前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

259.私の会社員時代、やってらんない記憶.14

このセコさについてはその後も色んな人やシチュエーションで見る事がありました。それをいくつか書こうと思います。

まずはある時、店長がお客様の親睦旅行に遅刻をして来た事があったのです。それだけでも十分なおバカ店長ですよね。この店長はこれからもたくさん出てきますのでお楽しみに。因みにこの店長は、営業旅行や記念の歓送迎会などにも良く参加して来たのですが、前回のブログの店長と同じように、寸志一つ持って来ない本当にセコイ奴だったのです😵。こいつは分かり易いように敢えてバカ店長と表示します。

その旅行は私が随行員でした。出発は早朝、場所は例によって温泉。お客様は既に集まり、バスは出発を待つばかり。しかし出発の挨拶をする店長が来ません。これは一大事。自宅に連絡すると、たった今出勤したとの事。愕然とする私。今自宅を出たという事は定刻には完璧に間に合いません。仕方無く、随行員の私が挨拶をして出発をするという、前代未聞の事が起きたのです。この時はかなり動揺して大変だったのを覚えています。その後、旅行は幸いに順調に進み、昼食会場に入りました。そこに電話が掛かって来ました。その店長からでした。平身低頭な感じで謝っていたので、もう済んでしまった事だし、順調に行程もこなせているので私は特に何も言いませんでした。

しかし、問題はその後でした。この店長は私が帰って来た時に、お詫びで一杯行こうと言うのです。私はこのような随行の後はとても疲れるので、すぐに帰りたい派なのですが、どうしても行こうと言うので仕方無く着いていきました。その間、お詫びを再度され、その他にも旅行の話とかをされましたが、私が疲れてると言うと割とすぐにお開きとなりました。そして会計です。皆さん、もう想像出来ると思いますが、そうです、2人分にも拘らずまさかの割り勘でした。それも安いチェーン店です。これには私も頭に来て、「は?、割り勘ですか?」と聞き直しました。しかし、それ以上言うのはやめました。

またこんな事も良く見ました。私はタバコを吸わなかったので被害はありませんでしたが、当時は営業では約7割方の人が吸っていました。そこに当時の店長(これはバカ店長ではありません😅)が良くやって来て業績の話をしながらタバコを吸うのです。今では考えられませんが、それは当時としては普通の風景でした。そこである事が起きるのです。喋っていると当然タバコは吸い終わります。そこでその店長は喋っている営業に向かって「席に戻って取ってくるのは面倒だから、悪いけどちょっと一本くれる?」と言い、また吸い出します。これが一人では収まりません。そして3〜4本程度吸った後、店長は席に戻って行きます。するとその後、それを真似た先輩が同じような事をするのです。「悪いけどタバコ切らしちゃってさ、ちょっと一本くれる?」。こんな事が日常茶飯事。こいつら他人のタバコで吸い溜めしているのでは本気で思っていました。当時のタバコは一箱100円程度だったから騒動にはならなかったと思いますが、今はかなりするのですよね。逆に100円程度のタバコ代をケチるなんてと、本当にセコい連中だと良く思っていました。今でもこんな事をしてたら大変なパワハラになる事間違い無いと思います。

そしてそのセコさの最たる物が、今でもハッキリと覚えている事があります。やはりバカ店長がやってくれた事でした。ある日お客さんが来店され日頃のお礼にと、当時かなり珍しい高価な日本酒を2本、持ってきてくれました。年末も近く、忘年会で使いましょうとその時は店全体で結構盛り上がったのでした。私も日本酒は嫌いでは無いので、その幻の酒とやらを一口でもいいから飲んでみたいと、忘年会を楽しみにしていたのです。その後、その日本酒は食堂の目立つ所に飾ってありました。するとある日の夕方です。女子社員が営業の部屋にやって来て、食堂でなんか店長や上司達が騒いでますよ、と言って来たのでした。私ら数人で見に行ってみると、何と信じられない事に、その幻の日本酒をバカ店長を始め上司数人で飲んでいたのです。これには怒りを通り越して全員絶句でした。私はもちろん、物腰の柔らかな先輩までも、それには抗議をしました。しかし私はそれ以上に呆れてしまい、またまた、こんな連中の下で仕事をするなんて、どこの店もやってらんね〜と思ったのでした。こんな上司ばかりいたのでは、その下もそうなるに決まっています。最後の方は本当に諦めの境地、自分だけはこうなるまいと、いつも思っていました。

