前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

245.私の会社員時代、やってらんない記憶.1

次は、温泉のブログを書く予定で下書きを書いていたのですが、当時、温泉と言えば社員旅行。この温泉のブログ、色々と書いていたら現役の頃の会社の事が思い出されて来て、居ても立っても居られなくなり、温泉の次は、前に勤めていた会社の事を書こうと下書きを書くようになりました。そしてそんな中で、コロナの第7波です。今回の波は、この国は全くお手上げ状態であり感染は広がるばかり。全くこの国の行政や専門家は一体何をやっているのか、本当に苦々しく思います。この3年間、一体何を学んだのか、何を検証しているのか、そして何度繰り返せば失敗をしなくなるのか。

以前の会社の事を下書きしていた私は、この国の偉そうな方達や専門家という人達も、かつての私の上司達と大して変わらないのではないかと、思うようになってしまったのです。このシリーズは、私が定年まで勤め上げた会社で、「やってらんね〜」と感じたあらゆる事を書いたものです。何か最近の国の偉い人や専門家と言われる人達とダブって見える感じがして来ています。ぜひ皆さんとこの気持ちを共有して頂きたいと思い、準備していた温泉シリーズより前に、アップをして行こうと思いました。こんな時期なので、きっと共感する事、間違い無し。それでは始まります。私の会社員時代に感じた、やってらんないシリーズです。

私の会社員時代は本当に激動の歴史といった感じでした。一言で言うとデジタル化の波に翻弄された時代と言えたと思います。その他は個人情報保護法が厄介でした。そして私がどうかと思ったのがコンプライアンス意識の異常な高まりでした。まあ確かに我々の時代は酷い時代でしたので、ある程度はこれが必要だったとは思いますが😥。とにかく「やってらんない」という事象が多かったのです。

当時の日本の会社は、今の人達には信じられないような慣習や掟があり、パワハラセクハラは当たり前、サービス残業当たり前、取れない有給休暇、上司や先輩には絶対服従、好き嫌いの人事評価、嫌煙分煙などお構い無し。事務のマニュアルはあるもののその部署の責任者によってやり方はまちまち。会社が終わればその後は強制的な飲みの付き合いで二次会、三次会もザラ。土日も下手をすると会社の付き合いで潰れ、会社の常識が全て、全てが会社優先。まさしく24時間戦えますかって感じの会社員生活でした。また私の入社した会社は、歴史は古く典型的な日本の会社でした。やりたい職種で夢や希望が一杯あった就職でしたが、そんな会社の雰囲気と人間関係が、入社当時から受け入れ難かった私。当時から何となく自分だけが毛色が違う感覚でした。

私は自分の家も会社をやっていたし、アルバイトも中学生からやっており、色々な社会経験は積んでいたと自負していました。ある程度は社会には馴染んでいたと思っていました。どうすれば仕事がうまく回るか、どうすればコミュニケーションが上手く行くか、効率良く仕事が出来るか、効果的な金の使い方は何か、こんな事を色々考えるような学生でした。この辺りは、このブログの199回からの鉄チャンの思い出シリーズを読んで貰うと良く分かると思います。そんな一風変わっていたのかも知れない私、会社の上司や先輩達も扱いずらかったのかもしれません。

まず入社して一番に感じたのは、ケチな奴らが多いという事でした。お金の使い方を知らないと言うか、学生でも無いのに、お金が無いなら無いなりに暮らせばいいのに、という感じでした。自分や自分の家はもちろんお金に余裕があった訳では無いので、どうやって使ったら効率的かを良く考える家でした。とにかく先輩達が毎日のように飲みに行く姿にビックリしたのですが、ある日新人の私も飲みに誘ってくれました。そしてそこが安い居酒屋でした。別にそれはいいのですが、会計の時に当然のように新人の私もキッカリ割り勘でした。これにはビックリしました。今までの人生で先輩が誘ったのにピッタリ割り勘という経験は無かったのです。大体がご馳走様でと言う感じで、払ったとしてもほんのわずかだった事が殆どだったのです。自分も社会人になったらそんな風になりたいと、と思っていたものでした。その後ももちろんそう言った事は続いて行きます。若い先輩達や女性達も毎日のように誘われるこの状況に何とも思わないでしょうか。しかし影では、付き合わされている人達が「冗談じゃないよ😤」とか先輩達の悪口を言っています。だったら断ればいいのにと思いましたが、そうも行かないのでしょう。

私も新人の間は静かに付き合っていました。しかし、始まる時間が遅い為にそれを口実に、毎日誘われる状況からは逃れていました。その為、今年の新人は付き合いが悪いと言われ始めました。しかし、美味しいお店ならともかく、美味しくも無いお店でベロベロになるまで飲む先輩達、話と言えば会社の愚痴、上司の愚痴、顧客の愚痴、おまけに後輩への説教と、そして奢ってくれるならまだしも、しっかり割り勘。その上、下手をすると二次会まで付き合わされる。こんな状態では先輩達を尊敬できる訳がありません。

そのうち、この人達の家庭はどうなっているのだろうと思いました。毎日飲み歩いて、ただでさえ遅い帰りが更に遅くなるこの状態をどう思ってるんだろうと思いました。せめて週二程度にして、後は家に帰るか、自分の趣味や何かをやればいいのにと思いました。また週二程度の飲み会にすれば資金的にも多くお金を使えるので、もう少し美味しい飲み屋に行くとか、後輩達に多少奢るとかすれば、会社のコミュニケーションも格段に良くなると思いました。

しかし、そんな改善を私が提案したところで受け入れられる訳が無く、毎日がずーっとこんな感じで会社生活が続くのでした。そのうちに新人のオミソ期間が終了すると、私は営業部に配属されました。するとそこはとんでも無い世界が更に広がっていたのです。これは私の会社だけでは無く、当時の日本中の会社はこんな感じだったのだと思います。そんな「やってらんない」記憶を綴って行こうと思います。

桜満開の入社したての頃は、希望の業界に入れて本当に夢を膨らませていましたf:id:x-japanese:20220805091610j:image