前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

521.ネガフィルムの懐かしい記憶、3

これは踏切の写真です。 それも山手線の踏切です。f:id:x-japanese:20240617074419j:image

今は山手線の踏切は駒込〜田端間の一つだけですが、昔は池袋〜目白間にもあったのです。場所は、ちょうど山手線と西武池袋線が立体交差する辺り。そしてここにちょっとした空間が出来ていて、それも土手のように傾斜がある草むらとなっているので、いい感じで座れるのです。そこは、小学生にとっては格好の見物場所となっていたのです。

振り返って見上げれば、このように西武池袋線も見えるのです(ちょっと写真が悪いですが😅。池袋駅に入る前に信号で止まっていたようで、何とかブレずに撮れてます)。f:id:x-japanese:20240617074416j:image

そんな訳でこの場所は、いつも小さい鉄チャン達で賑わっていて、それでも喧嘩もせず譲り合って見ていたモノでした。ここはその昔、祖母と電車見物に来ていた場所でもあり、「田端の次はここで撮影」と思っていたのでした。

そしてこの山手貨物線が、当時は本数が凄かったのです。この頃はまだ武蔵野線が開通する前です。今は埼京線湘南新宿ラインが走るこの線は、正に貨物線でした。それこそ引っ切り無しにやって来ると言った感じでした。この場所は池袋駅から少し下り坂になっているので、池袋方面からやって来る貨物列車が我々の目線で良く見えるのです(目白方面はカーブしていたので見づらかったのでした😅)。

貨物列車が通過して踏切が開いて、すると次の貨物列車はどうかな?と踏切に駆け寄ります。そして池袋方面を見ると、すぐに次の貨物列車がやって来るのが見えるのです。と、思うと踏切が鳴ります。警報器を見ると、逆方向から来る矢印が付いています。すると目白方面からも貨物列車がやって来ます。程なくもう一つの矢印も点灯。貨物列車が双方からやって来るという感じでした。もちろんその中に山手線も入り乱れ、この踏切は正に「開かずの踏切」だったのです。

当時、ここの小学生達の人気だった機関車は、EF60やEF65と言う新鋭の機関車でした。私もご多分に漏れず、当初はこれらの機関車が大好きでした。踏切の中に入り、池袋方面を見て何やら白色や青色が確認出来ると、それはその機関車です。すると誰かが、「来るぞー」と叫びます。子供達は一斉に草むらの土手によじ登り、いい場所を確保。程なく踏切が鳴ると、今か今かとやってくる新鋭の機関車を待ちます。その興奮がたまらなく、やって来ると全員が歓喜。そしてまた踏切に戻って池袋方面を見るのです。するともう次の貨物列車が見えます。それが黒っぽく見えると、旧型の機関車である事が分かります。すると子供達は、「何だよ〜」と言いながら散って行くのです。

そしてそんな時には山手線、振り返って見上げれば西武線がやって来るので、それを見ていました。さらに当時は西武線には貨物列車もありました。殆どがピンク色に塗られた旧型機関車でしたが、中には色こそ違いますがEF65によく似ていて人気がある、E851と言う新鋭の機関車も走っており、それも楽しみの一つでした。西武線も、当時は武蔵野線が開業していなかったので、貨物は池袋や国分寺で引き渡しを行っていたので、よく貨物が走っていました(可愛い荷物電車も走ってたなあ)。

それにしても、今考えれば勿体無い事をしていたモノです。確かに当時の山手貨物線は、茶色の旧型機関車、EF15の独壇場でした。しかしその中には、多分希少な旧型機関車も走っていたはずなのです。ネガフィルムを見ると、それっぽい機関車も写っていますが、この時は、古い機関車は撮影する気が無いのですから、ブレていたりボケていたりと散々です(こんな写真が殆ど。まだ腕も無く、そもそもハーフカメラでは動く物の撮影はキツいモノがありました😵。この機関車は多分EF12でしょう。勿体無いね〜😅)。f:id:x-japanese:20240617074410j:image

このハーフカメラでは、やはり動く物を撮るのはダメなようで、とてもブログに載せられない写真が殆どです。それこそ新鋭の電気機関車は結構なスピードで走り抜けていました。写真屋さんで、出来上がったネガフィルムを見てガッカリする事もしばしば(新鋭の機関車は殆どブレていました😅)。それでも当時は数枚でもお気に入りの写真が撮れれば満足していたのでした。

この踏切を堪能した後は、友人達と家路に着きます。その途中に、池袋駅の貨物の入れ替えをやっているのが見える道路がありました。そこでもひとしきり見物していました。ディーゼル機関車が行ったり来たりするのを見ているのも楽しく、時には真ん前に止まったりするモノですから、そんな時は我々から歓声が上がります。すると当時の運転士さんはこちらに向かって笑顔で手を振ってくれたりしたのです。そんな事が毎日楽しく、飽きもせず通っていたのを思い出します。f:id:x-japanese:20240617074413j:image

その他にも、この踏切の場所の西武線の向こう側には、ヨネクラボクシングジムがありました(電車からもよく見えました)。時折、友達と一緒にボクシングの練習を見に行ったりもしていました。当時はボクシングはかなり人気のあるスポーツでした。そこには、後の世界チャンピオンのガッツ石松がいたのを、友達は知っていたのです。その時はまだチャンピオンでは無かったので、私はあまりピンと来ていませんでしたが、当時は既に、この辺りの町の人達には知られた存在だったのです。私は見た事が無かったのですが、友達の中には見た奴もおり、かなりフレンドリーな人だったようです。当時はテレビ中継は、殆ど世界戦しかやっていませんでしたので、その後、ガッツ石松が世界チャンピオンになった時は、なぜか嬉しかったのを覚えています。

この踏切、今は無くなって、ヨネクラジムのあった辺りにはその代わりの跨線橋が出来ています。Googleマップで見ると、草むらも無くなって、西武線の立派な立体交差になっていて、昔の面影は全くありません。しかしいつか機会があったら、そこに行ってこのブログを見ながら佇んでみたいと思っています。