前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

252.私の会社員時代、やってらんない記憶.7

その後、私は彼女と結婚。当時としてもまあ早い方だったと思います。それがまたイジメられる原因となりました。有給についてもそんな感じで、今まで以上にうるさく感じました。

結婚後のある年、円高が進んだ事により随分と海外旅行が安くなった事に気が付きました。夏休みの前のハワイ旅行なんかは、平均的な6日間のパックなら6万円代で行ける位でした。これは沖縄や北海道に行くより安い。私は妻とその年の夏はハワイに行こうと計画を立てました。しかし、これだけ安ければ競争率も高くなるのは必須です。早い旅行会社は、GW商戦が終わる5月初旬から予約が始まりました。例年、この会社は夏休みはあるのですが特にお盆は関係無い為、7月から8月の間でそれぞれが決められた日数を休むという方式でした。そしてその夏休み管理表がある訳ですが、それが回って来るのが大体6月の中旬頃でした。こんな頃では予約もままならないと思い、私はGWが明けた翌週に、上司に夏休み管理表を回して欲しいと直訴しました。するとまたまた案の定、烈火の如く怒られました。「GWが終わったばかりでもう夏休みか!」、と言った具合でした。私が「既に夏の長期旅行の予約は始まっているので」と言うと、問題外とばかりに無視されてしまいました。

仕方無しに旅行会社で予約だけ入れ、キャンセル料が発生する頃に再度、夏休み管理表の話をしたところ、今度は渋々回してくれました。そしてまだ私は下っ端の営業であったので、先輩達に確認してから管理表に一番に印をつけました。この時、一体この会社の人達は夏休み、何をやっているのだろうと思いました。この数年間、私はまだ会社にも慣れず、精神的にもキツい状態でしたから、中々長期の旅行に行くような気力になれず気がつきませんでしたが、既に6月の下旬になると言うのに、この管理表に印を付けていたのは私だけでした。これに「なんか寂しい人達が多くてやってらんね〜」と思いました。

そして、この頃は営業になって3年が経過しようかと言う頃でした。私へのイジメはどうなっていたかと言うと、意外にも環境が良くなって来ていたのでした。私の会社は歴史は古く、社員もかなり大勢います。また営業所も都心中心ですが結構あり、それなりに新規採用や転勤があったのです。見回すと、後輩が増えています。そして嫌味な先輩達の数人は転勤で居なくなっていました。私も営業中堅となり、数字もまあまあ取れるようになって来ました。お堅いリーダーや上司は残っていましたが、随分と私の勢力が増して来た感じになりました。この時気がつきました。イジメられていても環境は変わっていく物なんだと。石の上にも3年とは良く言ったものだと思いました。この頃は既に会社を辞めたいとか思わなくなり、少しずつですが仕事の面白さも分かるようになっていました。

そして翌年の夏休みです。また同じようにハワイに行く計画を立てた私達。今度は月曜日から金曜日まで一気に取って、土日と合わせ9日間の予約をしました。労務規定では連続休暇は認められており、特に違反では無い事を確認していました。しかし驚く事に、連続で取っている人は誰一人おらず、おそらく私がこの店で初めて連続休暇の取得申請を出したと思います。夏休みは6日間取れるのですが、皆さん、ご丁寧に7月に2日から3日、8月に4日から3日という取り方をしていたのです。

そしてこの年も6月半ば頃に夏休み管理表が回って来ました。私は躊躇せず印を押しました。すると暫くしたある日、また上司から別室へ呼ばれました。もちろん夏休みの連続休暇の事でした。これは認められないという上司に私は、規定では認められていると反論しました。しかし、君が休んでいる間に何かあった場合に対応する期間が長過ぎると言う見解で、いくらお願いしても却下されてしまったのです。

こうなったら強行手段しかありません。旅行は計画通りに実行する事にし、お客様にもその週はいない事を伝えて旅行に行ったのでした。途中、出勤予定だった日には現地から国際電話で、旅行会社の手違いで航空券が手配されて無かったと会社に連絡しました。翌週の月曜日、とりあえず迷惑を掛けたフリをして平身低頭で出社し店長や上司にお詫びに行きました。すると本当に心配していた様子で、返って悪い事をしてしまったと反省してしまった位でした。

