前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

219.鉄チャン旅行の思い出21 ダイヤグラム編

鉄チャンも経験を積み年季が入って来ると、時刻表などは使わずダイヤグラム仕入れて、それを頼りに活動するようになって来ました。ダイヤグラムとは、縦線に駅と距離や勾配など、横線に時間が記載され、列車を線で現す事でこの列車が今どこを走っているかを表にした物です。線も細線は普通列車、太線は特急や急行列車、点線は貨物等、一目瞭然でその路線の情報が分かるものでした。これは前回の運用表に続いてその時に発見出来た物で、鉄道雑誌の巻末にこのダイヤグラムが掲載されている事に気が付き、「これは何だ?」と調べた事がキッカケで興味を持つようになったのです。その後、学校の数学でこの授業がありましたが、簡単だった事を覚えています😅。こんな所でも鉄チャンは役立っていたのです。

ダイヤグラムは大体が鉄道雑誌から仕入れるのが常でした。以前あったSLダイヤ情報という雑誌が、SLが廃止となった後に鉄道ダイヤ情報と名前を変え、その情報誌に色々な路線のダイヤグラムが掲載されるようになっていたのです。大井川鉄道では売っていたのもありました。我々はそれをコピーして活用するようになりました。コピーと言っても昔は中々出来る所が無かったのですが、私の家が商売をやっていた為、幸いにもコピー機があり汚いながらも何とかコピー出来たのがラッキーでした。それまではコピーというか複写は、青焼きとかガリバンと言われた物で行われていて、学校ではそんなテストや資料が多かったのです。個人的には複写するにはただ書いて写すしか無く大変な時代でした。テスト前とか、学校のノートの貸し借りは当時からありましたが、今ではコピーして終わりという感じですが、この頃は本当に書き写していたのです。だったら授業に出た方がまし、位な感情がありました。私が社会人になる頃にはこのコピーが随分と進歩して来て、コピー代も安価になり時代は変わって便利になって行くんだなあと実感したものでした。

そして鉄チャン活動はと言うと、今までは撮影の際は必ず時刻表と鉄道ダイヤ情報を持って行った為、荷物が嵩張りそして重く、長い間の旅行となると結構カバンのスペースが無くなり苦労していました。ある旅行から、ダイヤグラムをコピーして持って行けば荷物も少なくなり楽になると思い、早速試してみました。SL無き後の我々の旅行は、大体ピンポイントで目的の列車を決めていたので、そこしか行かないパターンが多かったのも幸いし、行き帰りは決まった列車にして、撮影地のダイヤグラムだけコピーして持って行くようになったのです。今でいうダウンサイジングと言ったところでしょうか。とにかく情報が紙一枚になり、軽くてスペースを取らず持ち運び便利と来れば、効率も上がり行動範囲も広がります。ちょっとオーバーですが、まるで今のパソコンの進化のような物をその時感じていたと思います。パソコンも昔は大きくてデスクトップだけで、そもそも持ち運びなんかは考えられませんでしたが、今ではノートパソコンとなり簡単に持ち出せます。と、言うか携帯電話がそもそもパソコンのようになってしまっています。先日、専門家が言っていた話ですと、今のパソコンやケータイの性能は、人類を月に連れてってくれた、1970年頃のアポロ計画を実行出来る位の演算能力があるそうです。やろうと思えば自分の持っているケータイでアポロ計画の作定も可能なんて事を聞くと、夢がある時代になったと思います。それをいとも簡単に持ち出せる時代になったのですから、凄い時代になりましたね。

そして、思い出のダイヤグラムを紹介したいと思います。このブログを書き始めた時にカメラバックの中に入っていたのを偶然見つけたのですが、意外と良く保存されていて何とか見る事が出来ました。改めて見ていると、写真よりも思い出が頭をよぎるのは、どうしてでしょうか?。これは1979年頃の紀勢本線ダイヤグラムです。お目当ての機関車にラインを入れて見やすくしています。運用表の番号を記載する事により、重連運用が一目で分かります。あの時、ペンでなぞっていたり、色々と書き込んでいたりしている自分が思い出され、本当に懐かしく感じます。

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これは東北本線ダイヤグラムです。新幹線開通前は「上野に穴があるか!」という合言葉があった位に列車が走っていたのがよく分かると思います。これは私の好きな機関車がいよいよ終わりという頃、1976年頃の物です。色が付いてる線が客車列車です。夏なので臨時列車もたくさん走っています。右上に行くのが下り列車、右下に行くのが上り列車で、現在では下りは奇数、上りは偶数の表示で統一されています。例えば東北新幹線の下りの「はやぶさ1号」の次は3号というように奇数、上りはその逆の偶数となるのです。このダイヤグラムで興味深いのがこのダイヤグラムには、上りなのに「津軽51号」とか「八甲田53号」とか記入されています。この頃は下りでも上りでも、1号2号という順に表示されていたのです。なので昔の歌で「狩人」というグループが歌う、8時ちょうどの「あずさ2号」で旅立てるのですね😅。現在の「あずさ2号」だと新宿に戻ってくる上りの特急なので、旅立て無くなってしまいます😵。それにしてもこのカオス状態のダイヤグラム、これを手書きしていたのですから、現場の苦労がよく分かります。鉄道用語でこのダイヤグラムを作成する人達は「スジ屋」と呼ばれていたそうです。私は一時、このスジ屋になりたいなあと思っていた時期もあったので、本当に懐かしい思い出です。

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これは1978年頃の山陽本線セノハチダイヤグラムです。196回目の勿体無い記憶19に書きましたが、当初広島市内に宿泊する予定が全く違う所になってしまった為、広島駅方面からでは無く逆方向からやって来たのが分かります。赤い線が我々が乗って来た列車と滞在した時間です。約4時間の滞在で何本撮影できるかも、これだと一目瞭然です。真ん中の矢印の赤い線が、我々がターゲットにしていた貨物列車です。時間的に厳しく当初は諦めていたのですが、頑張って行ってみました。しかし、この貨物列車がまさかの短い両数だった為お目当ての機関車は見る事が出来ず、かなりの時間をロスしてしまいました。このロスの為、殆ど機関区での撮影になってしまった事が思い出されます。

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最後にこれは奥羽本線ダイヤグラムで、幻の旅行となった時の物です。この時は大学受験が終わり次第鉄チャン活動を再開し、峠越えで活躍する赤い機関車を撮影に行こうと思っていました。しかし大学受験では思ったような結果が出ずに、その後少し自暴自棄になっていた頃です。その後、まず紀勢本線に旅行に行った訳ですが、その後は段々と鉄道から興味が薄れて行き、結局この路線には行けずじまい。この真っ白な何も書き込まれていないダイヤグラムが私の鉄チャンの終焉を物語っているようで、何か切なくなる感じがしてしまいます。

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こんなダイヤグラムの一枚が、数十年後に初老になった私に色んな事を語ってくれるとは思いませんでした。たった一枚に色々な情報が詰まっているダイヤグラム。それにプラスして色々な思い出も詰まっており、こんな薄い物がずっしり感じるのは自分だけなのかなあと思っています。