前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

199.鉄チャン旅行の思い出1 感動編

鉄チャン旅行では、このようにさまざまな勿体無い事をして来ましたが、その他にも色々な事があり、さまざまな事を体験出来た事により、自分の人生を豊かにしてくれたと思っています。そんなエピソードを懐かしい思い出シリーズと題して、続けて綴って行こうと思います。

まずは感動編です。これは北海道のSL撮影旅行の時の話です。最終日に追分機関区に寄ってSLを撮影した後、中途半端に帰りの列車まで時間が余り、そのままそこで撮影する手もあったのですが、予定では幌内線の三笠という所に行く事にしていました。しかしこの路線も超ローカル線です。ちょうどいい列車が無く、何で調べたのか記憶が曖昧ですがバスで行く事になっていて、岩見沢駅まで向かいました。そして駅で確認するとちょうど三笠駅に向かうバスがあり、それに乗って向かう事が出来ました。

この日はいい天気でバスの中はほんわか暖かく、我々は連日の旅の疲れからいい感じで寝てしまいました。するとバスの車内放送が流れているのに気がつきました。「次は三笠入口です。お降りの方はブザーでお知らせ下さい」。私はびっくりして飛び起き、すぐにブザーを押しました。寝ていた友人を起こし、降りる準備を始めました。そしてバスはバス停に到着。3人はそこで下車しました。

降り立ったその辺りは車通りは少ないものの、雪解けの道でぬかるみがあったり土埃が立っていたりと、特にバスが走り去った後は凄く埃っぽく感じました。周りを見渡すと暖かいとはいえまだまだ雪が残っていました。しかも町並みは無く、駅らしい物はありません。ここは何処なんだ?と、暫くは呆然と立っていました。そして友人達と目を合わすと皆「これはまずい」と思っているようでした。我々は降りるバス停を間違えたのか?でも確かに三笠入口と言っていた。バスの運転手にも確認して降りたのは確実でした。しかし駅が無い、列車の気配も無い、人もいない。途方に暮れる一方、今日の夕方には札幌を発車する列車の指定券を持っていました。東京に帰れなくなるかも知れないと思うと、そこはまだ中学生。急に不安になりました。どうしようと思っているだけで、そこに立ちすくんでいました。

ふと道路を見ると、行ってしまったはずのバスが道路脇に止まっているように見えました。そして誰かがこちらに向かって小走りで走って来ます。それはバスの運転手の人でした。そして我々に向かって何か言いながら近づいて来ます。「君達、SLを撮りに三笠駅に行くんじゃないの?だとしたら三笠駅はまだ先だから、乗って乗って」と、手招きしています。我々は本当にびっくり。「そうです、三笠駅に行きたいんです」と答えると、運転手さんはさらに手招き。とにかく迷惑掛けてはいけない(もうすっかり掛けているのですが😅)と思い、我々は急いでバスへ走って行きました。

そしてバスへ戻り、運転手さんにお礼をした後、乗客の皆さんにも挨拶をしたとたん、こんな事があるのかと本当に信じられない気持ちで一杯になり、ジーンと来てしまいました。そしてそれから結構な距離をバスは走り、無事三笠駅に着く事が出来たのでした。運転手さんには改めてお礼を言いました。その時、見慣れない大荷物の青年3人組と言えばSLファンだろうと思ったとの事でした。そして最後に気をつけてと言ってくれました。

私は当時は東京育ち、電車と言えば山手線や地下鉄線。バスも頻繁に走ってる地域に住んでいました。また駅間やバス停間も短かく、例え降りる所を間違えても簡単に何とかなるし、また運転する方もそんな事は当たり前で、待ってくれる事やそれこそ間違えた事に気付いて戻って来てくれるなんて想像も出来なかったのです。

特にこの時は昨年の会津でのYHの一件があり、大人に対し人間不信を感じていた時期でもあったので、この出来事があって、「人間って本当は優しいんだ、暖かいんだ」と思った事を覚えています。そう言えば昨日の追分駅でも、出発時間になっているのに1人の老女が駅の改札を通った為、出発を待っていた列車がありました。我々は当然、「これは間に合わないや」と思っていたのですが、その老女はその後跨線橋を渡り一生懸命小走りで列車に向かって行きました。無事乗る事が出来、駅員が出発の合図、その後ディーゼル機関車の汽笛。我々は信じられない思いでこの光景を見ていました。地方では当たり前なのでしょうが、これが何ともいい光景だったのです。

よく古き良き時代と言いますが、まさにこの頃の北海道はそういった時代がそのまま残っていた感じでした。この北海道旅行では、勿体無い記憶3にも書きましたが深川駅での駅員さんも、遠くで見ていた我々の所までわざわざやって来て、近くでSLを撮影していいと許可をくれました。またその他でも、どこの駅かは忘れてしまいましたが友人がトイレに行っていている間に列車が来てしまい、出発を待って貰った事もありました。その時は戻ってきた友人に乗客達が「良かったね〜」と声を掛けてくれた事もありました。

このバスの一件は旅行の最終日に起こった訳ですが、これが私が人間というものを性善説で見るように改まったキッカケでした。これが無かったら、私は相変わらず大人に対して反抗的な態度を取り続けて、それこそグレていたかもしれません。当時は中学校は結構荒れていて、不良と言われていた友人もたくさんいました。そんな学生を抑える為に先生も強行な指導をする必要があったのでしょう。