この時、この人達は本当はいい人達なんだと思いました。ただ会社人間だけで、そこは私と相入れないだけなんだと思うようになったのです。その店長や上司はその後はやはり転勤して行きました。そして、その後は私も段々と中堅の域になって行き、いつのまにかイジメに会う事も無くなっていました。しかしこの休暇や旅行絡みでは、この後も嫉妬の混ざったようなイヤミと言うか嫌がらせと言うか、そう言った物は続くのでした。

結婚して2人になった事で、何とかキツい時代を乗り越える事が出来ました。f:id:x-japanese:20220831080935j:image

251.私の会社員時代、やってらんない記憶.6

その後も有給休暇のバトルは続きます。この有給の話をまとめて書こうと思います。

まずは、ある旅行会社のスキーのキャンペーン賞品で一等が当たった時の話です。こんな事は初めてで、自分の一生分の運をこれで使い果たしたと思った位でした。内容は北海道函館の2泊3日、2人分の往復航空券とプリンスホテル宿泊でした。それも食事付き。期限は夏休み開始前まででGWは除かれていました。当選したのが2月でしたから、私は彼女と6月の北海道に行く事を計画しました。しかしどうしても1日、金曜日か月曜日の有給が必要です。そこで敢えて友人の結婚式に出席する事にして、随分前の4月に、敢えて6月の有給申請を出したのです。案の定、上司からお呼びが掛かりました。正直に言えば前回のスキーのように却下されると思い、東北に住んでいる友人が仲間内で函館市で結婚式をするというストーリーを作って、この計画を進めていました。

そして別室に呼ばれ、有給の事を根掘り葉掘り聞いてきます。別室にまで呼ぶ事はないだろうと思いながら、立てたストーリーの通りに返答して行きます。これには上司も段々と言う事が無くなり、最後には、どうしても行かなきゃいけないのか、とか1泊2日で戻って来れないのかとか言ってきました。今考えると本当に信じられないパワハラだと思います。私が無理です、どもうしても行ってあげたいんです、と、のらりくらりかわしていると、最後に再度、案内状があれば許可すると言って来ました。繰り返し、友人間でのお祝いだからそんな物は無いと答えると、却下するとの事。自分もそこまで疑われたら(実際は嘘なのですが😅)、それこそやってられないと思わず食ってかかりました。ここまで来ると嘘を突き通すしかありませんでした。その後、結構長い間別室にいました。するとそれを心配した店長が入って来ました。そして店長は、今回は特別だぞと、許可をしてくれました。そして上司は特別に店長が許可を下ろしてくれた事に感謝しろと言います。私は店長に頭を下げながら、心の中で「本当にやってらんね〜」と叫んでいました。今だったらパワハラはもちろん、プライバシーの大侵害で大変ですよね。

その後も小さな事は色々とありました。また有給についてはこんな事もありました。ある日、営業会議があり業績目標達成者への賞品についての意見交換がありました。予算も中々無いので、お金が掛からず皆んなが喜ぶ物を考えて欲しいとの問い掛けだったので、私はすかさず手を挙げ、「だったら金曜日か月曜日の有給休暇の取得権利はいかがでしょう?」と言いました。すると上司が直ぐに怒り出し、そんな意見は聞けないといいます。もっとマシな意見を考えろとの剣幕でした。私はすかさず、「お金も掛からず皆が喜ぶ、まさにピッタリの意見だと思います。何が悪いのでしょう?」と逆に聞いた所、まさに逆ギレ状態の上司。この会社は営業だけでは無く、その他にも事務とか経理とか他の部署もある。営業だけそんな事は出来ない、と言葉を遮られ、この話は無しになりました。

意見を言えというから言ったのに、そして就労規則にも違反していないのに、皆がやってないからうちもやらない、という感じが、「やってらんね〜」という気持ちになり、「全く幼稚園児じゃあるまいし、他の部署だって嫌だったら自分達もそうすればいいじゃないか」と思いました。何かやろうとすると反対される、これは昔からの日本人の悪い所なのでしょう。未だにそんな感じがするのは私だけでしょうか。休暇についてはまだまだ続きます。