この一件はその後、女性の間でも大騒動となり、その話が本部にまで漏れ伝わり、この店の運営面で大問題となったのでした。そのバカ店長はその後左遷され、ざまあみろと思ったのと同時に、女性の力は凄い、正に食べ物の恨みは恐ろしいと初めて思ったのでした。

珍しい日本酒を見るとあのバカな店長をつい思い出してしまいますf:id:x-japanese:20220805123554j:image

 

258.私の会社員時代、やってらんない記憶.13

私の生まれ育った所は、当時の日本の町は皆んなそんな感じでしたが、ゴチャゴチャした町で商店街の真ん中に自宅兼会社があり、この関係で商店街や町会との付き合いが多くあり、親がしているその付き合い等を小さい頃から見ていました。その時に植え付けられた事は色々ありましたが、最も頭に残っているのは「地元で金を落とそう」という概念でした。

そんな感覚が身についている自分。この会社、やたらと地元という言葉が出て来るにも拘らず、私が営業に配属されて暫く経った時に、やってる事は全くそれとはかけ離れている事にかなりの違和感を感じました。一番思ったのは、仕事終わりの飲み会です。行く店というと安い店やチェーン店ばかり。地元のお客さん関連のお店を使えばいいのに、といつも思っていました。昼食については、当時は会社で支給されていたので外で食べる事は無かったのですが、それでも時折はお客さんのお店で食べてあげれば喜ぶだろうに、と思っていました。逆に事務の部署なんかは文房具屋さんとか、手土産では和菓子屋さんとか、よく地元のお店を使っていたので、こちらの方がよほど営業のようだと感じていました。

そんな訳で、私は夕方のパン屋さんとか喫茶店とかはもちろん、昼食についても小遣いに余裕がある時は良くお客さんの所で食べていました。ある日、それについて先輩から注意を受けたのです。ちゃんと会社が用意した食事をしろと言うのです。私は自分の意見として、逆に先輩達こそ、地元の店とかお客さんの所でお金は落とさないのかと言いました。営業たるもの、時にはそう言った所で食べるとか買うとかするべきであると、持論を言ったのです。また飲みに行く時はチェーン店ばかりでは無く、たまには地元のお店を使うべきとか言ってしまったのです。営業室は不穏な空気になりましたが、私は考えを改める事はしなかったのです。

この先輩達は、地元や顧客を大事にするという意味をちゃんと捉えているのかと私は呆れてしまいました。またまたやってらんね〜という気持ちになり、「少しは金使えよ」と、新人の時に思ったケチな連中が多いと、改めて思ったのでした。それは私を含め、後輩や女性社員に対しても同様でした。

私が一番思ったのは、例えば忙しい月末とかトラブルがあって遅くなってしまった時など、7時も過ぎてくるとお腹も空き頭も疲れてくるものです。そんな時、ちょっと甘い物とかお菓子とか、口に入れられる物などを差し入れすれば、かなり後輩の子達からすればやる気が出る物です。またお客さんからいただいた物等はそれこそ皆に配ればいいものを、後生大事に倉庫に閉まって、そのうちに誰かが持ち出してしまうという事が多々ありました。真実は不明ですが、多分、上司や先輩達が持って帰ってしまっていたと思います。本当いセコイ連中の多い会社でした。

