前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

192.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.15

あまり勉強もせずそれなりの大学に合格し受験が終了、約10ヶ月振りの1979年3月、気分転換にちょっと遠出をするかと、単独で紀勢本線ディーゼル機関車の牽く旧型客車に乗りに行きました。この旅行は一人でしたから誰にも相談せず、ふらっといつもの大垣夜行で出発。当時は紀勢線内に夜行列車が走っていたので、翌日はそれを往復して夜を明かし、途中YHで一泊、その翌日も同じ夜行で夜を明かしそして帰りも逆の大垣夜行と、5泊6日の旅行でした。近くには伊勢神宮があったり二見ヶ浦があったり松坂牛のグルメがあったりと、機会があれば寄りたいなと思いながらも、何故だか昔を懐かしんで久しぶりに真の鉄チャンをやろうとも思ってました。この旅行は、満足した結果が出なかった大学受験の反省と、今後の自分探しでは無いですが自分を見つめ直す事をしたいと思っていました。心が揺れ動いている状態だったので、暫く一人でいたかったんだと思います。

初日の撮影は順調、その後、今夜の夜行に備えて亀山に戻ります。途中、松坂で降りて夕食は松坂牛と行きたい所でしたが、見てみるとやっぱり高い。まだ旅行も初日でしたから我慢して中華そば屋で夕食を済ませ、亀山へ向かいました。そこから紀伊田辺まで夜行に乗りそこで折り返し、また夜行で帰ってくるという事で宿泊代を浮かしました。夜行列車はガラガラの状態で発車。結構この夜は冷えました。まだ3月中旬の伊勢地方は暖かいのを想像していましたが、山間部に入ると何とチラホラ雪が舞っています。しかしこの客車はいい感じで温かい。この客車は、今では当たり前の電気式暖房では無く蒸気式暖房と言うもので、初めて認識して乗りました。時折「キンキン」とか「カンカン」とかの金属音が車内に響きます。蒸気暖房だと思うと何だか優しい温かさに感じて来るから不思議です。待ち合わせ等で長時間停車する時に機関車を見に行くと、暖房用の蒸気が漏れて辺りに漂っており、それに信号やら駅の灯りなどが重なり幻想的な風景になっています。SLの夜汽車もこんな感じだったのかなと思い、もう少し早く生まれて来たかったと思いました。

翌朝は朝一の列車の撮影の為、新宮で降り海岸に向かって歩きました。まだ薄暗い町を歩くと既に朝市の準備をしている通りに出ました。賑やかで活気のある風景で、その光景が珍しく少し見たりしてましたが買っても仕方無い、見るだけにしてその後海に出ました。するとそこには遮る物が何も無い太平洋が見え、まさに水平線を太陽が昇る所でした。思わずシャッターを切りました。こんな綺麗な朝陽を見た事が無く、暫くその光景に見惚れてしまいました。この土地の人達は毎日こんな朝陽を見られるのかと思うと、都会住まいは勿体無いと思いました。そんな事を考えていると列車が来る時間となってしまい、あまりいい写真が撮れませんでした。

その日はその後泊まる予定のYH近くで撮影し、早めに宿に入り休息を取る予定でした。すると私よりひと回り位年上な感じの人に話し掛けられました。同じ撮影に来ている人でした。色々と情報交換しているとその晩の宿を決めていないとの事。私がYHに泊まると言うと、その人は妙に懐かしがり自分も泊まっていいか聞いて欲しいとの事。その人はやはり昔、SLを撮りに行っていた時よくお世話になったようでした。宿に連絡してみると空きがありOKの様子。その日はその人と2人でYHに宿泊しました。宿には我々を含めて3組程度の人が宿泊しており、夕ご飯の後、何となく皆で話すようになり、その晩は結構楽しかった事を覚えています。全く知らない人達とこんな会話が出来るのもYHならでは。しかし基本的にYHはお酒は置いていません。私の相方の人はそれが結構辛かったらしく、翌日は他の宿にすると言っていました(笑)。そして寝る時に、この旅行の数日間を思い出し、色々と話したり感じたり見たりしているうちに、単純ですが自分に少し元気が戻ってきている感じがしました。やはり旅行っていい物だと思っていました。