今はこんな時代では無いかもしれませんが、「可愛い子には旅をさせろ」と昔からの諺があります。今は今で、やはり旅はいい経験をする事が出来ると思います。気兼ねなく旅行が出来るには、まずはコロナの終息。そして最近世界が物騒ですが、平和が絶対に必要です。そんな世界になるように毎日願うばかりです。

北海道のSL撮影旅行は本当に感動がいっぱいの旅行でした。f:id:x-japanese:20220326163506j:image

先日立ち寄った、思い出の深川駅です。昔の駅舎がそのままで、懐かしかったです😊f:id:x-japanese:20230126084339j:image

 

 

 

198.コロナワクチン接種3回目

鉄チャンのブログを書いていて思わず気合いが入ってしまい、気がつくと20近い数を書いてしまいました。この間、体調も上々と言いたい所でしたが、それが結構大変だったので、その事を書こうと思います。2022年3月中旬、私は3回目のワクチンを打ったのですが、その副反応なのかエラい目にあったのです。実は私は、昨年位から体調はいいのですが血圧が微妙に上がり始め、医師と相談のうえ今年始めから少し血圧の薬を飲む事になり、高めながらもまずまずの生活を送っておりました。

そして、3回目のワクチンを予約。今まではワクチンの副反応は特にひどく無く、1回目は殆ど無症状、2回目は何故だか腰に来て、翌日はギックリ腰のような筋肉痛が出て寝ていましたが、夕方には回復して来ました。その後は順調で、今回もそんなに気にしてなかったのです。しかし巷では3回目は結構副反応が出るとの噂。念のため金曜日に予約して、副反応が出ても大丈夫なようにしておきました。しかしその時は、当日と土曜日は多少ダルいかな程度で特に何も無く過ごせていました。土曜日は晩酌もした位元気だったのです。

しかし、「今回は特に副反応は無いんだ」と思った日曜日の午後辺りから、何か体調がしっくり来ない、と言うか血圧が上がり始めたのです。その日は寒かった事もあり、また前の日に少し飲み過ぎてしまい、そのせいかも知れないと思いとにかく安静にしていました。翌日も祝日で休みだったのですが、この日も体調が優れません。血圧もかなり高いのではという自覚もあり、昼間に測ってみると167もありました。そして段々と不安になって来ます。何かおかしいと思いながらも、そのうち収まるだろうと家で安静にしていました。

そしてその晩です。寝る前に測った血圧は150。普段は低いはずの就寝前でこの高さはちょっと異常です。そして不安ながらも一旦就寝したのですが、途中で目が覚め、その後何となく眠れなくなってしまいました。すると頭がボーッとして来る感じるになり、何と腕が痺れて来る感じになって行きました。血圧がまた高くなって来たのかもと思いましたが測るのが怖くなり、まさかこのまま死んでしまうのではないかと思った位に心臓はドキドキ、息苦しい感じになりました。左腕は何か麻痺したような感じになって来て、ちょっとパニックのようになってしまい必死に自分を落ち着かせていました。妻を起こそうかと思った位でしたが、何とかその夜を過ごせました。

そうこうしているうちに夜が明け、その日は会社を休み病院へ行く事にしました。その日は雪予報でもあったので、血圧は寒さでさらに悪くなりそうな感じでした。そして朝一番で病院へ。病院で血圧を測ると158。医師もちょっと首を傾げました。そして最近の経過として、金曜日に3回目のワクチン注射をした旨を話しました。すると、最近私のような高齢者の患者がワクチン接種後に副反応で血圧が上がったという話が多いとの事。また、コロナ自体にかかり、後遺症で血圧が上がる事例も多いとの事でした。特に最近のオミクロン株は症状が軽いが感染力が強く、罹っているのに分からない人も多いとの事。もしかしたら私も症状は無くても罹患していた可能性もあり、その後遺症かもしれないとも言われました。その時は熱も咳も無く血圧だけだったので、降圧剤を強くしてもらい暫く飲んでみる事になりました。血圧が高い状態は良くないので、とにかく血圧を下げる事をするとの事で診察は終わりました。

薬局で薬を貰う時、この薬は結構強めなので数日間はふらつきや立ちくらみとかするので、車の運転とかに注意してなどと言われました。薬局でそんな事を言われたのは初めてで、これには結構ショックを受けました。そんなにおれの身体はヤバいのか、そんな強い薬を飲まなければならない位、高血圧になってしまったのか。今まで健康の為に続けていたランニングは何の効果も無かったって言う事か、と思うと本当に悲しくなって来ました。家に帰り早速薬を飲み、その日は一日安静にしてました。外を見ると雪が降って来ました。この寒暖差にも身体が参ってるのかと思うと、自分の老化を感じて悲しくなってしまいました。

翌日は会社に行きました。その後は段々と落ち着き、その週の後半位には血圧は朝晩双方で120程度までに下がって来ました。時には100近くまで下がる事もあり、時折フラフラする事もありましたが、体調は特に悪くはなりませんでした。この数日間、首のコリが酷かったのもいつの間に無くなっていました。医師はずっと100を切るようなら薬を減らすと言ってましたが、まだそこまではなっていません。強い薬を飲んでいるのに血圧がそこまで下がらないと言う事は、強い薬を飲み続ける生活をしなけれなならないのか、とても絶望的になりました。

