前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

520.ネガフィルムの懐かしい記憶、2

まずはやはり、記念すべき初めて撮影した写真から行きたいと思います。初めてカメラを持って撮影をしたのは、恐らく小学5年生位だと思います。写真を見て正直思う事は、「本当に下手だなあ」と言う事です😅。構図も何もあったものじゃなく、ただカメラを被写体に向けて押してるだけという感じ。でもなんと言うか微笑ましいと言うか、頑張って撮っていたんだろうなあと、あの頃の自分を本当に思い出してしまいます。今、私のお孫ちゃんはデジカメで撮り鉄をやっていますが、ハッキリ言って私より上手です。

それまでは単に見に行って楽しんでいたのです。その後は鉄道雑誌を買ってそれを読んだり、また鉄道模型も少しやり始めたりしていました。写真を撮りに行くという行動はしていなかったのです。それは私だけでは無く、友人もそんな感じでした。とにかく当時のカメラは高価で取扱いも難しく、子供に持たせる事などさせてくれなかったのだと思います。我が家にあったカメラはそれ程高価では無かったのですが、とにかく古くて使いづらく、とても私には対応出来なかったのです。

しかし、その頃我が家では、今まで使いづらかったカメラの代わりにと、この頃人気があった、リコーのハーフカメラを買ったのでした。このカメラは画期的でした。とにかく今までのカメラはやたらとゴツくて大きく重い。もちろん高い。そして露出だとかフィルムの感度だとか、使い方が面倒でした。私も数回、それまで我が家にあった古いカメラで撮影を試みた事がありましたが、とにかく上手く撮れませんでした。しかしこのハーフカメラは、軽くて小さく、値段も安かったし簡単で便利。余計な操作は一切要らず、ただ被写体に向けてシャッターを押すだけ。これなら親も使うのを許可してくれたし、小学生でも簡単に撮影出来たのです(この辺りは210回目のブログに書いてあります。今調べると、随分昔から発売されていたんですね。やはり我が家は貧乏だったんだと改めて思いました😵)。

そしてこのカメラを持って最初にやって来たのは、田端駅でした。この田端は、池袋から山手線の外回り電車に乗り左側を見ていると、田端到着前の辺りで視界が開け、そこには大きな貨物ヤードが広がっており、停泊している貨物用の機関車や、入れ替えをしているディーゼル機関車や、出発を待つ貨物や遠くからやって来た貨物等が至る所で見えたのです。冬なんかは貨物の屋根に雪が積もっているのを見ると、北国からやって来たのかなあなんて、小さいながらに旅情を感じていたのでした。

この頃からこの光景が大好きで、山手線で上野方面に向かう時には、必ず車両の左側にいたモノでした。そしてよくこの田端駅で降り、駅のホームや、改札を降りた道路の橋から、この貨物ヤードを見ていたのです。なので、初めての撮影はこの田端と決めていたのでした。

当時のカメラには日付機能なんて当然無く、ネガフィルムだけ見てても一体いつ撮った物かは、全く分かりません。とにかくその時撮影したフィルムがこれです。f:id:x-japanese:20240613080945j:image
f:id:x-japanese:20240613080948j:image
f:id:x-japanese:20240613080941j:image

橋の左手前が田端駅。橋から王子方面を撮影しています。ここは今は新幹線の車庫に変貌しています。しかし当時は貨物の操車場が広がっており、3枚目の写真には「ハンプ」と呼ばれる小高い丘になっている線路が見えます。ここに貨物を押し上げて行って、1両1両坂を下らせ、貨物を仕分けしていたのです。ボヤけて分かりづらいですが、ハンプの先には特殊な信号が見えます。