翌日はその人とも別れ、また撮影の旅に出掛けます。そしてその日はとんでもない事が起きました。朝からある丘に登り撮影していると、たくさん美味しそうな大きなミカンが周りに成っていました。「これは何の種類かな?」などと何気なく触ってそのままの手でいました。その後買っておいたパンと牛乳で腹ごしらえ。春の穏やかな日差しにいい気持ちになり、ウトウトしてしまうようないい天気。目の前には白い海岸が見え、我ながらいい場所を見つけたと思い、そこでかなりの時間ゆったり撮影していました。そして昼を過ぎ場所を移そうと駅まで歩き始めました。すると何となく指がヒリヒリします。そして程なく唇もヒリヒリ。原因が分からず我慢してましたが洗面所で洗ったりしても収まらず、痛さや皮膚のガサガサは段々と酷くなります。しかしこんな場所では薬局も無く、かと言って医者にかかるお金も勿体無い。その後はひたすら痛みに耐えながら、夜も痛さに耐えて夜行列車に揺られ一晩明かしました。

翌日も唇は腫れて指はガサガサ。撮影どころでは無く、気を晴らす為列車で行ったり来たりしていました。どうもあのミカンの白い粉のような物が農薬だった事が後で分かりました。当時は果物や野菜の農薬なんて我々があまり知らなかっただけで当たり前な時代。そんな事も知らず、ミカンの農薬に触りその手でパンを食べた訳ですからたまったもんじゃありません。内臓をやられなかったのが幸いでした。しかし医者や薬局には行かずに我慢し続けました。この日はもう帰る日だったので家まで我慢しようと思っていたのですが、夕方にはついに不安になりある駅前の薬局に行きました。すると農薬に触った事による肌荒れと分かり、塗り薬等を買いました。もっと早く来ればこんなに苦しまなくて済んだのに、治療費を勿体無いと言ってもケチるのも、今考えてみてもどうかと思います。そしてその夜にはやっと痛みも収まって来て、家に帰るべく名古屋駅へ向かいました。

しかし、潰れたしまった撮影日程が気になり、その後一日延長する事に決め、その日の宿をどうしようか考える事としました。

紀勢本線ディーゼル機関車、春の伊勢路は暖かそうですが意外に寒かったf:id:x-japanese:20211023163130p:image

 

 

 

191.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.14

今回は高校3年になった1978年の5月のGW、第二弾飯田線の旅です。この旅行は昨年の播但線の旅行が忘れらず、これから受験期に向かう前に(周りはとっくに向かっていたのですが😅)、もう一度あの時のような鉄チャン旅行をしようと企画したものです。前回は切符の精算でトラブルを起こし、いい写真も撮れなかった為のリベンジの意味合いもありました。ゴールデンウィークの狭間、当時は長くても三連休程度で飛び石連休が多くまとまった休みは中々無く、この時は木曜日と土曜日をズル休みをして五連休とし、その前後夜行で移動するという、親にも黙って5泊6日の旅行を計画しました。泊まる駅は無人駅、これも誰が調べたのか鳥居という駅に3泊する事を決めました。そしてこの時はまだ寒いのでそれぞれ寝袋を持ち(これも兄から借りました)、東京駅の大垣夜行で集合、豊橋駅へ向かいました。

豊橋駅に着くと、あの時の事を思い出しました。一瞬嫌な思いになりましたが、その時の友人も一緒でしたからもう誤ちは犯しませんでした。一旦駅を出て腹ごしらえをし、少し駅で撮影してその後機関区へ。今回は計画的に行動しました。機関区ではしっかり撮影の許可を取った後、この休み中の貨物の運用状況を聞きました。これも今までの鉄チャン連中との情報交換の賜物、撮影を空振りしないように事前に情報を仕入れて、いざ出発です。あの頃より季節も良くなって、沿線は新緑が眩しく、花が咲いていたり、鯉のぼりが上がっていたりと、テンションが上がります。まだまだ旧型電車も元気。貨物列車も情報通りに走って来ます。撮影地も事前に仕入れている情報の中から選び、満足のいく写真が次々と撮れて行きました。途中、今晩の宿である鳥居駅の確認も怠らず、しっかりと無人の駅と待合室がありました。初日はとにかく門限が無いのをいい事に、夜遅くまで撮影を続けていました。そしてクタクタになり最終電車で駅に向かい、その場でダウンという状況で初日は寝てしまいました。

