前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

523.ネガフィルムの懐かしい記憶、5

前回のブログでは自転車で行動する事が増えた事が書いてありますが、自転車は帰りが大変😩。来た道を、またえっちらえっちら、自転車を漕いで帰るのです。この写真は途中の明治通りを横切る山手貨物線です。この辺りは昔は山手線だけが立体交差をしていて、明治通りには貨物線の踏切があったのです。またこの近くに大きな五差路があったので、この踏切と相まって、明治通りはいつも渋滞していました(ちょうど撮影している場所の下辺りに山手線が走っていました。大塚方面を撮影しています。今では貨物線は湘南新宿ラインになって、山手線と同じ高さまで掘り下げられて、明治通りは完全に立体交差になりました)。f:id:x-japanese:20240306194403j:image

当時の貨物は、ここにも写っていますが、「ワム」と言う2軸の貨車が主でした。タンタンタンタン、という独特のジョイント音は今でも耳に残っています。この中に荷物が入っていたのです。そしてこの1両ずつを、田端等の操車場で仕分けして、各荷主に届けていたのです。今は殆どがコンテナですね。

そしてこの辺りまで帰って来ると、さすがに疲れて来ます。そして夕方になり暗くなって来ると、道路を走るのは怖くなって来ます。渋滞もしていますし、運転手も疲れてイライラしているのが分かるのです。さらに夜に近づくと、池袋の街が怪しくなって来るのです😵。当時の池袋はお世辞にもいい街とは言えず、一言で言うと巨大な飲み屋街のような街でした。

また風俗関連のお店も当時は多く、子供が夜にその辺を彷徨いていると、本当に危険だったのです。実際、私も何度も追いかけられた事がありました。自転車で走っていても怖そうな兄ちゃんから、「いい物持ってそうだな?」とか「おい、止まれー!」とか言われた事は数知れず。時には、不良やら女性にも声掛けてられた事もあり、その後は、自転車は日が長い夏にしか出掛けないようになりました😵‍💫。

その代わりになったのが都電でした。池袋の中心を突っ切らずに、都電の鬼子母神辺りまで歩いて行き、そこから都電に乗って飛鳥山の停留所まで行くようになったのです(もちろん電車で行く事もありました)。冬休みや春休みなんかは、都電の線路を歩いて行った事もありました(当時は都電の線路は、結構、歩道として利用されていました😳)。その時に、目的地まで行くのにこの飛鳥山公園を横切る形になったのですが、そこが当時では珍しい大きなお城の滑り台があったり、とにかく遊具が充実していて、ここでよく遊ぶようになりました。この公園は最近もお孫ちゃんと一緒に遊びに来ています(470回目のブログに書いてあります。本当に懐かしかった〜😊)。その時はまだSLや都電は保存されておらず、広々した公園でした。

そして公園でひとしきり遊んで、いつもの目的地へ向かおうとして、階段を降りて行き王子駅へ通じる跨線橋を渡ったのです。そしてそこから見た光景が中々面白かったのでした。この跨線橋東北本線と貨物線を跨ぐ、割と大きめの橋なのです。f:id:x-japanese:20240306230633j:image

最近もお孫ちゃんと行きましたが、当時はまだ新幹線が走る前。また田端操車場や山手貨物線もあった時代なので、とにかく引っ切り無しに、ありとあらゆる電車、列車、機関車、貨物が走って来ます。この跨線橋に我々はハマってしまったのでした。この写真に写っている人は、やはり一緒に行った友達です。前回登場した友人と3人で、その後、会津や北海道にも行ったのでした。f:id:x-japanese:20240306195940j:image

本当に見ていて飽きない。とにかく色んな種類が走って来ます。そしてとにかく近く見る事が出来ました。初めてここに来た時は、田端に行くのはやめて、ここで撮影する事にしたのでした。
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写真を見ると、京浜東北線の背景にはまだ新幹線はありません。懐かしい光景です。そしてこの跨線橋で撮影しているうちに、その後、関心が旅客列車に移るようになったのを思い出します。それまでは確かに鉄道を見るのは、初めは西武線でしたが、そのうちに池袋近辺の踏切の辺りか田端辺りばかりで(尾久客車区も近くにあったのに、当初はなぜかそちらの方には行きませんでした)、貨物列車が主だったので、この特急列車や寝台列車などが、初めて格好良く見えたのでした。

それまでも上野駅には、父親の里帰りとか、従兄弟の家に遊びに行く時などに、よく行っていたのですが、当初は貨物列車の方に興味があったようでした。それにしても、この飛鳥山公園跨線橋のネガフィルム辺りから、段々と旅客列車に興味が移って行ったのが、よく分かります。

その後もこの飛鳥山にはよく通いました。本当に色々な列車がやって来て面白く、ハーフカメラでたくさん写真を撮りました。しかし中々いい写真が撮れず、もっといいカメラで撮りたいモノだなあと思い出したのもこの頃でした。f:id:x-japanese:20240306231202j:image
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本当に色んな列車が走っていました。京浜東北線103系、ボンネット型の485系ひばり、ディーゼル181系つばさ、寝台電車581系はつかり181系あさま、そして貨物列車等々。しかし、写真を見ると、車両が何だか柱とかに被ってしまったり、シャッターチャンスを逃しているのを感じたのも、この頃からでした。小学生でハーフカメラではそれは当たり前なのですが、この飛鳥山跨線橋で撮影が、私のカメラに対する執着心を植え付けたのだと思います。