そしてその週末、病院に経過報告に行きました。数値を見てまあまあな血圧なので一安心との事。もう少し続けて、100を切る事が続いたら薬を減らすようにとの指示を受けました。結局原因は不明。おそらくコロナ関係の何らかの影響だろうと言う事でした。その後は血圧も更に落ち着き、110〜120前後をキープしています。妻はあまり気にするのも良くないと言ってくれますが、あの晩の事を思い出すと本当に怖くなります。

その後、コロナの蔓延防止とやらの宣言も終了したので、妻の「気分転換も必要」との声掛けで、その翌日の土曜日に久しぶりに2人で外食に行きました。その日はまずまずの天気。私も、いちいちビクビクしていても仕方無い、妻の言う通りあまり気にしない事もいいかもしれないと言う事で、少し怖かったけどビールを飲みました。久しぶりに飲むそのビールの美味しかった事。やっぱり健康っていいなあと本気で思いました。そしてその後は医師から軽い運動ならOKとの診断を貰い、いつもの東川沿いにお花見ランが出来る位に回復出来ました😊。

そんなある日、ある雑誌を読んでると「1億総不健康時代」などと言う記事を見つけました。コロナ自粛が人間の精神を病んで行くと言う趣旨で、公衆衛生学の教授が論じていました。私がずっと感じている事が記事になっていたのです。この記事を見て愕然としました。思えば私の高血圧もコロナが流行し出した夏辺りから。その後約2年と、コロナの流行と一致しています。まさに私の症状そのもの。何となく不調が続き気分が冴えず、そんな日々が続いています。こんな記事を読むと、不調な人は自分だけでは無く日本中の人達がこんな感じなのかと思うと、少し気が楽にはなりますが、このフラストレーションは誰にぶつければいいんだと思います。そして、一体いつまで同じ事をさせるんだと思います。つい最近まで、相変わらずの蔓延防止とやらが発令されていましたし、こんな事ばかりで全く進歩の無い対応に、いよいよ嫌気が差して来ます。

先日もテレビでコロナの事をやっていましたが、解説の女性の方が、1年間に何回もワクチンなど打っていたら人間の身体はおかしくなって来ちゃうと言っていました。そんなこんなで私の血圧も変になったと思えば納得出来ます。本当に早くコロナの終息を願うばかりです。

今年のお花見ランの東川の桜です。お花見している人もたくさんいました😊。お花見をしないと日本人はダメになっちゃう感じがしませんか?😅。冬が寒いとピンク色が強くなるそうですが、今年は本当にそんな感じでした。f:id:x-japanese:20220407075241j:image

197.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.付録

私の鉄チャン人生はこのように、大体大学生の前半位でフェードアウトして行くようになりました。その後も旧友から撮影の誘いがあり、時折、ぶらぶら旅行として一緒に行く事もありましたが、以前よりは少なくなって行きました。その後は大井川鉄道に続き、さまざまな場所でSLが復活し出し、特筆すべきは1979年の山口線でした。その線は非電化であり勾配区間もあり、SLファンの私にはまさしく垂涎の的で、復活が決まった時はどうしても行きたい気持ちで一杯でした。また私の好きなSLでもあったので、何とかならないものかと思っていました。しかし広島よりも更に遠い山口県です。大学生になりアルバイトで稼げるようにもなっていましたが、新幹線はやはり高い。社会人になっても今度は時間的な問題で今に至っても行っていません。

その後も嬉しい事にSLの復活は続いて行きます。特に1988年は日本中がバブル期に入り景気が良い時代で、それと同調するように北海道や群馬県では大型SLが復活、そして秩父鉄道でも中型SLが復活。私にとっては夢のような信じられない出来事でした。しかしこの頃は自分は結婚や子育てが始まった頃と合致してしまいます。友人からの誘いは良くあり、その都度断るのは本当に辛く何度も行こうかと思いましたが、やはり家族第一。友人とは日帰りが可能な秩父群馬県には行きましたが、北海道や山口県のような宿泊を伴う所には結局行けずじまいでした。学生の頃のような野宿やYHに泊まる訳にもいかず、この子育て時期はやはり資金的なものも大きかったと思います。

そして、実際に撮影に行ってみると、やはり現役の頃とは違う物が結構あります。SLの魅力でもあり欠点でもあるのはあの煙です。特にあの煙の中には火の粉も含まれている事もあり、沿線火災のリスクもあります。その為、当初から大井川鉄道では石炭に無煙炭を使い、煙やススを少なくする努力をしています。なので、あの黒煙は到底望めず、あまり迫力のある写真は撮れません(音は変わりません)。また秩父鉄道などは復活した直後はSLにペイントがしてあり、まるで遊園地の乗り物のように見えました。復活した山口線では、当初、機関車の煙突に大きなカバーが取付けられました。これは集煙装置といい、煙がトンネル内に充満しないようにする運転士の為の装備なのですが、これがカッコ悪かった。労働環境という意味では仕方無かったのでしょうが、この機関車にはとても似合わず、ファンからの評判も悪かったのです。また煙突部分に大きなワッカみたいな物がつけられているSLもあります。これは回転火の粉止めと言われる、火の粉を飛ばさないように煙突の部分に回転する網を掛けるのですが、これも形に寄っては大きく形態を崩すので、沿線対策上仕方無いとは言え、ファンからすると勘弁して欲しい装備です。またこのSLの後ろの車両が不釣り合いと言うか、新型車両なのでファン的にはしっくり来ません。何とか旧型客車で走らせて欲しいと思ってしまいます。