翌朝は駅の直ぐ近くの踏切の音で目を覚ましました。この日からそれぞれ自由行動、夜にこの駅に集合として、皆散って行きました。私はまたまた旧型電車のあのモーター音を聴きながら、のんびりしながらロケハン。良さそうな撮影地があると降りて撮ったりしていました。去年の夏のあの時を思い出しました。まさにあの時が甦り幸せな時間でした。途中、気に入った撮影地なんかでは友人と再会したりして、また一緒に撮影したりしてました。その時は結構撮影に来ている鉄チャンも多く、こちらから声を掛けたり掛けられたり、お互い情報交換などして、そんな事も楽しかったです。その会話の中である2人組の鉄チャンから、どこに宿を取っているのかと聞かれました。すると我々は野宿と答えました。相手は一瞬???の顔になりましたが、すかさず聞き返して来ました。鳥居という駅がいい野宿が出来る待合室があり、そこで野宿していると言うと、その鉄チャン達もそこに行っていいかとのお願い。お願いされる物でもないので、どうぞと言うと、その晩は我々プラスその鉄チャンの5人で泊まる事になりました。この晩はお互いの鉄道の話題でかなり盛り上がり、遅い時間まで話していました。

そして翌朝、また踏切の音で目を覚まし、それぞれの行動を開始します。他の2人はどうするか不明でしたが、また来るかもと言って列車に乗って行ってしまいました。我々はその日は豊川駅で夕方集合し、風呂屋を探し入ってから鳥居駅に向かう予定を立てました。ここまで行ったのなら豊川稲荷に行けばいいものを素通りでまた勿体無い事をしました。そして風呂屋を見つけて入ると直ぐに鳥居駅に向かいました。すると何やら待合室に人がいます。昨日の2人プラス2人、それに我々の7人になっていました。昨日の鉄チャンが新たな鉄チャンを連れてきたのです。これにも大盛り上がり。楽しい夜を過ごしました。そして就寝。

おそらくぐっすり寝ていたと思います。すると誰かが肩をたたき「もしもし」と声を掛けます。夢か?と思い目を開けると、なんと警察の人でした。びっくりして目を覚まし皆を起こしました。我々は怒られると思い、身構えました。すると警官は恐縮したような態度で、通報があり見に来たとの事。しかしそれは苦情では無く、近隣で強盗事件があったので、あの駅で野宿している若者がいるから教えてあげろと言われてやって来たとの事でした。「そんな訳だから気をつけてね」と言って警官は帰って行きました。その後はまた眠れる訳がありません。強盗がやって来るかも知れないと思うと皆一睡も出来ず、そのうちに目覚ましの踏切が鳴りました。その日は殆ど眠れず、しかし予定通り皆、今日の行動に出発して行くのでした。我々は今晩の夜行で帰る事を伝えると、他の鉄チャン達はとても残念がってくれました。

この別れは結構寂しかった。昨年のあの和田山駅よりも、仲間が増えて行くという楽しい経験。そして何より地元の人が、野宿する我々を心配して警察を呼んでくれる、そんな人間の暖かさ、人間の優しさを感じ、この場を離れるのが勿体無くなりました。またその鉄チャン達の連絡先も聞かずに別れてしまったのも勿体無かったと思っています。人って元は皆いい人なんだ、皆暖かいんだという北海道の時に感じた事を思い出し、改めてとてもいい経験をした旅行となりました。今でも仕事等でGoogleなどを見るとつい飯田線の方に移動してみて、鳥居駅周辺を見たりしてます。あの時、警察に連絡してくれたのはどこの家の人なんだろうと思いを馳せ、もうあんな経験は出来ないんだろうなと思うと、最近は少し寂しさを感じます。

飯田線の旧型電車、本当に色々な電車が走っていましたf:id:x-japanese:20211023162719p:image

 

 

190.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.13

この回は同じ年の3月、東北本線の旧型客車の撮影に出かけました。もうすぐ無くなるだろうと思われていた東北本線の客車の普通列車に乗り、雪を頂いた那須連山をバックにのんびり撮影旅行をしよう、と言うのは後付けの理由。この時は高校2年から3年に進学する春休み、4月からのコース別の選択授業やら、希望校の面接やら、いよいよ将来を考える時期になったのかと思うと急に寂しい気持ちになり、カメラを一台持ち早朝にふらっと家を出て、気がつくと上野駅に向かっていた感じでした。そして朝の5時半の上野発郡山行きの列車に飛び乗りました。

とにかく行ける所まで行ってみようと、ぼんやりと窓の景色を見ていました。こんな風に旧型客車に乗って揺られていると、今までの楽しかった鉄チャン旅行が思い出されます。あの時は楽しかったこの時は面白かった等、このままの歳でいたい、大人になんかなりたく無いと思ってしまいます。それは次第に自分は大人になる事が出来るのだろうかという不安に変わって来ます。自分の好きだったSLは既に無くなり、この旧型客車ももうすぐ無くなってしまう。今まで撮影に行ったあの機関車や旧型電車達も既に無くなってしまった物もあり、どんどん変化していくこの時代に自分だけが残されてしまうのではないかという憔悴感、孤独感。そんな将来に自分は生きていけるのだろうかなどと、哲学的な事を思うようになっていました。