この頃になると、飲み会は少し減って来ていましたが、その代わり休日にゴルフや旅行の計画がされるようになりました。その時々の上司や先輩達によって、店の傾向が変わる事は多々ありました。飲み会をする上司達が転勤し、新たにゴルフや旅行好きな上司達がやって来ると、直ぐにそれに習って方向転換出来る先輩達は大したものだと良く感心していました。しかし、これにより益々有給についてはうるさくなり、さらに土曜日や休日まで色々と注文が入るようになりました。

旅行好きな私には本当にこの会社の人達の行動は意味不明でしたf:id:x-japanese:20220805093635j:image

 

250.私の会社員時代、やってらんない記憶.5

その後も色々とイジメは続きました。特にやられたのは休暇についてでした。これは私だけでは無く、とにかく当時の日本中の会社は有給休暇などあって無いようなものでした。先輩からは有給は病気の時に使うものと言われていました。これには、ある程度は覚悟していましたが、さすがにビックリでした。当時やっと土曜日が一部休みになり、金曜か月曜を休めば三連休という事が出来るようになったのです。しかしそんな事は夢のまた夢。社会人になって給料が貰えるようになったら、また鉄チャンでもやろうかと思っていた私は、本当にガッカリしたものでした。そんな事なら会社説明会でしっかり言えよと思ったものでした。それでも私は有給休暇を果敢に申請するようになりました。それもリーダーや上司達は気に入らなかったようです。

私はこの頃には既に今の妻と付き合っており、休みには気分転換で色々な所に遊びに行っていました。その時は少しスキーにハマっていた時でした。既に営業に出てから一年近く達ち、それなりに先輩のイジメにも慣れていました。そんな時、彼女と一月の月曜日に有給を取り、三連休としてスキーの計画を立てたのです。普通は有給の許可を取ってスキーの予約をするものですが、当時の旅行は、旅行会社に行って1ヶ月以上前に予約をするものでした。そんな時に来月の有給を、なんて申請しても受け付けてくれる訳がありません。そんな訳で予約だけして、キャンセル料がかかるギリギリになって有給の申請を出したのです。

すると当然のように却下でした。理由は「先輩達も取っていない休日にくっつけた有給を許可する訳にはいかない」という事でした。この理由には本当に「幼稚園児じゃあるまいし、本当にやってらんね〜」という感じでした。それからは結構、有給休暇についてはやたらとチェックされました。和を乱す奴という烙印を押されているようで、本当に私が何か悪い事をしたのかと叫びたい位でした。この時は旅行を中止するのが癪だったので、彼女はそのままで旅館の方によくお願いをし、私だけ日曜日の夜行列車で帰り、翌朝出勤したのでした。その後、彼女に連絡すると、平日のスキー場は空いてて、旅館の人もとても親切だった、帰りのバスもガラガラで道も空いてて最高だったとの事。この頃は日本中、どこの会社も平日の休暇など中々取れなかった時代だったのです。

その後もこの有給休暇については、延々と上司やリーダーとの不毛な戦いが続きました。会社では基本、有給休暇は使って欲しいので、有給休暇消化月間と称して、指定された月には一日は取るようにという連絡が来ていました。これも今考えればおかしな連絡です。しかしこの頃は殆どが現場の裁量でしたから、この有給休暇でさえ取りづらかったのです。私は先のスキーの件で恨みがあったので、この消化月間だけは絶対に取ってやろうと思うようになりました。有給休暇届を提出した時の上司の顔は、苦虫を噛み潰したような顔をしていましたが、これを却下してしまうと人事部に逆らう事になるので、渋々ハンコを押してくれました(当然当時の申請書は紙です😅)。しかし、そのハンコが、横を向いていたり逆さになっていたり、せめてもの抵抗のつもりだったのでしょう。こんな所もセコく感じて、「やってらんないな〜」と思ったものでした。

私がこんな事ばかりしていたので、先輩達も興味深く見ていたのでしょう。ある月、彼女の有給が取れず、私も特に用事が無かったので有給は取りませんでした。私だって特に用事が無ければ無理をして取る事はしていませんでした。するとある朝、先輩の一人が私の所にやって来ます。私に有給届を出さないのかと聞いて来ます。理由は、その先輩は今月用事があり有給を申請したいのだが、先に出すのは抵抗があるので私に先に出して欲しいとの事でした。私は「は〜?」という感じになり、先輩達も意気地が無いな、と思い、「なんかやってらんね〜」という気持ちになったのでした。