セコイと言えば、こんな事もありました。ある時の営業の旅行の時です。当時は営業部で旅行積立を行っており、それが貯まると親睦旅行に行っていました。それに店長を誘うという話となり、店長は実費で参加する事になったのです。私の感覚では、店長たるもの実費プラス寸志を持ってくると思ったのですが、何と実費ピッタリのお金を持って来たのです。その上、旅行の間は人一倍飲む食う、その上威張る。この、1円でも損しない、元を取るというような行動に一同唖然としたのでした。当時はまだ店長には、部下とのコミュニケーション経費というのがあり、それを使える事は皆周知の事実。今までの店長は当然こう言った物を有効に使っている人が多かったのです。しかしこいつは、そんな気持ちのカケラも無いんだろう思ったら、やってらんないを通り越え、悲しい気持ちになったのを覚えています。

こんな話を、飲み会か何かで他店の同僚と話をしていると、他店では更にひどい店長もいたのです。私はこの店長とは仕事をした事は無かったのですが、こいつはこの部下とのコミュニケーション経費を自分の小遣いにしていたそうなのです。これは経理の女性から聞いた話だそうです。

そして信じられない事に、この店長にはこんな話もあったのです。よく顧客にお祝い事や社員旅行等があると、寸志を持って行く事があります。この店長はその申請がやたらと多かったと言うのです。そして驚愕なのは、その殆どを自分のポケットに入れていたと言うのです。なぜ分かったのかと言うと、寸志を持って行くと、特に社員旅行だったりした場合はお土産とかのお返しを頂く事が多いのですが、この店長になってから、それがやたらと少なくなったそうなのです。そしてある日、それを不審に思った経理の女性が営業に確認するように言ったそうなのです。そしてこの事実が判明したのです。確かに寸志には領収書等はありません。こんな泥棒のような店長もいたなんて、私は本当にこの会社が可哀想になったのを覚えています。

こんなやってらんない連中が上層部にたくさんいるから、部下達もこんな具合なんだろうと、この頃になるとやけに納得していたのでした。

こんな商店街を見ると本当に懐かしくなりますf:id:x-japanese:20220805123224j:image

 

 

 

257.私の会社員時代、やってらんない記憶.12

お客さんと話してある程度仲良くなってくると、お客さんも色々と教えてくれたりします。特に私は新人時代、デキる先輩の後を廻っていたので、その辺りもお客さんは良く分かっており、私の事を気に掛けてくれたお客さんも多かったのです。「あの営業の人の後を回るのは大変でしょう?」なんてよく言われたものでした。しかし、それを逆にウリにして、「本当、大変なんです」なんて言っていると、結構協力してくれたり、新しい顧客を紹介してくれたのでした。またあまりにも頼りない私に、色々と営業のレクチャーをしてくれたお客さんもいました。それをいくつか紹介します。

ある日、あるお客さんのところに営業で訪問しました。するといつものように社長の奥さんが出て来て、一通り話が終わると突然「君、今月色々協力してあげるから、どのくらいがんばってくれるの?」と言われました。私はすかさず、「ありがとうございます。早速帰って上司と相談します」と言い終わらないうちに、「ブブー!」と奥さんが笑いました。私はキョトンとしていました。今でも通用するような顧客への回答ですよね。私は何がブブーなのか尋ねました。すると奥さんはこう言いました。「君、営業失格〜。お客さんからこんな話を貰ったら、大体の事はすぐ回答しなきゃ〜。その位お客さんの経営状態とか信用状態とかは常に頭に入れておかないとね〜😊」と言って大笑いしました。続けて「そんな事じゃ先輩に勝てないぞ」と、私はこれを聞いて凄い衝撃を受けたのです。こんな事、会社では誰も教えてくれなかった、と。そして、これはお客様目線の話。会社目線では営業は上手くいかないという事を感じたのでした。