そして気がつくと黒磯駅も過ぎ、この辺りで降りてみるかと、とある駅で下車。そこからブラブラと線路沿いの道を歩いていました。天候は薄曇り、この辺りまで来ると3月下旬とはいえ風が寒く、もう少し防寒してくれば良かったと少し後悔。暫く当てもなく歩いていると遠くに雪を纏った那須連山が見えて来ました。そしてそれをバックに東北本線が撮影出来る場所を確保しました。まだ東北新幹線が開業する前、頻繁に特急列車や急行列車が走って来ます。その中を縫うように貨物列車や客車列車がやって来ます。那須連山をバックに綺麗な写真が撮れて、少しテンションが上がって来ました。時刻表もダイヤ情報も持たず、来た列車をひたすら撮影。時にはわざと撮らず、ただ見ている事もしていました。

すると昔誰かが言っていた事を突然思い出しました。学校の美術の先生だったか、それは「本当に綺麗な景色と思ったら写真は撮るな」という事でした。当時はその意味が分からず、撮る方がいいに決まってると思っていたのですが、この那須連山をバックに通り過ぎる列車を見てると、何故か納得出来る気分になりました。その理由は「写真を撮ってしまうとそれが思い出になってしまう、写真が無ければその光景そのものが思い出となる。そちらの方が格段に上等な思い出になる」という事でした。写真派だった私はその言葉が納得出来ずにいました。しかしこの光景、カメラから覗く景色とそのまま目で見る景色は比較になりません。出来上がった写真もこのファインダーの中だけの景色に違いありません。今までの鉄チャン旅行を思い出してみました。すると不思議と、夜の客車から見た夜景や、何気なく列車から見た日の出の光景とか、あの北海道のフィルムが切れてしまった時やって来たSL列車の姿や、やはりフィルムが底をついた時にやって来たお目当ての機関車の姿だとかが思い出されました。それも写真のプリントではなく、無限大に広がるサイズで思い出されるのです。

何か今まで撮影して来た事が、とても勿体無い気分になりました。今までやって来た事は何だったのか、ただの記録だったのか。撮影なんかそこそこに、じっくりこの目で見ていた方が良かったのではなかったのか。綺麗だとか感動したと思っていた景色は確かに殆どが写真のプリントの景色であり、あの雄大さやその時の雰囲気、気候、音等はそこには含まれていない。そしてその後、撮影は止めてしまい、その後は東北本線を更に下って行き、夜行列車で帰って来ました。

確かにその時の旅行の思い出は鮮明です。40年以上経った今でも、あの那須連山の雪景色、ふらっと降りた駅、客車の中、夜の車窓など、鮮明に覚えています。しかし、この感動は誰とも共有出来ない。さらにあの時見た貴重な機関車や旧型客車の写真がほとんど無い。頭の中には画像がありますが、それを他人に見せる事が出来ない。今考えると、写真撮っておけばよかったと、本当に勿体無いと思っています。いずれ頭の中の画像もプリントアウト出来る時代が来るのでしょうか?それまで生きて、この画像を見せてあげたいと思います。

東北本線の上り各駅停車。那須連峰をバックにこの旅行の数少ない貴重なショットf:id:x-japanese:20211023160318p:image

189.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.12

この次は冬の上越線です。身延線の翌月の2月、雪の中を走る機関車と夜行列車を撮りに行かないかと誘われて行く事にしました。水上の駅の待合室が夜中でも開いてるし待つ人の為にストーブもあると言うので、またそこで仮眠をする計画で出掛けて行きました。しかしこの時は、初っ端から想定外の事が起きたのです。この時はほぼ夜中に出発する上越線の夜行列車に乗る為に上野駅に向かいました。友人は一足先に現地入りしていて(学校サボって先に撮影地に行ってたのです)、私が一人で現地の水上駅で落ち合う計画でした。当時はまだスキーは列車で行く時代でした。スキーの臨時夜行列車もたくさん出ていて、私はその中の一つの最終列車に乗ろうと予定してました。

上野駅に着くとお目当ての列車が止まっていました。席は埋まっている感じでしたが、車内には人が立っている気配はありません。これなら最悪、水上駅まで立って行ってもその後仮眠するからいいかと思っていました。そしてそのホームへ向かうと信じられない光景が。なんと、列車の入口のデッキ部分には人が一杯で中に入れない状況だったのです。どうして?と思い客車の中を見ると、その車内の通路は横になって寝ている人でギュウギュウの状態。どこの車両を見ても同じでした。そうしているうちに発車ベルが鳴ります。私は荷物とカメラバックがあり、入れるスペースがありそうにありません。乗ってる人達も殆どがスキーヤーで大きい荷物の人ばかり。とうとう乗れずに、その列車は発車してしまいました。