こんな、バスも運休する雪の日ももちろん出勤でした。これはもちろん雪の朝の通勤風景です😵。f:id:x-japanese:20220826072334j:image

 

249.私のダイエットとランニング体験記18.東京マラソンへの道

今日は8月24日です。ここでランニングの途中経過を報告したいと思います。今月は中旬まではとんでもない猛暑でしたが、お盆を過ぎた辺りから少し気温が下がって来ました。先月までの情けない状況から何とか脱出しなければならないと、今月は結構頑張っています。それでもフルマラソンをガンガン走っていた時に比べると、まだまだ心許ない走行距離ですが、仕方無い。とにかく今月は、10㎞を楽に走れるようにとダイエットを頑張る目標なので、それを達成すべく、この暑さに負けずに計画的に行動しています。

しかし、今月も色々と行手を阻む行事がありました。まずは以前から計画していた北海道旅行です。下の娘も結婚し、少し2人でゆっくりしに行くついでに、涼しい所で走ろうと計画した旅行でした。予約した時はコロナ禍など考えてなかったのですが、想定を超える流行に只々驚き、気がつくと既にキャンセル料が発生する事に。また国からの行動制限も無かった為、どうしたものか随分と悩みました。結局、計画通り実施する事になったのですが、そんなこんなで旅行の工程をしっかり決められずに行く事になってしまったのです。

8月、スタートの日から頑張って夜ランをやりましたが、その後の水曜日に夕方に7㎞走りました。しかし夕方でもまだまだ暑く、頭から水を被りながら走りました。このシチュエーションは私は結構好きなのですが、周りの人達から見るといいオッさんが水浸しになって走っているのはどう見えるのでしょうか😅。私にとっては、夏の風物詩の一つなので何とも思わないのすが、気候的にもビジュアル的にも先が思いやられる感じでした。f:id:x-japanese:20220822074144j:image

その後も中々猛暑が収まらず厳しかったですが、何とか旅行前のノルマを果たし、そのまま北海道旅行に突入しました。札幌から旭川を巡る旅行だったのですが、その中で3日は朝ラン、全てで10㎞はウォーキングをするノルマを課しました。北海道は食べ物が美味しくついつい飲み過ぎてしまうので、深酒しない対策でもありました。そして、この北海道の朝ランが超気持ち良かったのです。

朝ランの場所だけは、札幌では北海道大学構内と札幌市内巡り、旭川では神楽岡公園に決めていました。そして新千歳空港に到着するとやはりこちらは断然に涼しいのです。初日はサッポロビール園巡りや市内観光でウォーキングをしましたが、東京の猛暑が嘘のよう。10㎞程度の気持ちいいウォーキングができました。そして2日目の朝、5時15分に起床、朝ラン1回目は北海道大学へ向かいました。ホテルから見た天気は快晴、一瞬暑そうだと思いましたが、外に出てみると冷んやりした空気。これがとても気持ち良く、一気に朝ランのテンションが最高潮になりました。f:id:x-japanese:20220822075209j:image

初回の朝ランは軽く6㎞程度に抑え、その後少し歩いて見る事にしました。まずは構内のメイン通りを走りました。この爽やかな天候に誘われるように、たくさんの人達がランやウォーキング、犬の散歩に繰り出ていました。f:id:x-japanese:20220822161354j:image

そしてこの道を真っ直ぐ、重要文化財の北大第二農場まで一気に走ります。f:id:x-japanese:20220822161843j:image

こんな気候だったら毎日でも走りたくなるような、本当に気持ちの良い朝でした。ここまで来てUターン。今来た道を戻ります。そしてその後はマラニックのような位置付けにして、色々と散策をしました。そして、有名なポプラ並木を見に行きました。f:id:x-japanese:20220822162036j:image

この並木は、木の老朽化と20年位前の台風によりかなりの被害があったのですが、今は半分程度が復活して歩けるようになっていました。また少し外れた所にはひまわり畑があり、その風景は北海道そのもの。f:id:x-japanese:20220822171717j:image