また違うお客さんからは突然、「君、営業回ってると嫌な客もいるだろ?、どうしてるの?」と言われました。私は正直に「やはり足は遠のきますよね」と回答すると、「君、そこに営業のチャンスがあるんだよ。嫌な客は皆んな嫌だから行かないんだよ。そこに君が行ったらどうなる?」「嫌な客こそ仲良くなってみなさい」。これにも頭に衝撃が走りました。

また、同じお客さんでこんな話もされました。「文句は聞くものだよ。誰も文句なんか聞きたく無いだろうけど、そこに本当のニーズがあるし、聞いてあげる事で客も心を開くものだよ」。これはこの時には釈然としなかったのですが、その後、ある顧客で、あまりにも私に文句を言う人がいたので実践してみました。時間が許す限りずっと聞いていたところ、そのお客さんはある日、「君は私の話をちゃんと聞いている。そしてそれをちゃんと改善してくれる。その姿勢は素晴らしいと思う」とその後大口の受注をくれたのでした。そんな場面はこれに限らず、実際その後も多くの顧客であったのです。

またこんな話をしてくれた人がいました。ある時、最近営業成績が良くなく参ってしまうと、お客さんに愚痴を言ってしまった事がありました。するとそのお客さんが、「たまには自分をサボらせてあげなきゃダメよ」「サボっているとまたやらなきゃという気持ちが出てくるものよ」と言ってくれ、これには精神的にとても気持ちが楽になり、私の心がとても晴れやかになったのを覚えています。

またこれは転勤した時に、新しい店舗の顧客から私の態度が横柄だという苦情が続いた時があり、私が元気が無かった時がありました。そんな時にあるお客さんに訪問すると、「あなた元気無いわね、どうしたの?」と言われて、この所の苦情の話をして参ってると愚痴ってしまいました。するとそのお客さんは、「別に気にしなくていいじゃない。あなたは前の担当と違うというだけで、それがオリジナルなのだから、それでこれからも行けばいいのよ。営業は個性が大事。ウリが大事」と言ってくれました。これにも頭に衝撃が走りました。この時に個性や自分のウリというものを初めて意識したのです。

このように私はお客様に恵まれて、一歩一歩成長していく事ができました。本当の仕事を教えてくれたのは、この人達だと思っています。それにしてもこんな事を教えくれない上司や先輩達、本当にやってらんね〜と改めて思ったものでした。

私は顧客から仕事を教わったと思っています。本当に色々な事を教わり、その度に心は晴れやかになりましたf:id:x-japanese:20220805122753j:image

 

 

 

256.私の会社員時代、やってらんない記憶.11

とにかく早く帰りたい。こんな長い拘束時間はやってらんないと思い、私は子供が産まれて特にその思いが強くなりました。病気の後位から、色々仕事のやり方について考えてたり、効率的に仕事をするように本を買って勉強したりという事をしていたのですが、子供が産まれてからは、それを実行するようになって行きました。まずは本当にこの会社の連中、特に上司や先輩連中と一緒に仕事をするのが嫌になり、なるべく会社にいる時間を少なくする事を始めました。それには肺炎の病気の事もあったのです。私は喘息の持病があった為、もちろんタバコは厳禁です。しかし当時の会社はタバコ全盛期。営業の部屋は特にモクモク状態で典型的な受動喫煙状態でした。灰皿当番と言う仕事もあった位でした。病院では、それも肺炎を引き起こした要因と言われていたのです。

まずは朝はとにかく一番に営業に出ます。その為、訪問時間で朝でも大丈夫な顧客をピックアップ。また決まっていた訪問日も、顧客ごとに確認して変更する事をやり、移動時間を短くして効率的に訪問活動が出来るようにしました。空いた時間は新規顧客の開拓や、既存顧客への売り込みに使い、そして夕方やっている喫茶店とか飲食店の顧客を調べ、そこで仕事をさせてくれる店があるか調べました。そして一番遅く会社に帰って来て後処理の事務をする事にしたのです。そしてそれが終わると帰るという事を、毎日では無かったですが、出来る限りルーティーンとしてやり出してたのです。