「これはヤバい」。友人達は私がこの列車に乗ると思っているのです。当時は当然ケータイもありません。どうしようかと思っていると、周りにも乗れずにいたスキーヤーが数十名残っていました。するとその人たちはいきなりホームを駆け出して行きました。どうも、本来走らないはずのスキーの臨時列車があるようなのです。私の勘違いだったか、駅員に聞くと確かにもう一本走るようなので、そのスキーヤー達の後ろを着いて行きました。このまま列車が無かったら、山手線の最終電車にも間に合わなくなり、家にも帰れなくなると思うと、いきなり不安になりました。すると確かに列車が止まっていました。やはり座席は一杯でしたが、入口のデッキはまだ余裕がありました。いやー乗れてよかったと一息ついていると、その後、先程の列車に乗れなかった人達が必死に乗って来ました。程なくギュウギュウの状態になりました。駅員も、乗れない人達の為に乗れる所を案内しているようでした。そして発車ベルが鳴り発車。ホームにいた人は全て乗れたようで駅員さんもホッとしているようでした。

水上までデッキに立って約3時間弱、これから長いな〜と思っていると周りの人の視線を感じました。周りはスキーヤーの人ばかりです。思った通りの質問が来ました。「君、スキーの格好じゃないね、何でこの列車に乗ってるの?どこ行くの?」。私が「上越線まで機関車を撮影に行く」と言うと、周りの人達がオオウケします。「この寒い中写真撮るの?一緒にスキー行こうよ」とか「鉄道の趣味はモテないぞ」とか結構イジられ、その場は結構盛り上がりました。そして周りはゴツいスキーヤーばかり思ったら、女性も数名いました。直ぐ隣になってしまったお姉さんは結構可愛い人で、その人からも色々聞かれました。「いくつなの?」「鉄道が趣味なんだ?彼女いないの?」とか結構話されました。そのうちに皆さんは寄っ掛かったりしゃかんだりして仮眠をし出しました。私の隣の女性もそのうちにウトウト。私もカメラバッグに座りウトウトして来ました。しかしこんな直ぐ隣に年上の女性がいる経験は初めてで、ドキドキの傍らウキウキ。ほぼ肩を並べている状況は、何か寝てしまうのが勿体無い感じで、長いと思っていた水上まであっという間でした(笑)。

水上に着き、このまま乗っていたかったな〜、降りるの勿体無いな〜と思いつつ皆さんにお別れの挨拶をして下車しました。皆さんは石打まで行くとの事でした。水上では結構人が降りました。2月の真夜中です。そして水上は県境の駅、雪がチラホラ舞っており周りは雪景色です。その寒さに一気に現実に戻り待合室へ、友人もそこに居るはずです。そこであのお姉さんを思い出しながらもう一眠りするかと思い、待合室に行った瞬間、そこも列車のデッキ状態。ギッシリとスキーヤー達が横になって寝ていました。これにはびっくり。結局この日はあの甘い経験もどこへやら。ほぼ横になれずに一晩明かす事になりました。

上越線の下り貨物列車。この頃はカメラも2台、モノクロ写真にもハマってましたf:id:x-japanese:20211023165749p:image

これは特急はくたかです。今は北陸新幹線の名前になっていますねf:id:x-japanese:20220315220940j:image

188.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.11

今回は身延線です。前回の旅行では資金的に散財してしまった為、旅行を続ける事が出来ずに仕方無しに帰る事にしました。暫くは撮影に行く気にもなれないと思っていましたが、そんな事もすぐに忘れて、あの飯田線の旧型電車をあまり撮影出来なかった事を思い出すと居ても立っても居られず、その後すぐに行く事にしたのがこの路線です。ここも飯田線ほどでは無いですが結構旧型電車が走っており、また都心から比較的近く日帰りは十分可能だったので行く事にしました。また、この路線はトンネルの断面が小さい為、電車のパンタグラフがそのままだとトンネルに当たってしまうので、車両の屋根の部分を低くして対応している珍しい路線でした。その形態にもとても興味があり見てみたいと思っていたのでちょうど良かったのです。今回は首都圏を出る遠出としては初の単独旅行でした。