SL奥久慈号です。大きなクルクルパーと呼ばれる回転火粉止めがよく分かります。f:id:x-japanese:20240304134650j:image

2021年11月現在、11箇所16両と随分とたくさんのSLが復活して走っています。形式も9種類とかなり豊富なラインナップです。動態保存という言い方をしていますが、動いている事には変わりは無く、ファンとしては嬉しい限りです。山口線は既に復活して42年も経過しているので、復活後の方が長く活躍している感じです。また当初は前述のようなファンには受け入れ難い形態であったSLが、年数が経過してくるとファンを意識して来たのか、余計な装飾が段々と減って行き、また年数も経過して来ているので外観も貫禄も昔のような姿になって来ていて、撮影意欲も増して来ます。

そんな中で私はと言うと、今までは中々遠出が出来ず、関東近辺での撮影を中心に行っています。主に行っているのは秩父鉄道です。ここは自宅から1時間もしない場所であり、手軽に行ける事が出来、つい最近も行って来ました。また上越線のみなかみ号も、結構行っています。

東武鉄道では本当に最近復活させてるので、こちらも近々、温泉方々行ってみたいと思っています。また真岡鉄道も走らせているので、応援する意味でも行きたいと思っています。少し遠い所では、懐かしの会津です。ここは山口線と同じ形のSLが走っています。一度家族旅行で会津の東山温泉に行った時、女性軍を市内観光に行かせてその間に撮影に行きましたが、それっきり。退職して少し暇が出来たら、このSLの旅をしたかったのですが、中々その望みも叶わず今になっています。今後は少しずつ暇を見つけて、妻とでも旅行方々、撮影に行ってみようと思います。

会津のばんえつ物語号です。この時は時間が無かったので仕方無く駅撮りでした。f:id:x-japanese:20220316174517j:image

しかし、女性は撮り鉄には理解がありません。妻曰く、「乗り鉄はまだ付き合えるけど、撮り鉄はもう勘弁して欲しい」との事です。思えば復活したSLの撮影にも随分付き合わせました。スキー帰りには結構、SLみなかみ号を撮りに行ったりしていました。

水上駅を発車するSLみなかみ号です。やつぱりSLは冬ですね〜😊。f:id:x-japanese:20220410145739j:image

沼田駅を発車するSLです。これは秩父のSLと重連の時の写真です。f:id:x-japanese:20220312212812j:image

同じく沼田辺りを走るSLです。f:id:x-japanese:20220316081905j:image

また結婚したばかりの頃には、静岡の友人に会いに行くついでによく大井川鉄道の撮影に付き合わせました。秩父鉄道群馬県には子供まで連れてよく撮影に行っていました。あの長い時間じっと待っていて、撮影が終わるとサッサと帰るのが耐えられないそうです(笑)。そこに思わぬ理解者が誕生したのです。そうです、初孫の男の子です。この子は幸いに鉄道好きになってくれて、よく子守方々、西武線武蔵野線を一緒に見に行ってます。そして長女のお許しを得て、先日初めて秩父のSLに乗りに行きました。本物を初めて見た時はビックリしたようで、SL好きになってくれるかは微妙なリアクションでした(笑)。

現在私は昨年会社を退職、第二の人生の再就職先で頑張っています。その仕事にも慣れて、それ程負担もストレスも無い仕事なので、前立腺癌を患った身としては大変助かっており、誘ってくれた社長には大変感謝しています。その仕事も頑張りながら、これからは暇を見つけて、SLの撮影にどんどん出掛けて行きたいと思っています。このブログが続けられるよう、身体にも気をつけて行きたいと思っています。

よく行く秩父のSLです。最近はケータイで写真を済ませちゃう事も多くなりました😅。とにかくいつまで走ってほしいと思いますf:id:x-japanese:20220122171656j:image

196.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.19

このシリーズもこれでおしまいです。書いてみると、中2から大学1年の6年間に一泊以上で鉄チャンをしに行っているのは、2度の受験期を挟んだとは言え、これに書いて無い3回を含めると18回しか無い事に割とビックリしました。もっと行っていたように感じましたが、その他は日帰りだったり、何か違う事で夜行列車に乗っていた事が分かりました。この日帰りまで書くとかなりの量になるのでこの辺が潮時、またの機会があれば書きたいと思います。本当にもっと行きたい所はたくさんあったのですが、やはり先立つ物はお金。暇はあるけど金は無いという典型的なパターンで、しがない学生では中々旅費を出せず、また写真のフィルム代はもちろん、帰って来てからの現像代やプリント代がバカにならなかったのもありました。さらに、いい写真が撮りたいと交換レンズを買ったりアクセサリーを揃えたりと、お金はいくらあっても足りませんでした。逆を言うとそんな中でもよくこれだけ行けたと思っています。その後も友人の付き合いとかで、結構出掛けていたのですが、真の鉄チャン旅行は大学生になると急速にしなくなって行きました。最後に変速の鉄チャン旅行を書きたいと思います。

