」とも言われています😅。

実際、前回のコンサートの時、私が声掛けをした時に、近くの女性達が一斉に私を見て、ビックリした顔をしたのです😳。その後はそれに呼応するように、周りから少しずつ声掛けが出て来ました。最後には大盛り上がりとなった訳ですが、ショーの後にこの女性達に、「今日は盛り上げて頂いて、ありがとうございました」と言われた時には、何か別世界に来たような拍子抜けな気分になり、妻が言うように、声掛けも考えモノかなとも思ったのです。もう私のようなX-JAPANのToshIを知っている1.5世代のファンは、このコンサートには必要無いのかと、少し感じているこの頃なのです😔。しかし、今日のような言葉をToshIが言うと、やはり適度な声掛けは場も盛り上がるし、嬉しいのではないかと思ってしまいます🤔。

また、今回はサプライズとして、先日亡くなったHEATHの曲を歌うという企画がありました。これにはHEATHを知っている世代からだと思いますが、啜り泣く声が会場に聞こえました。もちろん私も妻も涙ながらに聞いていました。歌が終わるとHEATHのベースが立てかけられ、それはまるで、X-JAPANが復活した時の、HIDEのギターが立てかけられている映像その物。それにも涙が溢れて来てしまいました。

そしてショーは今日も盛り上がり、笑いあり、感動あり。やはりまた来たくなるディナーショーとなったのでした。そして会場を後にする前に、私と妻は、立てかけられたままの、HEATHのベースを見に行きました。昨年の葬儀の時にもたくさんのベースギターが飾られていましたが、これ程近くには見られませんでした。この時は、目の前にそのベースを見る事が出来ました。それを見て2人で暫く絶句。妻はこのベースに付いていたストラップを見ると、「これ、私、覚えている」と同時にボロボロと泣き出してしまいました。周りを見るとそんなファンが数名、同じように涙を流していました。妻は暫く涙が止まらず、たまらずにその場を後にしました。

そして先程のレストランがある33階へ移動。ここからはさっきのコンサートのホールが大階段で繋がっていました(この日は封鎖されていました)。そこには、まだコンサートの余韻が醒めない人達がいるのが見えました。またこの階は、一部が展望台になっているので、ここで夜景を見て少し落ち着かせる事にしました。f:id:x-japanese:20240318220819j:image
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そして2人して落ち着きを取り戻し、やっと家路に着く事が出来たのでした。f:id:x-japanese:20240318221143j:imagef:id:x-japanese:20240318224215j:image

今回もコンサートはもちろん、HEATHのサプライズもあり、本当に最高のショーでした。まさかここで、HEATHに改めてお別れが出来るなんて、そしてこんなに近くで彼を感じられるとも思ってもみなかったのです。これもToshIのファンに対するさりげない思いなのだと思いした。YOSHIKIも確かに盛大な葬儀を執り行ってくれましたが、このToshIなりの思いには、本当に感動してしまいました。そんな事を語りながら駅までの道を歩きました。そしてやはり、また来たくなるディナーショーになったのでした。そしてこのHEATHのベースを見たら、X-JAPANの復活を願っていた彼を思い出します。お願いだからHEATHの為にも、復活して欲しいと思いながら家路に着いたのでした。

 

 

 

 

 

 

494.私の愛車遍歴の思い出、8

カッコいい乗用車に興味を持ち始めた私。そして他の会社の人もどんな車に乗っているのか知りたくなりました。すると、そのうちの1人が、とんでもない車を持っていたのです。それはロータリーエンジンを搭載した当時の高級車、コスモでした。豪華な内装、当時珍しかったエアコンも装備。そして何と言っても流れるようなボディは羨望の的でした。加速は当然ですがダットサン以上。そして、このかっ飛びダットサンの運転手が、このコスモを持っていたのでした。