気持ちのいい朝ランが出来て、大満足でした。翌日も同じような天気。その日は、大通り公園や中島公園の方をランする予定でしたが、昨日の北海道大学があまりにも気持ちよかった為、再度、同じコースを走りました。2日合わせて大体15㎞程度。まずまずの結果に満足しました。

このように朝早く起きてランニングをし、活動を開始すると一日が長く感じ、観光も充実しますし、食べ歩きにも罪悪感が少なくなり、とても楽しい感じになります。その後は、大通り公園の札幌夏祭りと題した巨大なビアガーデンに行き、たらふくビールをいただきました。それも私の大好きなサッポロクラシックの生ビールです。そして気持ちのいい気候、美味しいおつまみ。本当に涙が出る程楽しく飲む事が出来ました。f:id:x-japanese:20220823082722j:imagef:id:x-japanese:20220823082920j:imagef:id:x-japanese:20220824072609j:image

その後は旭山動物園のシロクマの子に会う為に旭川へ移動。そこでも朝ランを1日やりました。同様に朝5時15分に起き、生憎の曇り空でしたが、目的地の神楽岡公園目指して走り出しました。途中、横切った旭川駅は、このブログの180回目の鉄チャンの記憶で少し触れていますが、その頃とは大変貌を遂げていて、とても大きく綺麗な駅になっていて、とてもあの頃の面影などありませんでした。f:id:x-japanese:20220822231215j:image

そんな事を思い出しながら、忠別川沿いまで行くと、そこには川沿いに綺麗な走りやすそうな小道がありました。その川沿いを走って行けば、公園に行けるはずでした。そして思った通り目的地の神楽岡公園に到着。ここで一周約3㎞を走り、また元来た道を戻る予定でした。f:id:x-japanese:20220822231530j:image

公園の中を走っていると何とリスがいるではありませんか。思わず立ち止まり見ていたり、また途中に大きな神社がありました。上川神社という素敵な神社でした。ここも思わず立ち寄ってしまい、我々や娘達夫婦とお孫ちゃんの無病息災をお祈り。このランはかなりの時間が掛かってしまいました。f:id:x-japanese:20220823074207j:image

天気は曇り空でしたが気温は涼しく、とても気持ちいいランになりました。こうして北海道旅行でのランは計23㎞をこなし、その後は旭山動物園に向かいました。もう少し走りたかったのですが、欲を言えばキリがない。後はまた帰って頑張る事にして、シロクマに会いに行きました。このシロクマ、昨年暮れに産まれたばかりとの事で、今が可愛い盛り。母親と一緒にいる姿はとても愛らしいとの事で、妻がぜひ見たいと言っていたのです。確かにその愛らしい姿は本当に見ていて飽きない位。特に母親と戯れる姿は、娘とお孫ちゃんの姿を見ているようでした。f:id:x-japanese:20220823075237j:image

最後にとてもホッコリした気分になり、無事にコロナにかかる事も無く、大満足の旅行を終える事が出来ました。

しかし帰ってくると地獄の暑さが。北海道の気候に慣れた身体はこの暑さに耐えられず、何と私はその後、家で熱中症のような状態になってしまったのです。それも想定外だった場所、トイレででした。とても走れる状況には無く、暫くランは中断。またしても今月は駄目か、と思いました。

しかし、その後は暑さも少し和らぎ、この土日は何とか走れる位には回復出来ました。そして日曜日に10㎞を走り切る事に成功。何とか最低のノルマを達成出来ましたが、これを楽に走り切るのが、今月の目標です。しかし今週は、またお孫ちゃんがやって来ます。走行距離もまだ70㎞そこそこ。少し焦って来ている今月。この後、本当に頑張って東京マラソンに出場出来るのか。続きはまたアップいたします。

 

 

248.私の会社員時代、やってらんない記憶.4

営業成績が振るわず苦しい時期は、その後暫く続きました。この地区の前任者である先輩はやり手と言われていましたから、その後任は中々厳しいのは営業の連中だったら誰でも分かる事なのです。そんな所に新人を充てるなんて、今思うとまさに「やってらんね〜」という感じです。後で聞いた話では、この先輩の後は誰も担当したがら無いので、新人である私を据えたとの事でした。イジメの一環だったのかと思いました。その上、先輩のフォローが無い状態では成績など残せる訳がありません。さらにその後、私にはとんでもない災難が待ち受けていたのです。