夕方の飲食店は、殆どが私の好きなパン屋さんだったかな。夕方のパン屋さんは、その日の後片付けを行なっているような時間だったので、お客さんもホッとしているような感じでした。そこで今日の売れ残り(失礼🙇‍♂️)とパックの牛乳とかを買い、イートインスペースで食べながら、今日の日報を書いたり、稟議書の下書きをしたり、推進資料を書いたり、その他雑用等の仕事をさせて貰っていました。仕事が片付くとお客さんと一通りだべって、時には売れ残りのパン等を買ったり貰ったりして会社に帰りました。その貰ったパンは、帰ってきてまだ残っている女子社員達にあげると歓声が上がり、女子達のご機嫌も随分と取れたのでした。

そして会社に帰ると、私は既に殆どの残務が片付いているので、それを書庫に閉まっておしまいです。そして上司に、帰っていいか聞きていました。最初はあれやったか、これやったかと、いつもの帰る邪魔をしましたが、遅くまでお客さん回りをしているように見せかけて、その上、書類とかリスト作りとかは全て終わって帰ると言っているので、そのうちに言う事が無くなり、渋々帰らせてくれるようになりました。しかし、これは業績が上がっていた時だけの話で、数字が悪い月は中々こうは行きませんでした。なので、益々数字を上げて早く帰れるように頑張ったのです。

業績をあげるなんて、そんな偉そうな事は言うつもりもないですが、こんな活動をやっていたので、成績はいつも大体上位1/4程度にはおりました。時折、業績表彰等も取ったりしていました。やはり、言いたい事を言うには実績が必要です。数字を上げ上司達の反論をさせないようにするのは本当に大変でしたが、早く帰るにはそれが一番の近道でした。この仕事の仕方は私の生活を一変させましたが、唯一のデメリットがありました。それは太って来た事でした。確かに夕飯前にパンや軽食を食べる訳ですから、当たり前です。これには少し参りました😵。

営業の肝と言ったら、とにかく会話でしょう。私はこれは鉄チャンをやっていて慣れていたので、本当に良かったと思っています。また顧客との会話で一番盛り上がるのが出身地のローカルな話です。この辺りも鉄チャンをやっていたお陰で、全国の地名や特徴、名物等は良く知っていました。このブログの182回目の話はその典型で、ひょんな話からお客さんの故郷の話となり、そこから私の宿泊した旅館がお客さんの実家だったなんて事が分かると、これは一気に親しくなる物です。

こんな感じで、新人の時から色々と顧客と会話をしていたので、お客さんも色々と私に教えてくれる事が多かったのです。その辺を書いていこうと思います。

夕方のお客さんとのひと時は、大好きな時間でした
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255.私の会社員時代、やってらんない記憶.10

時間に対しては本当に苦労させられました。本当にこの会社の家族はどんな生活を送っているのか、聞いてみたい位でした。確かにこれだけ有給休暇も取りずらい、平日だったら帰りずらいとなれば、何も出来ません。生活をする上では、奥さんが専業主婦で家にいるしかないと思いました。

しかしそんな中で、私は日々の疲れと無理やストレスからか、風邪をこじらせ肺炎になってしまったのでした。約3週間の入院が必要となり、診断の後、そのまま入院になってしまったのです。たまたま4月の後半に入院した為GWの休日が利用でき、実質は10日程度の休みで済んだのですが、その間は確かに先輩や後輩に迷惑を掛けました。そして病気が治癒して会社に出勤、いきなりまたあの生活が始まるのかと少し暗い気分でいたら、何と上司が暫くは早く帰っていいと言ってくれました。これには驚きと共に、この会社はこう言った優しい所があるので、中々尻をまくれないと思いました。確かに入院生活で寝てばかりいると、その後、元の生活に戻すのは一苦労なのです。