この人はスピード狂だったようです。ある日、それに同乗させて貰いました。そしてこのコスモは半端なく早かった😳。信号が変わると今までに体験した事のない速さ。ロータリーエンジンを積んだこの車体は、加速ではまず他の車には負けません。車の雑誌を見てそれは知っていましたが、ここまで速いとは思いませんでした。この大きく重そうな車体をここまで加速されるのだから、余程のパワーもあるのだろうと思いました。f:id:x-japanese:20230618132933j:image

しかし燃費が超悪かった。先日、ドライブでお世話になったオースターは1600cc程度で、リッター10㎞程度は走りました。しかしこのコスモ、都内を飛ばしてドライブしたとは言えリッター3㎞程度。ロータリー車は燃費が悪いとは聞いていましたが、これ程とは思いませんでした。しかしこんな車でドライブしたら女性にモテるだろうな〜、なんて思い、貸してくれるのかと聞くとあっさり快諾。しかしこの時は一緒に行ってくれる女性が見つからず、仕方なく男友達数人で、とある日曜日、ドライブに出掛けました。

友人は、コスモと聞くと二つ返事で乗りたいと快諾。この頃は車好きな仲間も増えていました。結局3人連れて鎌倉の方へドライブへ行きました。そして、江ノ島辺りを走り快適にドライブして、家路に着こうとした時です。ガソリンの燃料計がEの辺りを示していました。距離的にこのまま帰れる燃料は無さそうに思いました。そしてガソリンスタンドを探しますが、当時は観光地では、土日となるとガソリン代が高騰する感じだったのです。

当時の東京近辺のリッターあたりの値段は150円前後だったのですが(今とあまり変わりませんね〜😳)、この湘南辺りでは180円を超えていたのです。たかが30円なのですが、これがとても耐えられませんでした。なぜガソリン代って、あんなにも少しでも安くと目の色を変えてしまうのでしょうか。私は、適当なガソリンスタンドを見つけ入り、少しだけ入れて、帰ったら近所のスタンドで満タンにして返そうと思いました。社員さんからは、遠出をすればリッター7㎞は走ると教えて貰っていたので、この時は帰るギリギリの燃料を入れようと思ったのです。当時はそれ程お金も無かったのでした😅。

当時のガソリンスタンドは、車が入って来ると元気のいい店員が走って来て車を誘導してくれます。そして決まって「満タンですか〜」と聞く感じだったのです。私は、今までガソリンを入れるのは会社と契約していた近所のスタンドでした。なので当然に会社のトラックでスタンドに行くと、「いらっしゃいませ〜、満タンですか〜」が当たり前の出迎えだったのです。そして私は考えてみると、そのスタンド以外でガソリンを入れるは初めて経験だったのです(オースターの時は会社のツケで入れちゃったのです😅。これも後でバレました😵)。

私は少し恥ずかしながら、「5リットルお願いします」と言ったのです。その時の店員の顔が今でも忘れられません。車を再度確認してから驚いたように、「5リッターですか?」。それはそうです。高級車の部類に入る「コスモ」で入って来れば大体が満タンをイメージします。それがたった「5リットル」です。私がそれに頷くと、店員は元気よく「5リッター入ります!」と叫びました。するとその他の店員がそれに呼応。「5リッター入ります」「5リッターありがとうございます〜」と波乗り挨拶です。これにはかなり恥ずかしくなりました。まるで「高級車を乗ってるくせに貧乏人が!」と言った感じで見られたようでした。ふと友人を見ると、友人も相当恥ずかしかったようで、皆うつむき加減でした。あっという間に「ガソリン5リッター入りました〜!」の声が響きます。気がつくと回りの車の運転手達も我々を見て笑っているようです。私は急いで、1,000円札を出しお釣りを貰い、思い切りアクセルを吹かしてスタンドを後にしました。