私はそんな訳で、事務手続きや事務フロー等の指導を殆ど受けていなかったのです。これは本来であれば、前任者がしっかりとマンツーマンで教えると言うのがこの会社の暗黙のルールだったようですが、私のデビュー時には前述した事があった為、先輩としても面白く無かったのだと思います。そしてある時、本社から検査部の人達がやって来て、事務フローがしっかり行われているかのチェックがありました。まず営業の連中がチェックを受けるのです。一人一人、検査部の人が事務の仕方のヒアリングと持ち物のチェックを行います。

そして私の番になりました。私は臆する事も無く、検査の人のヒアリングを受けました。すると検査部の人が少しずつ不機嫌になって来るのが分かりました。そしてその後はそれを通り過ぎて、笑い出したのです。そして、「君は今年営業になったばかりなんだよね。君の上司と前任の先輩を呼んで来て」と言われたので、呼びに行った所、いきなり検査部の人がその二人に怒り出したのです。要するに何もちゃんと事務を教えて無いというのです。私はこれを聞いて、「マジか」と思いました。そしてその後、検査部の人達が帰った後、今度は私が上司と先輩に別室に呼び出され叱責されたのです。これには私はこの一連の出来事に、「やってらんね〜」と思いました。

結局、私は事務を殆ど教わらずに営業に出ていたのです。何と言うか、男の世界もこんな風な嫌らしさがあるんだという事を初めて感じたのでした。それまでの環境と言えば、「男たるもの」とか「されて嫌な事はするな」とか、任侠映画の世界のようですが、そんな人達が周り多かった為、所謂「イジメ」に会う事などほとんど無かったのです。この頃はまだイジメ問題についてはそれ程社会問題にはなっていなかったので、私もそれ程意識はしていませんでした。イジメられているとか、辛いとか、悲しいとかでは無く、「何だよこの会社」と思い初め、それこそ「やってらんね〜」と言う感覚で過ごすようになったのです。

その後は、今度は事務を徹底して教育するというフレコミで、私への指示や監視が始まります。それがまたイジメのようで、まず初めに訓示のような物を話され、その中で背が高いと怒られたのです。私の身長は平均よりは多少高い程度で、そんな意識は全くありませんでした。「???」の顔をして「どういう事ですか?」と聞いたら、お客様を見下ろすからだそうです。これには逆に吹いて笑ってしまい、それがまた反感を買ったようで、さらに怒られました。さらにその後は、日頃の事務で不備等があると、その都度ソロバン(電卓など無かったのです😅)で頭をコツかれました。今で言えば完璧にパワハラです。そのくせ、営業のやり方に対しては全く教えてくれる事はありませんでした。これから暫くは本当に会社に来る事が辛く、仕事も上手く行かず、聞く人もおらず、よく会社に行ってたなあという位、精神状態は段々と悪くなり、人生最悪と言った時期でした。営業部になって3年位は、いつ辞めようかと考えていた位でした。X-JAPANの音楽と出逢うのはまだまだ後です(このブログの112回目からを読んでみて下さい)。本当に辛い時期が続きました。

しかしこのような状態ですと、さすがに歳の近い先輩なんかは気の毒に見えるようで、結構慰めてくれました。また時折、飲みにも誘ってくれました。先輩達からすると、上司達の鬱憤晴らしを全て私が受けているイメージであり、私が風避けのような役割になっているので申し訳ないという気持ちもあったようです。この頃のイジメはこんな風に、キツい事も多かったですが陰湿では無く、また周りが助けている事について、当事者達がガミガミ言う事はありませんでした。事務の女性達も次第に私に色々と手伝ってくれるようになっていました。こんな所はいい会社なんだと思っていました。

その後も精神状態は最悪、よく神社にお参りに行ってました。f:id:x-japanese:20220805091315j:image

 