1977年の高2の春、私の高校はまず秋の修学旅行の計画から始まります。旅行委員を決めて、それぞれのクラスで行きたい所を決めて、全体の行き先を決めるという学生主体で計画を進めるのです。その頃私はまだまだ撮りたい物がたくさんあって、特に広島に興味のある機関車がありました。この年の夏に行こうと思っていたのですが、どうしても予算的に難しいと思った私は、この修学旅行を利用して広島まで行けないかと考えました。学校内の鉄チャン仲間を集め、新幹線が使える修学旅行の行き先を広島にして自由行動の日を作り、あの機関車を撮りに行かないかと提案しました。それに賛同してくれた仲間達と旅行委員に立候補、私を初め3人が委員となり、名目は広島の記念館の見学と尾道散策とかのプレゼンをして、見事コンペに優勝。修学旅行を広島にする事が出来ました。

その後の詳細は先生と旅行業者が決めるので、本当は一泊目と二泊目は広島市内のホテルにして翌日の自由行動日に直ぐに出発出来る様にしたかったのですがこれだけが叶わず、広島からかなり遠い観光旅館になってしまい中日の自由行動の撮影時間が少なくなってしまいました。そして修学旅行初日、まだ出来たばかりの山陽新幹線であっという間に広島に到着。その速さには本当に驚きました。そして市内観光、翌日が自由行動でした。我々は観光どころでは無く、早くも明日の自由行動の日が待ち遠しく、心ここに在らずという感じでした。その日は旅館に着くと、先生の説明や色々なレクレーションがありましたが、それが終わると直ぐに翌日の撮影の準備をしました。事前にある程度の準備はして来ましたが、さすがに修学旅行にカメラバッグを持って行く訳には行かず、撮影の時の荷物に苦労しました。

そして翌朝、当初の予定から随分と遠くなってしまった為、目的地まで時間がかかり、朝食もそこそこに直ぐに出る事になってしまいました。この旅行では帰りの門限を設けていましたが、出発時間の制限は設けて無かったのです(普通設けてないですよね😅)。先生達も我々の事は何となく分かっており、その辺は見過ごしてくれていたんだと思います。旅館の人に挨拶をしていざ出発。今考えるといい時代でした。

お目当ての場所はセノハチと言われた瀬野駅、ここには旧型電気機関車のパイオニア的な機関車と、東京地区で数年前に使われなくなってしまった機関車が移動して頑張っていたのです。短くなってしまった撮影時間を有効に使おうと、駅や機関区での撮影が主となってしまいましたが、往年の名機関車と、久しぶりに見るその機関車に一同感激。この機関車はこの地域にある急坂区間で、貨物列車の後押しをする作業を行なっており、以前に活躍していた頃とは比較にならない程の地味な仕事でしたが、それでも元気に活躍する姿は本当に嬉しく、やっぱり会いに来て良かったと思いました。f:id:x-japanese:20240217215804j:image
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すると一本位は撮影名所で撮りたいという話になり、時間的に厳しかったのですが走るようにその場所へ行き撮影しました。しかしお目当ての貨物列車はスカスカの状態で、その機関車の後押しする姿はありませんでした。機関区で確認しなかったので、これは勿体無い事をしてしまったと思いましたが、時既に遅し。修学旅行を鉄チャン旅行に利用したバチが当たったのかと少し反省しましたが、その後はまたダッシュで戻って来て、帰りの時間まで駅や機関区で撮影をしていました(この時のショックと言ったらなかったなあ😅)。f:id:x-japanese:20240217204218j:image

そして自由行動の門限ギリギリに旅館に戻りました。何事も無かったかのように夕食を食べ風呂に入り、朝も早かったから早々と寝たかったのですが、修学旅行の夜は中々騒がしく、途中で起こされたりして夜中まで騒いでいたのを覚えています。翌日は計画通り尾道観光の為、広島を後にする事となりました。我々はあの旧型機関車に会える事が出来た事に大満足、しかし唯一、苦労して行った撮影名所でお目当ての写真が撮れなかったのが悔やまれ、またいつか来たいと思っていました。

その機関車はその後も暫く走り続け、私はその後も幾度か行く事を計画しましたが、修学旅行のように新幹線が使えればいいのですが、その資金が出せませんでした。かと言って、いつもの大垣夜行を使う手もありましたが、計算すると17時間以上電車に乗る事になりさすがにキツいという事で、断念していました。鉄チャン熱が冷め初めた後も、この機関車だけはまた撮影しに行きたいと思ってました。社会人になった後もこの機関車は走り続けていたので、あと1回でいいから何とか撮影に行きたいと思っていたのですが、今度はお金はあるけど暇が無い状況になっていました。そしてついにそれは叶わずにその機関車は廃止の時を迎えてしまいました。鉄チャンシリーズの最後の勿体無いと思ったのはこれです。そしてこの時に、時間をもっと有効に使っていれば少し位の自由な時間は作れたはずと強烈に思うようになりました。この頃の会社と言えば、個人は後回しで団体行動が当たり前、ダラダラと無意味なサービス残業だったり、取れない有給休暇だったり、休日の会社行事の付き合いと、当初は遠い昔の会津のYHを彷彿させるような社会人人生でした。まだまだこの時代はパワハラ全盛時代、まだ土曜日は休みじゃ無かったですし、休まず出社する事や、長い時間会社にいる事が良しとされた時代です。しかし私はこれを契機に、所謂、社畜社員にならず、人間的な暮らしが出来るように時間を安売りするような事はしないと決め、歩むようになって行くのでした。