この時はその言葉に甘えて、仕事が終わり次第、帰らせて貰うようにしました。しかし、そこで私は目覚めてしまったのです。それから暫くは6時過ぎには帰るようになったのですが、何と仕事は滞る事は無く、むしろ時間内に終わらせたいと言う気持ちからとても効率的になり、仕事がはかどり業績もほぼ落とす事も無く活動できるようになっていました。

この辺りから、会社の生活を色々と考え直したり、疑ってみたりするようになりました。今まで無理と思っていたけど、案外出来るのではないか。帰りの時間だって絶対無理と思っていたけど、実際出来たのです。そして、もっと効率的に出来ないものか、もっと簡単にならないものか、もっと効果的に業績に結びつけられないか、いつもこんな事を考えるようになりました。しかし、時間に対しては時が過ぎて来ると、また元のようになってしまいました。

そんな事があった年に、私に待望の子供が誕生しました。そしてこの時も、信じられないでしょうが、早退ですったもんだしたのです。私は当時から子供が産まれたら直ぐに駆けつけたいと思っていたので、その頃流行り出した「ポケベル」を契約して、妻に何かあったらポケベルを鳴らすようにと言っておきました。会社に電話してもらう手もあったのですが、とにかく会社を通すと面倒と思っていたのです。この頃は、妻のお腹が段々と大きくなって来る幸福感といったらありませんでした。そして、いよいよ出産予定の月になりました。

そしてある日、営業でお客様回りをしている最中にポケベルが鳴ったのです。いよいよかと思って、公衆電話から家に電話を掛けました。すると妻の母が出て、今入院したとの事。私はすぐに会社に帰り、すかさず早退届を出し帰る事にしたのです。しかし、その時は店長とリーダー、上司が外出していて不在でした。仕方なく他の部署の上司に早退届を提出して帰ろうとしたところ、理由を見てネチネチと小言が始まったのです(この頃は理由もしっかり書かないといけなかったのです😵)。私は信じられない顔でその話を聞いていました。「君が行ってどうするの?」「親に任せておけば?」「会社が終わってから行けば?」等々、言うのです。私は、こいつら本当にやってらんね〜と、それを無視。とにかく帰りますと言って会社を後にしました。今だったら大パワハラですよね。他の部署の連中もこんな奴らばかりで、本当に何とかならないものかと思ったものでした。

その後も、初めての子で妻も大変だし、子供も待望の女の子だったので早く帰りたいものです。しかし、上司や先輩は、「親に任せておけばいい」と、中々帰してくれなかったのです。実は、この出産の数ヶ月前から、私達は妻の両親と同居をする事になり、その辺りも知っているからか、「奥さんの親がいるのだから君が帰る必要はないのだろう」と、言って来るのです。なぜそこまで個人の家庭にまで口を出すのかが本当に理解出来ず、腹立たしさと「やってらんね〜」気持ちが交錯し、ますます反抗したくなる気持ちが大きくなって行きました。

子供の誕生は私にたくさんのパワーをくれましたf:id:x-japanese:20220819083158j:image

254.私の会社員時代、やってらんない記憶.9

結婚をすると、当然に家で待っている人が出来る訳ですが、そうなると俄然気になるのが拘束時間です。独身の時は、家に帰っても別にする事も無く、朝はキツかったですが、夜については特に気になる事はありませんでした。当然結婚したからと言ってその会社の生活は変わる訳がありません。妻が、結婚して初めにビックリしたのが拘束時間の長さでした。付き合っていた当時は、平日のデートとかはしていなかったので分からなかったそうですが、とにかく朝はどこまで通勤するのかと思う位早く起き、夜は一体何をしているのかと思う位の時間に帰ってくるという、とにかくビックリしたと言っていました。特に夜の帰宅時間が、飲みに行ったりしていないにも拘らず、毎日のように10時は過ぎていました。終業時間は5時15分です。どう考えてもおかしい。初めは「いきなり浮気かよ😤」と思ったそうです。