247.私の会社員時代、やってらんない記憶.3

そんな営業生活が始まってすぐの事です。私の会社は一応営業エリアが決められており、一人一人地区が割り当てられていました。その時割り当てられた担当地区が、偶然にも学生の時にアルバイトで配送をしていた地域と被っていたのです。営業で先輩に付いて回る実習が終わると、いよいよ担当地区の引き継ぎが始まります。バイクを一台充てがわれ、先輩と一緒に引き継ぎが始まったのです。

大体のパターンが、この引き継ぎで道が覚えられなくて、新人営業はヒーヒー言う物なのだそうです。それを見て先輩達は密かに楽しむのが通例のようでした。しかし私はそんな経緯があったものですから、下手をすると先輩よりも道に詳しく、逆にこっちの方が近道ですなどと教えてあげたりしたものですから、先輩としたら面白くありません。営業から帰ってくるとそんな私を見て何か変な雰囲気になっているのが分かります。おそらく先輩同士で私の噂をしているのでしょう。別に道を知っていたからって、悪い事をしている訳じゃないし、何が悪いんだという態度も悪かったのでしょう。何となく、今年の新人は面白くないな、と言うような私に対する風当たりが強いように感じました。

そんな感じで直ぐに営業回りに馴染む事が出来ました。そしてエリアに慣れた所で、いよいよ先輩と同じように営業活動をする事になりました。敢えて職業は伏せておきますが、当時の私の会社はとにかく全社一丸となって新規顧客の獲得が叫ばれており、所謂ノルマがあったのです。そこで面白い事が起きたのです。大体の新人営業はこれで参ってしまいます。新規獲得ですから全く知らない人と話す事になります。この辺りで鉄チャンの趣味が大いに役立ったのです。鉄チャン時代には知らない人と話すのはお手のもの。趣味の世界では無いとは言え、知らない人と話す抵抗は無く、さすがに断られる事が続くと意気消沈しますが、この辺りは割と耐えられたのです。

またこの地区は以前アルバイトで回っていた所でもあるので、知っている人もいたのです。ダメもとでその人達の所へ行ってみると結構歓迎されて、取引が貰えたりしたものですから大変です。何と最初の年度のノルマを一番で達成してしまったのです。これには私の前任の先輩としたら格好が付きません。これでまた営業の部屋の中は不穏な空気が流れました。上司も、なんと言うか私の事を、場の雰囲気を乱す奴のような対応をするようになりました。何だかいい事をしているのか、悪い事をしているのか分からない気分になり、この雰囲気にも「やってらんないな〜」と思っていたのでした。

また私がお酒が強かったのも面白く無かったようです。私の一年と二年上の、事務の人を含めた先輩達4人は皆さんお酒が弱く、新人の頃を初め、その後も仕事の帰りとかにも随分と飲まされて大変だったそうです。私はと言えば逆に上司やベテランの先輩達より強く、飲まされて潰されるなんて事は無かったのです。バーやカラオケスナック(まだカラオケボックスが無かった時代です😅)に連れて行かれても、既にアルバイト先で色々と経験していたので、特にオロオロする訳でも無く、その辺りも今年の新人は面白く無いという事で、徐々にイジメの対象のようになって行ったように思います。因みに当時のカラオケスナックは、エイトトラックカラオケと言われた機械で音楽を掛け、歌詞は本を見ながら歌っていました。その扱いなんかもお手の物で、歌も良く知っていたので、その辺も面白く無かったのだと思います。

こんな感じで新人として配属されて数ヶ月があっという間に過ぎて行きました。しかし営業はそんなに甘い物ではありません。たまたま続きでいい成績を収められたのは初めの方だけで、その後は鳴かず飛ばず状態になりました。先輩達は私の営業デビューが衝撃的であった為か、私に教えてくれるような事はありませんでした。所謂イジメのような物だったと思います。この辺り、私は割と鈍感と言うかノー天気な所があるので、あまり気になりませんでした。しかし、月が終わるごとに行われる会議は、段々とキツく感じて来ました。成績は、新規顧客の獲得の他もたくさんあったのです。しかしろくに教えて貰っていない状態では、やはり満足に獲得するのは厳しいのです。今のような研修プログラムやOJTなどは当時は無く、先輩や上司の後ろ姿を見て覚えろだとか、技を盗めだとか言われていた時代です。その肝心の先輩達が非協力的なものですから何ともしようがなく、さらなる「やってらんね〜」と言う気持ちが強くなっていました。