この鉄チャン人生は、私にさまざまな経験をさせてくれ、生きていく為にもさまざまな教訓を教えてくれました。そのお陰で、何とかいい人生を送れるようになったと思っています。やっぱり何か目的を持っている人は時間の使い方も上手ですし、会社人間にもなっておらず、鉄道の趣味はそう言った意味で、私にいいモチベーションを与えてくれたと思っています。今でも時折、復活しているSLを撮影しに行く事がありますが、その都度鉄チャン旅行の色々な事を思い出し、その時々が懐かしく思い出され、鉄道に感謝しながら撮影をしています。これからも色々あるでしょうが、昔を思い出しながら、SLなどを追いかけて行こうと思っています。この記録などもこれから書いて行けたらと思っています。

瀬野機関区から貨物の後押しの運用に出区する機関車f:id:x-japanese:20220106120745p:image

195.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.18

その翌年の春、1980年3月、久しぶりに友人から誘われて二度目の身延線に行く事になりました。この頃になると鉄道より楽しい事が多くなっていて、鉄チャン活動も殆どしなくなっていました。この時は、前年の冬に運転免許を取ったばかりの私が運転したくてたまらなかった事もあり、家の車を借りちょっと行ってみるかと、友人4人と出発する事になりました。静岡まで行くと言うと親はかなり心配そうでしたが、そんな事も気にせず出掛けて行きました。この旅行も貧乏旅行で、夜に出発して延々と一般道を走り、静岡の富士の町まで辿り着きました。途中、暴走族と出会ったり眠気でたまらなくなったりと、運転している私だけが苦労するという往路となりました。

到着して、まずは富士山がよく見える場所で撮影。しかし自分は寝不足と運転の疲れで車で寝ていました。その後は駅間が長く歩くと大変な山間部へ移動、適当な空き地に車を止めては撮影するという事をしていました。初めての車での撮影は、行動範囲が格段と広がりました。今までは比較的駅近くや徒歩圏内での撮影でしたから、例えば山の上の道路からの俯瞰撮影とか、川の対岸からの撮影とかが可能となります。また電車の時刻を気にしなくて済みますし、長時間停車している貨物列車などは追い抜き撮影も可能で、撮影効率も格段に上がります。この事は、これからまた鉄チャン活動を、車を使う事で復活させようかという気持ちになりました。交通費も4人で割ればかなりの節約になりました。しかし、車の関係で運転は全て自分がする事になっていたので、まだ慣れない私は結構疲れてしまい、車で横になって待っている事も多かったのです。また帰りの事を考え始めるととても気分が重くなりました。他の友人達はただ寝てればいいけど、私はまた東京まで運転していかなければならないのです。

そんな事を考えて車の中で休憩していると、昨年、友人と日鉄羽鶴鉱業という所へSLを撮影に行った事を思い出しました。この時はこのSLが久しぶりに動き、おそらくこれが最終運転となるだろうと、かなりのファンが駆けつけていました。我々は東武電車で葛生という駅まで行き、そこで友人と、そのまた友人が車で待っていてくれて、初めて車を使った撮影をする事になりました。駅から撮影地まで車で一っ飛び。これは楽ちんです。その時は車って便利だよなーと思いました。

しかしその後が恐ろしかった。この友人の友人は我々より少し年上で、車の運転も慣れていました。この友人の友人はやって来たSLを撮影すると、我々にすぐに車に乗れとの指示。暫く走り去ったSLを見ていようと思っていた私は驚いてすぐにカメラを片付け車に乗りました。すると車を爆進させました。どうもSLを追いかけて抜かし、更に撮影しようという目的があるようでした。そのスピードたるや、今思い返しても恐ろしい程でした。辺りは町中ではないので道には人影が少ないにしろ大きい車も通り、見通しも悪い所もありました。それをかっ飛ばしていく物ですから、我々は生きた心地がしなかったのを覚えています。前や後ろには、似たような車が数台、やはり同じ道をかっ飛ばしてました。その結果ワンカット余計に撮影が出来、良かったと言えば良かったのですが、これでは事故のリスクが格段に上がってしまいます。私はこの時には車での撮影は危ないと思ったのです。

日鉄羽鶴鉱業のSLです。後ろにファンがたくさん見えます。f:id:x-japanese:20220317205428j:image

ふと現実に戻り、今回の旅行といいその時のSLの撮影といい、あれやこれやと考えると車での鉄チャン旅行は、自分が運転する時は労力が自分に集中し、それに対する撮影などの結果が伴わず、何か勿体無い気分になってしまいました。また他人の運転だと相手に同じ思いをさせてしまうし、またあのSLの時のように事故のリスクを考えると危ないとも思いました。この時もあのSLの時とまでとは言わないですが、お目当ての旧型電車の追っかけをしたい気分になり、実際してしまいました。また時間に縛られない事が返って帰る時間を遅らせたりして、この旅行も結局帰りは真夜中に帰って来る事になってしまい実際、連続の徹夜運転のようなものでした。鉄道なら寝て帰って来れますが、私はクタクタ、暫く運転はたくさんという心境になってしまいました。