また次の写真ではディーゼル機関車の前に、係員が乗っています(構内係と言っていたかなあ)。今はあまり見なくなりましたが、当時はこんな光景は所々で見られ、特に入れ替え作業なんかでは、この構内係の人が、機関車を誘導したり線路のポイントを替えていたりしていました。今では誘導は無線、ポイントは自動が当たり前ですが、当時の鉄道はそんなアナログ的な事が多く、随分と社員も多かったのだろうと思います。f:id:x-japanese:20240613081043j:image
f:id:x-japanese:20240613081037j:image

このDD13というディーゼル機関車も、都心でもたくさん見られました。とにかく貨物扱いをする駅が、そこらじゅうにあったのです。よく山手線でも、池袋、目白、巣鴨の駅からも貨物の入れ替え作業をやっているのも見れました。そして主要な駅には必ずこのディーゼル機関車がいたモノでした。

しかしこれらの写真は見づらいです。ハーフカメラと言う、その名の如く、普通のフィルム1コマに2コマ取れるカメラなので、36枚撮りのフィルムが72枚まで撮れる計算になり、枚数は稼げますがとにかく画像が粗いのがたまに傷。さらに全自動というふれ込みだったので、ピントを調節する機能とかは一切無し。その為、レンズは広角。また低価格がウリなので、そのレンズが小さく、普通に人等を撮影するには十分でしたが、鉄道のような動く物や遠方の物を撮るには不向きで、それはこれらの写真を見て貰えば分かると思います。

しかし、これらの写真を見ていると、本当に懐かしい気分で一杯になります。当然の如く白黒写真です。やはり小学生の分際では、フィルム代や交通費が重くのしかかって来ます。撮って来た写真も一回で終わらす事は無く、また次回の為に取っておきたい気分なのですが、すると今度は家族から「〇〇日に使うからそれまでに返せ」とか言われ、急いでまた撮影に出かけたりしていました。

また初めから撮ったフィルムは全てプリントせず、現像をしてから数枚、プリントにしていた記憶があります。昔は写真屋さんに、そのフィルムを見る用の、下から明かりを照らす台が置いてありました。その上に現像が出来上がって来たフィルムを置いて、透かしてよく見るのです。そして気に入った写真を数枚、また注文するのです(これが結構骨の折れる作業でした。フィルムはとにかく画像が見ずらい😵)。写真屋さんも面倒だったろうなあと思います。そしてまた数日後、出来上がって来たプリントを貰う時には、何かテストの結果を貰うような感じでドキドキハラハラ(当時は結構な日数が掛かっていました)。それがいい写真だと小躍りするように家に帰って、その後、友人に見せたりしたモノでした。

この写真を見ていると一番思う事は、この当時の貨物の取り扱いはどんどんとトラックに取って変わられました。そして確かに便利になって行きました。昔は個人の荷物とかは、郵便以外では駅に頼んだり、取りに行ったりしていました。我が家では父の田舎から年末になるとブリが送られて来て、それを貨物駅まで取りに行くのが年末の風物詩となっていました。今と違い、発泡スチロールなんて無く、木枠の箱の中に氷が敷き詰めてあり、その中にブリ一尾が入っていたのです。当時は大塚駅に貨物の取り扱い場があり、よくそこまで取りに行きました。その帰りは木箱をそのまま持って帰るのですから、その隙間から溶けた氷が水となりビチャビチャ状態。そして魚特有の匂いもあります。それを山手線に乗って持って帰って来るわけですから重労働だったし、周りからするとたまらない状態だったのです。

今はこんな事は無くなり、家に居ながらにして受け取ったり出来ます。送る箱も綺麗でスマートになりました。送る時もコンビニ等で簡単に出来ます。企業の貨物なんかもそうです。面倒な荷物の積み替えや荷作業とかは無くなり、コンテナのキャッチフレーズの如く、「戸口から戸口へ」が当たり前。本当に効率的で便利になりました。しかしその結果が今問題になっている「2024年問題」なのでしょう。今後、この国の物流は、あの頃に戻って少し不便さを我慢するようになるかも知れませんね。こんなネガフィルムからそんな事を思ってしまいます。