晴れ晴れした入社時の気持ちはどこへやら、その後はどよ〜んとした精神状態が続きましたf:id:x-japanese:20220805091350j:image

 

246.私の会社員時代、やってらんない記憶.2

新人時代が過ぎて私は営業部に配属となりました。新人時代でも就業時間よりはかなり早く出社していた私。しかし営業部では更に早い出社になりました。配属になった翌日、早速営業部へ出社すると、そこは既に全員が揃っていて仕事全開モード。扉を開けると全員の視線がこちらに集まり、一瞬固まる私。これはまずいと、さすがに翌日から早く出社するようにしました。しかしキリがない。一本、また一本と電車を早めますが、状況は変わらず。たまらずすぐ上の先輩に何時頃来るのか聞いたところ、ハッキリと言ってくれません。残業の関係で早く来いとは言えないのです。その位自分で考えろって事でした。今で言う「忖度しろ」という事です。じゃあ先輩はと聞いたところ、朝7時との事。え〜😳と思いました。就業時間は朝の8時半です。まずはこれに「やってらんね〜」と思ったものでした。

そして終わりの時間にも同じ事が言えました。私は営業に成り立てだったからかまだそれ程業績をうるさく言われず、言われた仕事が終わるとさっさと帰る準備をしていました。先輩の中にも既に終わっているように思える人もいます。既に時間は6時をとっくに過ぎています。終業時間は確か5時15分だったはず。私も別に就業時間内でピッタリと帰るような人間では無いので、暫くは先輩の仕事とか見てたり、明日の準備等をしてたりしました。しかし一向に帰る気配はありません。一体いつまでいるのだろうと思いながら仕方無しに席に座っていると、始めの頃は上司が帰っていいと言ってくれてましたが、それもすぐに無くなりました。時間はとっくに夜の8時を過ぎています。そして9時近くなり、上司の1人が終わる気配です。すると「今日も疲れたな〜、終わるか〜」と声を掛けます。すると一斉に片付けが始まります。

そしてここでルートが二つに分かれるのです。一つは飲み会、もう一つは麻雀です。麻雀の方が比較的早く声が掛かっていました。これから?と私は一瞬思いましたが、新人の時でも8時近くまで待っていたので、これは本当にびっくりしたものでした。そして先輩達は、どちらかには必ず付き合っていたようでした。私は麻雀は出来なかったので、飲み会には良く連れて行かれました。ここで私が思ったのは、誰も家に電話をしていない事でした。もちろん当時はケータイなどありません。私のようなまだ独身の身なら構わないですが、中には結婚している人もいます。奥さんはこんな状況に慣れているのかと思いました。

そして飲み会は前述の通り、毎日のように行われ、時には二次会、そして月末や決算の時などは三次会という感じで、付き合わされるのでした。そして、もちろん割り勘です。上司や給料がいい先輩達はいいかも知れませんが、我々のような若い世代、または結婚して子供がいる先輩達などは本当に苦しそうでした。実際、カードローンが一杯になってしまって奥さんにバレて家庭争議になってしまった先輩や、それこそ顧客のお金に手を付けてしまうような先輩もいたのです。こうなるとコンプライアンスのような物が必要になってくるのが、理解できます。その位、上の人には逆らえない慣習と言うか雰囲気があったのです。当時から我々の会社はセブンイレブンと社員の間ではふざけて言われていました。

これは自分の会社だけでは無く、日本中の会社が当時はこんな感じだったと思います。時折合う学校の友人に聞いても大体同じような話を聞きました。本当にこの国は、戦後、近代化に猛進して世界に冠たる経済最長を成し遂げたと言われていましたが、中身はと言うと戦前時代や江戸時代と変わらない、滅私奉公の意識が無くなっていないという、旧態依然の組織形態と言った感じでした。もちろんこれには残業代が払われるはずも無く、これにも「やってらんね〜」と思いながら、何とかこの慣習から抜け出せないものか、考えるようになりました。

朝も早よから夜おそくまで、通勤時に太陽を見る事は夏至の頃しかありませんでしたf:id:x-japanese:20220805091500j:image