この事は友人の間で、後世語り継がれる事になったのです。未だにこの連中と飲みに行くと、この時の「5リッター事件」を話題にされ大笑いされます。そしてこれが教訓となり、資金的に余裕が出来るまでは高級車と呼ばれる車には乗らないと思ったのでした。今ではガソリンスタンドはセルフスタイルとなり、店員も出て来ず、セルフですから自分で簡単に入れられる時代になりました。そして機械で操作が行われるので、満タンはもちろん、金額優先、数量優先とかを選ぶ事が出来、それこそ「5リットル」を入れる事も簡単に恥もかかずに入れる事が出来ます。

最近、私はガソリンを入れに行った時、財布を忘れ、ポケットに500円程度しか持っていなかった時があったのです。一旦戻ろうかと思いましたが、とりあえず数リッター入ればいいと思い、3リットル入れました。すると機械は馬鹿にしたそぶりも見せず、大声を張り上げる訳でもなく、私は恥をかく事もなくせっせと補給してくれました。私はこれがあのコスモの時にもあったら、こんな大恥をかかずに済んだのにと、強烈に思ったのでした。今はいい時代になったと思いました。先日は、今度は金額優先で、1,000円で操作した所、スマートに数リットルとちょっと入って終了。これは本当にいい時代になったと思ったのでした。

このガソリンスタンドの機械。私は、これを考えた人は、昔の私のように、若い頃少量のガソリンを入れる時に嫌な思いをしたのかなあ、と思ったのでした。こう言った、「見返してやる」という感情はとても大切であると雑誌で読んだ事がありました。私もこのコスモ事件が、あのスタンドの社員に対して、「今に見返してやる」と自分の人生を頑張ろうと思ったのは間違いありません😵。

 

493.私の愛車遍歴の思い出、7

家にトラックがあったので、車の運転は専らこれらのトラックを使ってやっていました。お陰で随分と運転は上手になり、また配達をしていた事もあり道も随分と覚えました。そして兄の影響もあり、少しずつ色気付いて来て、デートに誘ったりする女性とかも出来たりもしました。当時の我々の年代の、女性とのデートと言えばもちろんドライブ。そして、高校の時のような「鉄チャンデート」で失敗しないように(213回目のブログをお読み下さい😅)、自分も女性とのデートでは、絶対にドライブに行こうと思うようになったのです。しかし、まさかトラックでデートをする訳には行かないです。運転には自信がありましたが、女性を乗せる車が無いのです。レンタカー等は何か敷居が高そうで、とても借りるなんて無理。何とか乗用車と言う奴を用意する事は出来ないかと、悶々として過ごしていたのです。

そんな時、救世主が現れるのです。それは会社の社員さんでした。家の手伝いで配達の準備をしていた時に、デートの話をしたのです。すると社員さんが「それなら貸してあげようか」と言うのです。当時は車の貸し借りはそれほど珍しい事では無かったように思います。今では保険の関係もあり、事故を起こしたり車をぶつけたりなんかしたら面倒な事になりますよね。しかし当時は結構車の貸し借りなんか普通に行われていたように記憶しています。私は「いいんですか?」と軽い感じで聞き返すと「いいよ」の返事。私はその時に、また付き合うようになった彼女とのデートにその乗用車を使いたいと思い、デートの日程を決めて借りる事にしたのです。

その車は、ニッサンのオースターと言う車種で、聞いた事が無い乗用車でした。当然ネットも無いのでどんな車なのか知らないし、調べようもありません。そして当日、その社員さんから鍵を貰いました。確認の為、駐車場に行くとその車は止まっていました。2ドアの中々カッコいいスポーツ車のように見えました。中を覗くと、シフトレバーもトラックとは違いコラムシフトでは無く、フロアシフトです。教習所と同じなので懐かしい感覚でした。しかし色は結構地味な薄い緑色いうかベージュ色と言うか中々微妙な色。こんな赤だったらカッコ良かったのにと思いました。(この写真は車のパンフレットから引用しました🙇‍♂️)f:id:x-japanese:20230617215725j:image