この時間に対しては人事で人が入れ替わっても、変わる事はありませんでした。さらに、何故か上司や先輩より早く帰れないという慣習が根付いていたのです。これは私だけに対してでは無く、全ての店舗が、いや、日本全体がこんな感じでした。とにかくその部署の上司や先輩達が帰らないと帰れないという、暗黙のルールがあったのです。本当に「やってられない」職場環境でした。

営業の仕事は担当者ごとに毎日の量が変わって当然です。その仕事量により、その日は残っても意味が無いという日も当然あるのです。だからと言って早く帰る訳では無く、ただひたすら上司の様子を伺い先輩の様子を伺い、周りを見渡してやる事を探し、机に座っている感じでした。営業なので、手当が付いている分、残業など付きません(事務や経理は付いていました😵。それでも随分と削られていました)。なので早く帰ろうとすると、上司や先輩から、「今月の数字は大丈夫なのか?」とか「推進リストはもう作ったのか?」とか、とにかく邪魔をされるという感じです。

この時間に関しては、相当な間、改善される事は無く、平成も半ばになった頃から、ようやくサービス残業なる言葉が巷で言われ出し、労働基準局の査察が企業に入るようになって来て、改善され始めました。しかし、古い考え方の上司や先輩は中々それを変えられず、長く会社にいる事こそ最良という人間が多く、若い世代にとっては本当に迷惑な連中が多かったのです。

その後、会社も様々な取り組みを始めます。まずは夜9時以降の仕事を禁止という通達を出します。これ自体が既に異常ですよね。そして、その頃、運用が開始されたパソコンについても同様に強制シャットダウンという手段を講じます。店舗業績にも残業時間と施錠時間の項目が追加されます。社長と人事の役員が直々に店長にお願いに訪問、説明に来ます。これでやっと改善されて行きます。そしてその後は、その時間が段々と早まり、8時半、8時、7時45分、7時半となって行きました。そして、そうなっても仕事は回って行ったのです。私はこの状況を正にリアルに見ていましたが、人間やれば出来るという事を肌で感じていました。そして、それを妨害する抵抗勢力には本当に「やってらんね〜」とずっと思っていたのです。

私が、その後リーダーと呼ばれる立場になる頃には、遅くとも7時半には終わらせていました。機械化ももちろん進みましたが、しかしその頃は個人情報保護や事務手続きの厳格化等で、やる事が増えており、仕事量は格段に増えていましたが、就業時間は私が営業に出た辺りに比べると、朝も含めて3時間程度は短くてなっおり、この時間は何だったのか、未だに勿体無い時間だったと思っています。

朝から晩まで仕事と言うよりは会社のお付き合いという感じでしたf:id:x-japanese:20220805093750j:image

253.私の会社員時代、やってらんない記憶.8

私は比較的早く結婚したのですが、この会社ではそれは別段珍しい事では無く、割と若くして結婚されている先輩も大勢いました。そんな環境でもあった為、私も抵抗無く結婚する事が出来ました。しかし私の結婚した頃にはまだ嫌な先輩達は存在していました。元々イジメに会っていた私だったので、この結婚に対してもかなりイジられました。

とにかく私の会社は業歴が古く考え方も古い会社でした。まず私のような社内結婚では無い事に色々言われました。なぜって言われても本当に困ったものでした。奥さんは会社の事が分かっている会社内から選ぶべきだという持論です。前から付き合っていた彼女がいたからです、って言うのもどうかと思うので、その辺の質問は無視していました。また妻は働いていたので、いつまで働かせるのかと良く聞かれました。別にその家庭の勝手でしょって感じですが、いちいち本当にうるさかったのです。本当に「やってらんね〜」という感じでした。