この時は夜行で行くと早く着き過ぎてしまう為、朝一番の静岡行きの各駅停車に乗り、身延線に向かいました。駅に着くと、端のホームに旧型電車が止まっていましたが、飯田線の時のような驚きは無く、反対に思っていた以上の駅の都会っぽさに(失礼)に旧型電車が似合わず、ミスマッチのように感じました。とりあえずロケハン(ロケーションハンティングの事です。運転席の後ろにかぶりつき、いい撮影地は無いか探す事です)の為に運転室の後ろを陣取りました。程なく発車すると、これまた旧型電車っぽくない高架の上を複線で走ります。止まる駅も高架駅で東京と差が無い感じで、完全に興醒め状態でした。こりゃ絵にならないなと、一通り撮影したら早々と帰るようかなと思ったその後です、前方に見事な富士山が現れました。それと同時に高架が終了、旧型電車に相応しいビジュアルになって来ました。この日は快晴だった事もあり、冬の雪を頂いた富士山はとても綺麗で見事、東京からでも快晴の日には富士山は見れましたが、裾野までしっかり見えるのには大感激しました。こんな富士山は見た事が無く、これで一気にテンションが上がり、富士山をバックに走る旧型電車を追いかけて、一日中沿線を駆け回りました。

その後、少し山に入り雰囲気のいい駅で夕刻の撮影などもして、この後どうするかを考えながら歩いていると、道路の脇に小さな食堂がありました。「ヤキソバ」の旗が掲げてあり飲み屋風にも見えましたが、昔懐かしい感じのお店でした。まだお酒を飲む訳では無かったので一瞬躊躇しましたが、そんな遅く無い時間だし面白そうだから入ってみる事にしました。ちょっと前だったら絶対にこんな事出来なかったのですが、地元の食も旅の醍醐味、余裕がある時はこんな事もして行こうと、少しずつ思うようになっていました。

扉を開けて入るといきなり「いらっしゃい」の威勢のいい声、初老の女性が出迎えてくれました。カメラバックを肩に下げた私を見て一瞬ビックリしたようでした。昼を食べて無かったのですぐに食べられる物を聞いたら、オバサンはすかさずヤキソバを勧めました。そして席に座り一息付いていると、地元の人と話すと決まって聞かれる「お兄さんどこから来たの?何しに来たの?」が飛び出しました。「東京から電車撮りに来た」と言うと、「は〜😳」の返事。そのお店はカウンターの鉄板焼き屋のようになっていて、オバサンはそこで手際良くヤキソバを焼いてくれました。それを食べているとそのオバサンは色々と話し始めました。最初は私への質問攻め、その後はオバサンの昔話し、その会話が楽しかった。お酒でも飲めればさぞ楽しかったろうと思う位、色んな話をされ、あっという間に時間が過ぎ、常連の客が入って来るまで楽しい時間を過ごせました。

店を出ると外は真っ暗、そして駅に着くと、今日中に東京へ向かう電車には間に合わない時間になっていました。途方に暮れていると、何と運休だと思っていた貨物列車が停車していました。素早く三脚を立て撮影を終え、これからどうしようかと考えながら、ホームのベンチに座り暫くその機関車を見てました。すると運転士が顔を出して私に話しかけて来ました。また「どこから来たの?」から始まり、思ってもみなかった会話が始まりました。そして電車が来るまで、楽しい時間を過ごせました。結局この時は、逆の大垣夜行に乗り東京まで帰りました。翌日は始業式だったので、そのまま学校に行ったのもいい思い出です(私の学校は都立で当時制服が無かったのが幸いでした、笑)。

今まで、旅先でこんなに人と話した事はありませんでした。そして地元の人や知らない人との会話がこんなにも面白い物だなんて初めて気が付きました。今までは友人と複数人で旅しており、その必要が無かった言えばそうですが、それでも色々な所で色々な人と会話をする機会はあったはずです。今までも今日のような楽しい時間が過ごせたかもと思うと、何と勿体無い事をしていたんだろうと思いました。これからは出来る限り会話という物を意識して旅行して行こうと思いました。

しかし最近は世知辛い世の中になってしまい、知らない人との会話も難しくなって来ましたね。またあの頃のような無垢な気持ちで会話が弾むような時代が来るといいと思っている今日この頃です。追伸ですが、数年前にB級グルメ大会で、この富士宮焼きそばを食べましたが、まさにあのオバサンのお店のビジュアルでした。当時はこの界隈では焼きそばがご当地の食べ物として広がっていたようですが、あの時食べた物がこの焼きそばの原型なんだと思うと急に懐かしくなり、また行きたいと思いましたが既に場所なども覚えおらず、改めて勿体無い気分になりました。