しかし贅沢は言えないので、改めてお礼をして借りる事にしたのです。そしてその時に社員さんから一つだけ注意がありました。

「セカンドギアの入りがちょっと悪いから、気をつけて」。私はその言葉にあまりピンと来ず、そのままデートの約束をした彼女の待つ学校まで出発して行ったのです。そしてドライブの定番、湘南の海まで出掛けて行きました。季節は初夏で気持ちいい季節でした。そしてその日は私は学校をサボって準備も万端。道は空いてるし湘南の海岸辺りも空いています。気になっていたセカンドギアも特に問題無く、デートは順調に行ってました。

海岸沿いのドライブはムード満点。景色はいいし道は空いてるし最高のデートとなりました。鉄チャンデートとは大違い。そして、この日は初めてのドライブデートだったので結構疲れるだろうと、ボロが出ないうちに早めに帰路に着き、家まで送ろうと思っていたのです。しかしその帰路の途中に、落とし穴が待っていたのでした。上り坂を走っていた時です。前方で急に止まる車がありました。私はビックリして減速しました。そしてその車を追い抜き、加速するために4速から2速へシフトダウンをしました。するとここでシフトが入りません。いくらレバーを2速に入れようとしても入らないのです。

車はクラッチを切ったまま(この状態を説明すると長くなるとで説明は省略します🙇‍♀️)、ニュートラルの状態ですから、直ぐに速度が落ちて来ます。すると後続の車がクラクションを鳴らしたのです。これには私は少しパニックになり、更に慌ててシフトレバーを操作。やっと2速に入ったと思ったら、既に速度は止まりそうでした。すると今度は2速では厳しい速度です。すぐにノッキングの症状(低速域でシフトが1速より上だとエンジンに負担が掛かり、車が前後動して最悪エンジンが止まってしまう現象です)、になり久しぶりにエンストしてしまいました。すると後の車からクラクションの嵐(クラクションも当時はよく使われていました😵)。

すぐにエンジンを掛けますが、今度はエンジンが掛からない。あまりアクセルを踏み過ぎるとガソリンがエンジンに供給され過ぎ、点火しずらくなるのです。私は完璧にパニックになりました。止まったまま悪戦苦闘しますが、車はびくともしません。道の真ん中に立ち往生した状態です。後の車は私を睨みながら横をすり抜けて追い越して行きます。私は呆然としてしまいました。彼女も何か言っていたのでしょうが全く気が付きませんでした。後の車が居なくなり、少し落ち着いて来たのでまたエンジンを掛けてみると、今度は掛かりました。恐る恐る1速に入れクラッチを繋ぐと車は動き出しました。そして路肩に車を止め、暫くハンドルに突っ伏していました。やっと落ち着いて来たので、彼女に話し掛ける事が出来たのでした。

「ごめんね。大丈夫だった?」と言いましたが、心の中では「またやらかしちゃった😔」と思いました。これでまたカッコ悪いと思われて、この人とはフェードアウトしてしまうのだろうと思っていると、彼女はそんな事は無く、逆に私を気遣ってくれたのでした。これには大感激😀。こう言った時に逆ギレされたりとか、カッコ悪いとかの態度を取られると、男性というモノは萎えてしまう物です。このドライブによってこの女性を改めて好きになり、その後も猛アタック。この酷い経験もいい思い出となり、これを機会にますます乗用車に興味を持つようになりました。

492.ジジとお孫のハチャメチャ鉄チャン旅29

ここでちょっとこのテーマ。今回は私が一度行って見たかった、神奈川県の寒川神社の近くの、廃線跡に行って来た話です。そこに到着すると、まあよくこんな保存をしてくれたモノだなあと思わず感心。そして昔はこんな廃線跡が結構あったなあと、感慨に耽ってしまう程の光景でした。そしてこんな所、お孫ちゃんは一緒に来てくれるかなと初めは思いましたが、前々回の久里浜での謎の踏切が結構気に入ったらしく、すぐにOKの返事。しかしどちらかと言うと、東海道線に乗りたかったのもあったようです😅。