そして一番参ったのが、結婚後も、飲みに連れていかれる時に電話一本掛けさせてくれない事でした。今みたいにケータイがあれば問題無いのですが、この時代は電話が連絡手段の全てです。新婚とは言え容赦ありません。ただでさえ帰りが遅いのに、いきなり飲みに連れていかれる訳ですから、本当に参りました。妻だって食事を作って待っていたり、色々な相談事があったりする事も考えられます。しかし、そんな事はお構い無し。理由としては、妻をそんなに甘やかせるなという事でした。その理由に、「やってらんね〜」と思いながら付き合わされます。そして二次会に連れて行かれた時のある日、この時は何か約束があった時で、さすがに妻に連絡しました。そして二次会のスナックで電話をしたのです。「まだ捕まっているから今日も遅くなりそう」、と電話していたら、突然、先輩が顔を出して来ました。「何電話してるんだ?」と言い寄って来ました。私は妻に連絡をしていると言ったその言葉と同時に受話器を取られ、先輩が妻に説教を始めました。

「男たるもの、外には敵が数十人、、、」と、講釈を話し始めました。すると妻はそれに逆ギレしたのでしょう、先輩と電話口で言い合いになってしまいました。そして最後には妻の方から電話を切ったものですから、先輩の気持ちが収まりません。その後、先輩は私に向かって、気の強い嫁だと言いふらしました。それに私が逆ギレ!。こんな事をされて怒らない人の方がおかしいと言い、二次会の会場は荒れに荒れてしまいました。全くこの時は、「やってらんない」程度では治らず、ふざけんなと言う感じでした。何で人の家庭にまで入って来て掻き回すのか、この人達は何がしたいのかが、本当に理解不能でした。

この頃のこの会社の家族は、殆どの奥さんが専業主婦でした。私も毛色が違いますが、仕事をしているという、自分達の奥さんと違う毛色の私の妻にも、先輩達は理解出来なかったのでしょう。その後も、結婚したのだから子供は出来たかとか、いつまで働かせるんだとか、本当にパワハラ全開状態でした。そのうちにこの連中は一人一人転勤して行き、妻に対するパワハラは収まって行きました。ちょうどこの頃、昭和から平成に変わる頃は女性も外で働くという過渡期だった事もあり、会社内でも結婚で辞める女性、所謂、寿退社をする人は少なくなって行きました。その後世間では、DINKsと言う言葉が流行り出し、私達は暫くは子供を作りませんでしたので、まさにこれを地で行く感じで見られるようになりました。こんな私達が派手に見えたのでしょう、先輩達は私達を理解出来なかったようで、その後は、仕事に対してのイジメは随分減って行きましたが、我々の結婚生活に対しては、何かに付けてイヤミや嫌がらせを受ける事は続きました。

これにはその後、面白いエピソードがあります。それから数年経過して、ある社内研修で、転勤して行った先輩達に会った時です。子供も学齢期に入ると何かとお金が掛かってきます。皆さん教育費で大変だと、そんな話しを聞いていると、突然先輩が、君の奥さんはまだ働いているのか、と聞いて来ました。当然です、と返事してまた怒られるのかと思った瞬間、「おまえの奥さんはいいよな〜、うちのかあちゃんはパートにだって行ってくれないよ」と言う言葉が返って来ました。空いた口が塞がらないとはこの事か。あれだけ妻を働かせるなと言っていた人間がこれかよ、って感じで改めてこの会社の連中には「やってらんね〜」と思ったのでした。

ここでちょっと補足をしておきます。上下関係の表現ですが、先輩=歳上の平社員や主任、上司=係長または班長またはグループ長、リーダー=課長または部長、店長はそのまま。社員=店の連中、担当者=営業部の連中、部下=私が上司やリーダーの時の部下。こんな感じでイメージしていただくといいと思います。

とにかく夜の付き合いには辟易していましたf:id:x-japanese:20220805092909j:image