身延線の旧型電車です。本当に綺麗な富士山をバックに走っていましたf:id:x-japanese:20211023164724p:image

187.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.10

今回は飯田線です。1978年1月、ここは当時、動く旧型電車博物館と言われている程、さまざまな古い電車が走っておりました。また私の好きな旧型の電気機関車も走っており、いつか行きたいと思っておりました。友人に誘われたのがキッカケですが、私は旧型電車のあのウォーンというモーターの音も懐かしく大好きで、首都圏でもまだ走っている横浜線青梅線等はよく撮影に行ってました。この時はお正月の冬休み、飯田線は、沿線には金運や商売繁盛で有名な豊川稲荷があるので、初詣も兼ねて行ってみるかと思い、東京駅の大垣夜行で待ち合わせました。この時は友人と2人だったのでとりあえず特に予定も立てず、1日位撮影してまだお金があったらどっか寄って来ようか、位の気持ちで出掛けました。年も明けたばかりで東京駅は比較的空いており、大垣夜行も空いていました。そして乗換駅の豊橋へ向かいました。

早朝、初めて豊橋駅に降りて飯田線のホームに向かいます。するとそこには信じられないような旧型の電車が並んで止まっていました。中に入ってみると床は木張り、座席の背もたれも手すりも木枠。本当に数十年時が戻ったような、雑誌でしか見た事の無いような電車がそこに止まっていました。それを見て一気にテンションが上がりました。一通り写真を撮っていると、発車の合図。つい乗ってみたくなり思わず乗車してしまいました。実はこの時、周遊券等を買わずに、まだ計画を立てていなかったので切符をちゃんと買っておらず(この頃はSuicaなんて無いのです)、降りた駅で精算する予定だったのです。

そして出発。旧型電車特有のウォーンというモーター音に、何とも言えないノスタルジックな気分となり、「やつぱり旧型電車もいいなあ」と、まだ薄暗い外の風景を見ながら所謂「吊り掛けサウンド」に酔いしれていました。電車はすぐに終点に着き、そして折り返して豊橋に帰るようでした。ホームに降りるとまだ早朝でもあり、店もやって無さそうな町の様子でした。仕方無く豊橋駅に戻る事にしたのですが、それが悪かった。この駅で精算すれば良かったのですが、豊橋駅で降りてその時精算して、どこか開いてる喫茶店でも見つけて腹ごしらえをしようと、そのまま戻ってしまったのです。すると車掌さんが切符の拝見にやって来ました(当時は車掌さんの検札が良くあったのです)。当然、車掌さんは我々の切符を見て怪しみました。色々説明しましたが、結局違反とみなされ、罰金の料金として運賃の3倍を請求されてしまいました。これにはテンション下げ下げ状態。まあまあ潤沢だった資金が一気に底をつきました。しかしその資金があったからよかった。無かった場合は本当に違反とみなされて警察沙汰になる所でした。

自業自得とはいえ、この散財は勿体無かった。豊橋駅に着いた時に一旦精算しておけばこんな事にはならなかったのに、やはり無計画や気分に流される行動は慎まないとロクな事にはならないようです。これが無ければ、私はその後友人と別れ、違う路線に行ってみようかと思っていたのでした。それが叶わなくなりその後はすっかり元気が無くなり、新年早々嫌な年になりそうだと気分は落ち込んでしまいました。豊川稲荷への参拝も行く気分では無くなり、これも勿体無い行動でした。追い討ちをかけるように、お正月早々なので貨物列車は全て運休、私の好きな機関車はその日の運行は無く、全く踏んだり蹴ったりの状況でした。その後は豊橋駅近辺で、東海道線の列車を撮影したり市電にも乗ったりしてしてぶらぶらしていました。こんな暗い気分での撮影は面白くないもの、友人と相談して、その晩の夜行で戻る事にしました。重ね重ね勿体無いと思う旅行でした。

今回の旅行はお年玉も貰った後だし、資金的な余裕もあり、豊川稲荷で初詣、その後は少し贅沢して美味しい物でも食べようか、そして何ならビジネスホテルでも泊まって翌日も撮影して行こうか位の事を思っていたのは夢と消え、またまた貧乏旅行に逆戻り、私はいつ優雅な旅行が出来るようになるのか、永遠にこの世界から抜け出せないのでは無いかと、かなり絶望的な新年となったのでした。

飯田線の旧型電車です。まさに動く電車博物館でしたf:id:x-japanese:20220318224502j:image

 

 