最近はますますアクティブになって、休日の面倒をお願いされる度合いがさらに増して来ていて、中々面倒を見るのもキツくなっているのが現状です。しかし、この鉄旅は公園とかと違って、走り回ったり追いかけたりする事は無いので、割合とストレスがありません。最近はホームドアがある駅も増えて、そういった意味で安心なのもあります。なのでついつい鉄旅に連れて行ってしまいます。最近は、早く父親に帰って来て欲しい心境と、このまま色んな所に鉄旅がしたいという心境が交錯しており、私は少し精神的に不安定な感じがしています😊。

そんな訳で、当日は娘の住む駅で待ち合わせ。お孫ちゃんを受取り、カートももちろん受け取って、湘南新宿ラインでまず茅ヶ崎へ向かいました。そこから相模線に乗り、寒川駅を目指します。この日は、また発車音に興味があるようで、この茅ヶ崎駅の音が聞きたいとの事で、少し東海道線のホームにいる事にしました。相変わらず計画通りに進みません😅。この駅の発車音は、サザンオールスターズの曲なのは有名な話。まさかお孫ちゃん、それを知っているのかどうなかのか😅。f:id:x-japanese:20240312143336j:image

そしてそれを聞くと、中々ご機嫌な様子。私がこの発車音の説明をします。以前、赤羽駅でもあるアーチストの曲が流れていた事があり、それと同じだと説明すると、お孫ちゃん何故だかノリノリになり、「後でママに聞いてみる」との事。そしてビデオを撮ってご機嫌で相模線のホームへ行きました。

この路線、結構かっこいい電車が走っていました。私のイメージは昔のディーゼルカーです。一体いつの話かと思いますが、それ程、こちらの方には来る事が無いと言う事です。ドアも手動ボタン式です。お孫ちゃん、これにも大喜び。そして寒川駅に到着です。f:id:x-japanese:20240312143905j:image
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周りにはファミレス等は無さそう。とりあえずトイレを済ませ、駅前のコンビニで緊急用のお菓子と水を買い、廃線跡までのウォーキングがスタートです。距離的には1㎞位ですが、割合と駅の近くから遊歩道があって、結構遊びながら歩けるので、これは皆さんにもお勧めです。遊歩道は、地元の有志の方達による飾り付けや花壇、そしてベンチもあり、とてもほのぼのする感じです。

そして何やら廃線跡らしい物が見えて来ました。お孫ちゃん、それを見つけると一目散に走って行きます。すると車輪のオブジェがお出迎え。その先に、今にも列車が走って来そうな、ムード満点の廃線が現れます。f:id:x-japanese:20240312144726j:image
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ここは公園の一部になっていて車も来ないので、思う存分に遊べます。お孫ちゃんはおおはしゃぎで線路の周りを走ったり、線路の上を歩いたり、石を拾ったりして遊んでいます😊。私はのんびりとベンチに座り、それを見ていました。こんな公園が近所にあったらさぞいいだろうに思いました。子供達も結構いて、皆、楽しそうに遊んでいました。そしてマニアのような大人も数人来ており、写真を撮っていました。最近、廃線跡ウォーキングもメジャーになっているようで、それを感じました。

ここでお孫ちゃんを少し休憩させ、お菓子とかを食べさせます。この日はもう一つの目的地、寒川神社にも行く予定なので、あまりここで遊んでいると時間が無くなってしまいます。適当な時間で切り上げます。そしてここから寒川神社までを歩かせようか、それとも一駅電車に乗ろうか考えました。でもまあ、直線距離で1.8㎞なので思い切って歩かせる事にしました💪。そして寒川神社近隣にファミレスを発見。そこでお昼を食べようと出発したのでした。

