前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

221.鉄チャン旅行の思い出23 補機編

補機という鉄道用語をご存知でしょうか?。単純に補助機関車の略語です。鉄道は平坦な所ばかりではありません。時には坂を登ったり降りたりしながら、色々な町と繋がっています。そしてその坂道を登る時、我々が自転車を漕ぐ時パワーがいるのと同じように(最近は電動が主流ですが😅)、鉄道もパワーが必要になります。その時の一般的な解決方法が、補助の機関車を連結する事となります。昔は沢山の路線に、機関車が引っ張る客車列車や貨物列車が走っていたので、この補機は全国の所々で見られた風景でした。今は驚く事に、定期的な補機を使う路線は、私が以前、修学旅行を抜け出して鉄チャンに行った山陽本線セノハチ区間のみとなってしまったとの事です。ここはこのブログの196回目の勿体無い記憶19にも書いてある所です。残念ながらSLの補機という物は撮れなかったのですが、峠道を機関車が複数台で重い貨物列車や長い客車列車を引っ張る姿は本当にカッコ良く、よく見に行ったものでした。

この補機という物を初めて認識したのは、父の田舎の関係で昔からよく通っていた信越本線碓氷峠でした。ここの麓の横川駅で行われる補機機関車の連結作業は、小さい頃からよく見ていたのです。この横川から軽井沢の区間は、当時の国鉄の中で最もキツい急勾配が存在しており、以前はアプト式と呼ばれた歯車を使った機関車が使われていました。その後はアプト式は廃止され新鋭の機関車が導入されて、私が良く見ていたのはこの機関車でした。横川駅に着くと、父や兄が碓氷峠やこの機関車の事をよく説明してくれました。父はアプト式の時代も良く知っていたので、この機関車のお陰で随分とスピードアップされたと感慨深げによく話してしました。とにかくアプト式の時代は遅かったそうです。父が例え話しで、「先頭の客車から降りて小便をして、それからでも十分乗れる事が出来た位、遅かった」と笑って言ってました。冗談でしょうが、それ程遅かったとの事なのでしょう(笑)。

上野から急行列車に揺られて約2時間、山がどんどん近づいて来て、横川駅の到着が近づきます。車内アナウンスがあり、横川駅で坂を登る為に機関車の連結作業を行うので数分間停車する案内が流れます。すると列車の中から、左側の小高い所の側線に機関車が止まっているのが見えて来ます。その機関車が我々の乗って来た列車の補機を勤める機関車なのです。それも2台です。要するに自分の乗って来た急行列車は、先頭の機関車とこの2台の機関車の合計3台で碓氷峠を登るのです。そんな凄い坂道なんだと、子供ながらに興奮したのを覚えています。これを見たさに、いつも進行方向の左側に席を取って貰っていた位でした。当時の我家は自由席が当たり前、なので朝も早くから母と兄が上野まで一足先に行って並んでいたものでした。列車は夏なので窓も全開。横川駅が近づくと、この2台の機関車を見る為に私は窓から身を乗り出す位の姿勢でいたものでした。

f:id:x-japanese:20220504102636j:imageまさにこんな感じで見ていました😊。

そして列車は横川駅に到着。ちょうどお昼頃なので、ここの駅弁で名物の峠の釜飯を買い求める人で駅はごった返します。母はそれを買いにダッシュして行きます。そしてもう一つのごった返している場所があります。その機関車の連結作業を見る人達です。客車の後ろに機関車2両を連結する作業を見たり写真を撮る為に、親子連れや鉄チャン達が集まって来てその輪が二重三重にも重なり、山奥の静かな駅は一気に熱気に包まれる感じとなるのです。私は横川駅に着くや否や、急いで連結作業が行われる列車の最後部に走って行きます。周りにも同じような人がたくさんいます。最後部に着くと、直ぐそこに先程の機関車2台がやって来ています。そしてそのいかつい姿とブロアー(機械設備を冷却する送風機の事です)の音が、峠の機関車としてとても逞しく見えて、自分を含め周りの子供達も目をキラキラさせているのが分かりました。この熱気には小さいながらもとても興奮し、その連結作業には本当に魅力を感じるようになっていました。

f:id:x-japanese:20220504103002j:imageこれは到着後の切り離し作業です。

またこの機関車は坂を登るだけでは無く、降りる時も列車のブレーキ役として運行されていて、降りる時にも補機が必要なんだと驚いたのを覚えています。さらに「電磁吸着ブレーキ」という、緊急事態の時の装置が付いており、もし事故等で急勾配の途中で止まる事になった場合、この装置を線路に吸着させて列車を停めておく事が出来る事を兄が説明してくれました。車で言うパーキングブレーキのような物で、自分が大きくなって来るに従いこういったメカニカルな装備にも益々興味を持つようになりました。

f:id:x-japanese:20220504103518j:image走行中の電磁吸着ブレーキを狙ったショットです。

さらに、この機関車は旅客用と貨物用の両方の連結に対応すべく、凄く複雑な連結器を装備していました。これがまたたまらなかった。凄い機関車なんだと本当にワクワクしたものでした。

f:id:x-japanese:20220504103825j:image横川機関区にて。

その碓氷峠も新幹線の開通により、まさかのこの区間の廃止という結論になった時は、随分と大人になった自分でもかなりのショックを感じた事を覚えています。技術の進歩は本当に凄いです。その後、私は当時はまだ長野新幹線と言われていた新幹線に乗り長野に行った時、あっという間に軽井沢に着いた時は、本当にビックリしたものでした。父が感慨深げに話していたスピードアップという物を肌で感じたものでした。

あと良く行ったのは、上越線水上駅です。ここはその後はSLの撮影に良く来ていますが、ここも当時は客車列車や貨物列車が多く走っており、ここから三国山地を越える峠の為にここで補機を連結していました。この補機は前に1両付けるだけなのですが、旧型の電気機関車がその役目を負っており、碓氷峠とはまた違った魅力がある路線でした。私が鉄チャンをするようになった時には既に昼間の客車列車は無く、夜行列車の深夜に行われる補機の連結作業はよく撮影に行きました。これは水上駅寝台特急北陸です。

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その他にも八高線中央本線等、近場が中心でしたが、よく見に行ったり撮影しに行ったりしていました。f:id:x-japanese:20240217215329j:imagef:id:x-japanese:20240306152226j:image
f:id:x-japanese:20240217205806j:imagef:id:x-japanese:20240302000744j:imagef:id:x-japanese:20240304135652j:image

そのひたむきな、力強い機関車を見るたびに、自分は何と言うか、この補機の機関車を自分の人生と重ね合わせるようになり、その地味だけどとても重要な仕事という事に、憧れに近い思いを抱くようになっていました。縁の下の力持ち的な、地道だけど逞しい人になりたい、力強い人になりたいと思うようになったのです。その後、自分はそのような人生を歩んで行けたでしょうか。少し生意気な社会人ではあったと思いますが、概ね、そのような人生を送って行けたと思います。本当に鉄道には色々な事を教わりましたし、生きる糧のような物もたくさん教わりました。いつか最後に残っているというセノハチの補機を見に行ってみたいと思っています。