そんなこんなで、車という物の便利さと怖さの両面を経験する事が出来たこの旅行。その後の車の運転や家族の旅行でもこの経験は十分活かされて、無理な計画をしないようになっていました。その結果、未だに旅行先での事故は無く、安全運転を続けられています。車に乗ると性格が変わる人も多いですが、やはり運転は余裕のある計画と冷静沈着が基本。これも鉄チャン旅行が教えてくれた物でした。

身延線の旧型電車と富士川です。こんな所でも車だと楽ちんでしたf:id:x-japanese:20211023164007p:image

 

194.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.17

大学生にもなると多少色気付いて来て、私にも春がやって来るようになりました😅。するとなんとなく興味は鉄道から離れて行きました。SLも復活しているといえ観光目当てであり、やはり本物を見ている私にはもの足りません。また好きな旧型の機関車や電車も次々と廃止されて行っており、中々興味をひく被写体も無くなって行きました。同時にノスタルジーにばかり浸っていないで、自分の将来もそろそろ真剣に考えなきゃと思ったのもこの頃です。次第に興味は車とかお洒落とか、そちらの方に行っていました。そんな中、GWに入る直前、鉄チャンの友人から誘いがありました。碓氷峠の機関車を、それも夜行を撮りに行かないかとの話しでした。

この碓氷峠峠の釜飯でも有名です。麓にあたる横川駅ではどの列車もこの急な坂を登る為に、頂上に当たる軽井沢駅では急な坂のブレーキ役として補助の機関車を連結します。鉄チャンじゃなくても横川駅や軽井沢駅で行われるこの連結作業は何かのイベントみたいに人だかりとなります。私は幼い頃から父の田舎に行く時にこの路線に乗ってこの機関車を見ていましたで、ここは大好きな場所でした。既に数回、日帰りで撮影には来ていたので少し躊躇しましたが、夜行と聞くと何故だかウキウキして来て、行く事にしました。この頃は客車列車も随分と少なくなっていましたが、まだ上野から高崎線信越線経由で遥か遠くまで行く、隠れ長距離列車が残っており、碓氷峠に行く時はいつもこの列車を利用してました。

横川に着くと、早速駅で連結風景を撮影。そして、まずは丸山変電所の所で準備運動がてら撮影、その後碓氷峠のハイライトを撮る為に、煉瓦作りの通称めがね橋の所まで、約5㎞程を歩きます。私はこの途中にある旧街道の坂本宿という宿場町の雰囲気がとても好きで、この時も横川駅からこの通りを歩き、撮影地を目指しました。今ではシェルパ君というトロッコ列車で途中の丸山変電所近くの峠の湯という温泉まで行けますが、そこから近いのでこの宿場町にもぜひ行って欲しいと思います。

この宿場町からめがね橋の道は旧国道18号で、その時は既に碓氷バイパスが出来ていて随分と寂れた道になっていました。なのであまり車も通らずウォーキングするにはいい道でした。途中、野生の猿も見る事も出来、初めて見た時は動物園以外でも生きている事に本当にびっくりしたものでした。そして目的地に到着。めがね橋は昔の路線の遺構でありそのまま残されている煉瓦作りの橋です。それをくぐり、トンネルの間に挟まれた新線の橋梁へ向かいます。

このめがね橋は、今ではウォーキングコースのアプトの道となり観光客で賑わっていますが、当時はそんな物はまだ出来て無くて、鉄チャン以外は誰も来ない静かな山奥にありました。道を歩いていると突然現れる巨大な煉瓦作りの遺構が、その頃はちょっと不気味で少し怖い位だったのを覚えています。そんな中にトンネルから出て来る機関車の轟音が山中に響き渡って来ます。この迫力はここしか味わえない、轟音と共に橋梁をゆっくり上がってくる列車や、さらにゆっくりと降りてくる列車を見ていると、何度来ても興奮してしまいます。

そしてひとしきり撮影を終えて、一旦横川へ戻り、夜に備えて小休憩。友人とタラタラ国道を下っていると、突然トラックが止まりました。すると駅まで戻るなら乗せてくれるとの事。我々は大感激。道すがらそのお爺さんの話では、よく我々のような鉄チャンを乗せてあげるのと事。このお爺さんも鉄道は大好きで、横川の街に当たり前のように響き渡る機関車の汽笛がいつまでも聞けるように、走り続けて欲しいと言ってました。

ここでは機関車の汽笛が生活の一部になっている事を私は初めて知りました。こういった目に見える物では無く、音という物も無くなって行くものなんだと思うと、何か凄く勿体無いと思いました。先程聞いたあの山の中の轟音もこの駅の汽笛もそう、確かに廃止になれば二度と聞く事は出来ません。SLもそう言った意味では同様で、よく保存されている物もあり見てホッとする部分もありますが、音とか熱はありません。改めて鉄道は生活に密着しているんだなと再発見したのを覚えています。この後の夜行列車の撮影では、写真だけでは無く、汽笛、連結音、排気音など、改めて意識しながら撮影をしたのを覚えています。そして軽井沢駅では恒例となった野宿、こんなお洒落な町で野宿するのは、今考えると相変わらず勿体無い行動をしてたと思います。そして夜行列車を撮影、翌日は朝の列車で帰りました。今ではビデオが簡単に撮れる時代になっています。特に写真もビデオも撮れる携帯電話は本当に素晴らしいと思います。私の中学生の旅行の時にもこのビデオがあったらと思うと、本当に勿体無いと思いました。

