前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

256.私の会社員時代、やってらんない記憶.11

とにかく早く帰りたい。こんな長い拘束時間はやってらんないと思い、私は子供が産まれて特にその思いが強くなりました。病気の後位から、色々仕事のやり方について考えてたり、効率的に仕事をするように本を買って勉強したりという事をしていたのですが、子供が産まれてからは、それを実行するようになって行きました。まずは本当にこの会社の連中、特に上司や先輩連中と一緒に仕事をするのが嫌になり、なるべく会社にいる時間を少なくする事を始めました。それには肺炎の病気の事もあったのです。私は喘息の持病があった為、もちろんタバコは厳禁です。しかし当時の会社はタバコ全盛期。営業の部屋は特にモクモク状態で典型的な受動喫煙状態でした。灰皿当番と言う仕事もあった位でした。病院では、それも肺炎を引き起こした要因と言われていたのです。

まずは朝はとにかく一番に営業に出ます。その為、訪問時間で朝でも大丈夫な顧客をピックアップ。また決まっていた訪問日も、顧客ごとに確認して変更する事をやり、移動時間を短くして効率的に訪問活動が出来るようにしました。空いた時間は新規顧客の開拓や、既存顧客への売り込みに使い、そして夕方やっている喫茶店とか飲食店の顧客を調べ、そこで仕事をさせてくれる店があるか調べました。そして一番遅く会社に帰って来て後処理の事務をする事にしたのです。そしてそれが終わると帰るという事を、毎日では無かったですが、出来る限りルーティーンとしてやり出してたのです。

夕方の飲食店は、殆どが私の好きなパン屋さんだったかな。夕方のパン屋さんは、その日の後片付けを行なっているような時間だったので、お客さんもホッとしているような感じでした。そこで今日の売れ残り(失礼🙇‍♂️)とパックの牛乳とかを買い、イートインスペースで食べながら、今日の日報を書いたり、稟議書の下書きをしたり、推進資料を書いたり、その他雑用等の仕事をさせて貰っていました。仕事が片付くとお客さんと一通りだべって、時には売れ残りのパン等を買ったり貰ったりして会社に帰りました。その貰ったパンは、帰ってきてまだ残っている女子社員達にあげると歓声が上がり、女子達のご機嫌も随分と取れたのでした。

そして会社に帰ると、私は既に殆どの残務が片付いているので、それを書庫に閉まっておしまいです。そして上司に、帰っていいか聞きていました。最初はあれやったか、これやったかと、いつもの帰る邪魔をしましたが、遅くまでお客さん回りをしているように見せかけて、その上、書類とかリスト作りとかは全て終わって帰ると言っているので、そのうちに言う事が無くなり、渋々帰らせてくれるようになりました。しかし、これは業績が上がっていた時だけの話で、数字が悪い月は中々こうは行きませんでした。なので、益々数字を上げて早く帰れるように頑張ったのです。

業績をあげるなんて、そんな偉そうな事は言うつもりもないですが、こんな活動をやっていたので、成績はいつも大体上位1/4程度にはおりました。時折、業績表彰等も取ったりしていました。やはり、言いたい事を言うには実績が必要です。数字を上げ上司達の反論をさせないようにするのは本当に大変でしたが、早く帰るにはそれが一番の近道でした。この仕事の仕方は私の生活を一変させましたが、唯一のデメリットがありました。それは太って来た事でした。確かに夕飯前にパンや軽食を食べる訳ですから、当たり前です。これには少し参りました😵。

営業の肝と言ったら、とにかく会話でしょう。私はこれは鉄チャンをやっていて慣れていたので、本当に良かったと思っています。また顧客との会話で一番盛り上がるのが出身地のローカルな話です。この辺りも鉄チャンをやっていたお陰で、全国の地名や特徴、名物等は良く知っていました。このブログの182回目の話はその典型で、ひょんな話からお客さんの故郷の話となり、そこから私の宿泊した旅館がお客さんの実家だったなんて事が分かると、これは一気に親しくなる物です。

こんな感じで、新人の時から色々と顧客と会話をしていたので、お客さんも色々と私に教えてくれる事が多かったのです。その辺を書いていこうと思います。

夕方のお客さんとのひと時は、大好きな時間でした
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