186.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.9

この旅行は1977年夏、友人から誘われて行った兵庫県播但線の旅です。やはり廃止となってしまうディーゼル機関車を撮影する為に6泊7日で行って来ました。東海道線を使って行くので、いつもの大垣夜行で出発。そしてその後3泊は何と駅構内での野宿生活でした。当時は夜行列車が多数走っていた関係で、列車が停車する主要駅では、駅は閉めずにずっと開いていました。もちろん当時は冷房設備とかは無く、窓も開けっ放しの待合室のベンチでごろ寝という感じです。途中からは私は別行動となり、最後の1泊は当時大阪に赴任していた兄のアパートに寄る計画を立てました。そして帰りは大阪の鉄道や街を少し見て回って、また夜行で帰る予定でした。

まずは京都で間もなく廃止となる市電の撮影、その後、再度梅小路蒸気機関車館を見学。前回じっくり見る時間が無かった為、ゆっくり見学。そして今晩の野宿先の和田山駅へ向かいました(誰が調べたのだか、寝やすい待合室がありました、笑)。京都から乗った急行列車は当時はグリーン車と指定席車しか冷房が無く、暑い京都の町を走る自由席はまさに地獄。時折通り抜けるフリをしてグリーン車内に入ったりして涼んでいました。この頃はアルバイトも積極的に行っており、小遣いは出来たのですが、カメラが良くなった分、望遠レンズや色々なアクセサリーが欲しくなり、そちらの方にお金を使うようになったので、相変わらずな貧乏旅行でした。

この旅行の私の目的はどちらかと言うと旧型客車でした。まだまだ都市部でも見られましたが、数自体は随分と少なくなって来ており、廃止になる事は目に見えていました。幼い頃から父の田舎に行く時に乗った旧型客車が大好きで、その後も旅情を誘うこのビジュアルがたまらなく、小学生の高学年位からはよく上野駅に行って見たり乗ったりしてました。この地方線区のように全ての列車が旧型客車で運用されているのは私に取ってはたまらなく、SL無き今、ここは天国のような所でした。友人が撮影している間も私は旧型客車に乗って行ったり来たりしている時もありました。夏の真っ盛り、出入口の扉は開けっ放しで、ふと先頭を見ると通路の間から友人の好きなディーゼル機関車が見えます。

連結部のドアも開けっ放しの客車列車の光景です。f:id:x-japanese:20220314211551j:image

夜になると車内は蛍光灯では無く白熱灯の薄暗い灯りがまた何ともいい風情を醸し出してくれます。ガラガラの車内で全開の窓から見る、山間に家の灯りがポツポツしか見えない光景も本当に映画を見ているよう。まるでフーテンの寅さんを地で行っているような気分は最高で、ずっと乗っていたい感情に駆られる瞬間です。

夜になると友人が和田山駅の待合室に集まって来ます。そして今日の晩餐会が始まります。まだ高校生なのでお酒を飲む訳では無いですが、近所のお店で買って来た弁当やおかずを肴に、今日の収穫を言い合います。そして夜がふけて、朝は機関車かディーゼルカーの汽笛で目が覚めます。今日も夏の真っ盛りのいい天気。洗面所で顔を洗い、撮影開始。f:id:x-japanese:20240217204716j:image

この夢のような時間、まさに青春も真っ盛りといった感じでした。時が過ぎていくのが本当に勿体無かった。いつまでもこんな時間を友人と過ごしていたいと思っていました。そしてあっという間に私は兄のアパートに行く日になりました。友人達はその日はお風呂屋を探すと言って、私と別れた後、町の中に消えて行きました。私は後ろ髪を引かれる思いで和田山駅を後にしました。

そして兄の待つ大阪へ向かいました。夕方に兄と予定通り待ち合わせ、兄は私の汚れ具合を見て驚き、その足ですぐに今でいうスーパー銭湯に行きました。4日分の汚れを落とすには十分、スッキリしてその晩は美味しいご飯をお腹一杯に食べ、ぐっすり布団で寝る事が出来ました。その時も兄は相変わらず、和田山の方まで行ったのなら、天橋立は近いとか城崎温泉が近いとか、勿体無い攻撃をして来ましたが、私は十分満足した旅行だったので何とも感じませんでした。それにしても、さすが大阪の街。スーパー銭湯などの施設はたくさんあるし、煌びやかだし食い倒れの街だし。田舎の旧型客車もいいけど、やはりこういった近代都市もいいなあなどと、勝手な事を思いながら、翌日兄と別れ、大阪の街をぶらぶらしてから帰路につきました。

播但線ディーゼル機関車。本当に青春真っ只中の旅行でしたf:id:x-japanese:20240217204740j:image

帰りに大阪界隈をぶらぶらして撮影したディーゼル特急ですf:id:x-japanese:20220314211649j:image