遊歩道を戻り、相模線の踏切を渡ると、そこには寒川神社の参道が見えました。お孫ちゃんに気合を入れます。「さあ、ここから1㎞位だから、頑張って歩くよ」と言うと、少し不機嫌になります。「ジイジは歩くばかりで嫌だ」とか「お腹すいた」だとか言いながらも何とか歩かせます😅。「鉄チャンは歩かないとダメ」とか言って、なだめすかしながら参道を進んでいると、何やら「水道記念館」なる看板がある横道がありました。お孫ちゃん、こういった勘のようなモノがあるのでしょうか。スルスルっとその横道に入って行きました。「ここ、面白そうだから行きたい」と言いながら、掛けて行ってしまいました。私は変な場所で怪我でもされたら大変と思い、必死で追いかけました😅。

するとそこには古めかしい「水道記念館」なる博物館のような建物がありました。ちょっとした公園もあり小川が流れていて、子供が遊ぶには危険が無いように思えました。とりあえずホッとして、お孫ちゃんが駆け回っているのを見ていました。そしてふと見ると、休日だったのに博物館の建物が開いていました。トイレもありそうだったので、ここでトイレ休憩する事にして、お孫ちゃんを呼びました。そして入ってみると、そこは何だか面白そうな施設。入ると同時にお孫ちゃん、目がキラキラ😅。子供が楽しめそうな、水道関連のプレイランドのようでした。f:id:x-japanese:20240312153535j:image
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ここは結構遊べました。休日だと言うのに混雑しておらず、さらに無料。トイレも休憩所もあり、これはお孫ちゃん、いい場所を見つけたと思いました。漏水体験など、凄いマニアックな展示もあり、子供達も好きそうな展示がたくさん。しかしここでお孫ちゃん、超ハマってしまい、時間はどんどん過ぎて行きます。これには参った。何度も帰ろうとか、次に行こうと言っても、全く動かなくなりました。それだけゲームのような物がたくさんあったのです。

その後、やっとの事でそこを出ました。しかしお孫ちゃん、水道記念館で結構遊び疲れたのか、中々歩きません😅。仕方なくカートにしがみついてもらい、お孫ちゃんを乗せてカートを引っ張って行きました。そしてファミレスに到着、遅い昼食を食べました。そしてやっと寒川神社へ着いたのは夕方の4時。この後、大船の観音様に寄る予定でしたが、それはキャンセル。寒川神社で、娘と赤ちゃんの健康と無事をお参りしました。おみくじは惜しくも中吉。しっかりと結んで帰って来ました😅。f:id:x-japanese:20240312172124j:image
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そして寒川神社の最寄駅である宮山駅まで歩きます。菜の花が満開の河原や高い建物が無い道を、のんびり2人して歩きました。そして駅に到着。ここは無人駅でした。駅正面にタッチ式の改札があるだけの駅は、お孫ちゃん不思議だった様子でした😅。そして線路も単線。結構電車が来ず待ちましたが、ここでも駅や単線の話をして、楽しい時間が過ごせました。f:id:x-japanese:20240312154814j:image
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茅ヶ崎に着くと既に5時近く。帰りが遅くなって心配でしたが、ここでお孫ちゃん、一度、辻堂駅で降りるとの事。そこでまた発車音の確認がしたいそうです。このこだわり具合が何とも子鉄です😅。そしてその駅で一旦下車、しかし大した音では無かったようで、すぐに次の電車に乗りました。その車両はボックスシートでガラガラだったので、お孫ちゃんとワンボックスを占領して、楽しく家の駅まで帰ったのでした。f:id:x-japanese:20240312155136j:image

今回は、鉄旅と言うか、記念館で遊んだだけのような旅でしたが、お孫ちゃん、かなり楽しそうでした。そして帰りの電車では、「あの水の博物館、僕は何かあると思ったんだ😅」とか言って、自慢をしていたのが面白かったのでした。確かに私では絶対に入って行かないだろう小道を、お孫ちゃんさぐんぐんと進んでいったのです。子供は本当に面白い所を探す能力があるのか、とても感心した今回の鉄旅でした。