その後随分経ちましたが、新幹線の開業と共にこの機関車も廃止となりました。それどころかこの区間の路線まで廃止となってしまい、それにはかなりのショックを受けました。そして廃止となる前に一度撮影しに訪れましたが、その時にあのお爺さんの話を思い出しました。この情景と共にこの汽笛や排気音も無くなってしまうんだと思うと、とても切なくなって来たのを覚えています。しかしこの時は既にホームビデオがあったので、しっかりと音も残っているので、今でもあの場所あの頃に戻れる事が出来ます。その後、同じような事を感じる人がいたのでしょう。この機関車は保存され、さらに運転ができる動態保存という形態を取る事により、この街では今でも汽笛や排気音が聞けるのです。先日も私のお孫ちゃんと一緒に横川にある鉄道公園に遊びに行って来ました。街には時折、保存されている電気機関車の汽笛や排気音が響き渡っていました。あのお爺さんはどうしているのかと思い出し、元気ならさぞ喜んでいるだろうと思いました。

碓氷峠のハイライト、新碓氷川橋梁にて。f:id:x-japanese:20211023180916p:imagef:id:x-japanese:20220328085046j:image

 

 

193.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.16

撮影をもう一日延長する事を決めて名古屋に着き、本来乗るべきだった上りの大垣夜行の時間をやり過ごし、暫く名古屋駅にいて、中央線の旧型電車などを撮影していました。しかしこの後どうするか中々決まりません。いっそ違う線区に移動しようかと考えましたが、既にそんな電車が無い時間です。仕方無しに改札を出て町へ出ました。しかし駅前はビル街で、繁華街らしき物が見当たりません。既に深夜に近く、カメラバックなどを抱えウロウロして変な連中に絡まれたりすると厄介です。すると深夜営業のゲームセンターが目につき、とりあえずそこに入ってみる事にしました。当時はインベーダーゲーム絶頂期、私も受験生でありながら多少ハマっていた部類であり、そこから解放された今、早速インベーダーゲームの機械を探すと、ありました。

既に深夜、東京ではいつも混んでて中々出来ないのですが、ゲームセンターの中には人影もまばら、お目当ての機械は数台空いており、私はそこに座りました。時間はたっぷり、ゆったりとゲームを楽しむ事にしました。本当に当時のゲームセンターはインベーダーゲーム一色。待ってても中々開かないし、仕込んだノウハウを試したくても試せないという事が多く、フラストレーションが溜まっていました。ここでしっかりと溜め込んだノウハウを試してみてマスターすれば、帰ったら英雄になれるなどと考え(😵)、早速始めました。そしてそれからはあっという間。まさに竜宮城の世界。一体いくらつぎ込んだのでしょう。気がつくと財布の中はほぼカラで小銭だけの状態。カメラバックの中に予備のお金があるとは言え、雀の涙程度。当時はクレジットカードを持ってる身分でも無く、またキャッシュカードも持っておらず、貯金は多少あったものの地方では下ろす事も不可能でした。本当にこれではどこか駅前のビジネスホテルに泊まった方が良かったという位、使ってしまいました。これは勿体無い事をしました。確かに色々試して色々な技をマスターしました。それと引き換えに使ったお金と時間を考えると、ゲームセンターを出てみてから痛切に勿体無さを感じました。こういった情熱を勉強に向けていたらもっと違う世界が開けていただろうにと、何か無力感に苛まれ白々と開けた空を見ながら途方に暮れ、名古屋駅に向かいました。

交通費は周遊券があったので心配無かったので、とりあえずまた亀山へ向かいました。暫くその辺りで撮影していましたが、急に、もうすぐ無くなる近鉄の二階建て電車とのツーショットを撮れればと思い、松坂に向かい撮影をする事にしました。まあまあな写真が撮れ、その後松坂駅に戻るのですが、その道すがら美味しそうなお店がたくさんあり食指が動きます。初日に見た松坂牛のお店も、あのゲームに使ったお金で十分食べる事が出来ました。なんて勿体無い事をしたのだろうと、本当に後悔しました。会津旅行の時に心に決めた「後悔先に立たず」は大学受験でもこの旅行の松坂牛でも全く活かされておらず、こんな事だから受験も上手く行かなかったんだと自己嫌悪に陥ってしまいました。せめてお松坂牛弁当でもと思ったのですが、そんなお金も無く、そんな心理状態では食欲も無くなり、またパンと牛乳を買って、今度こそ帰る事とし客車に乗り名古屋へ向かいました。

名古屋に着くと、あのゲームセンターが思い出されました。この旅行では、元気付けられたり自己嫌悪に陥ったり、水平線に登る朝日を見て自然の雄大さとちっぽけな自分に気づいたり、新宮の朝市では働くという事を実感したり、YHでは人同士の交流に暖かさを再発見したり、またお金をケチるとろくな事にならないという事を学び、そしてさらなる後悔先に立たずという事を心に刻む事が出来ました。ある意味、今のこの自分の人生を受け入れ、改めて頑張って行こうという覚悟が出来た旅行でした。少し気づくのが遅かったですが「始めるには遅すぎる事は無い」という新たな座右の銘を持つ事ができ、少し大人になれた旅行になったのでした。

近鉄特急とディーゼル機関車、二階建てとのツーショットは叶いませんでしたが、運良く並びが撮れましたf:id:x-japanese:20211023161737p:image