前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

107.私のダイエットとランニング体験記10

初めてのマラソンの後は暫くは身体のダメージが酷く練習も休みました。そして燃え尽き症候群さながら暫くはゆっくりした生活をしていました。休息も大切という記事もあったし、思えば既に3年近く走る生活を続けていました。そして暫くは少しゆっくりしてから、また走りたいと身体を渇望をさせて、再始動しました。

フルマラソンに目覚めた我々はまず次回のつくばマラソンを目標にして活動しました。途中のハーフや10㎞は全てフルマラソンの為の練習と位置付け計画を立てるようになりました。まずは春日部大凧ハーフマラソン、その次は甲州フルーツマラソンはあえて20㎞に変更し、そしてつくばへと向かう計画です。しかし最初の春日部は初めての雨の中のレースとなり、また新たに自然との戦いを経験しました。さらに20㎞にした甲州は10㎞よりさらに厳しいアップダウンに悩まされ返って故障の原因となってしまいました。中々上手く調整する事が出来ず、マラソンの奥深さをさらに認識する事になりました。

また体重も中々減らなくなり、逆に少し戻っていくような感覚がありました。身体がこの環境に慣れてきて体重を減らすにはさらに激しい運動が必要になるようです。人間の身体とは凄いと思いました。その頃は身体が重く感じる事もあり、練習していても中々上達していく感覚が無く、こんな感じで臨んだつくばは惨敗、結構ショックでした。所謂スランプという奴でしょうか。初めて伸び悩みというものを体験し、その後も暫くその状態が続き厳しい時期が続きました。

その後も、千葉の館山若潮ラソン、静岡の掛川ラソンや霞が浦マラソン等に次々とエントリーし、他人からはそんな走り過ぎては記録が上がらないし故障の原因になるとアドバイスさえある位でした。その位、この時期はスランプからの脱出の為、闇雲に走っておりました。しかし目標タイムは、霞ヶ浦ラソンで4時間32分というベストを更新したのが一度あった位で、あとは全く納得の行く走りが出来ませんでした。記録が伸びて行かないとやはり面白くありません。また何度挑戦しても記録が出ないと段々自信も無くなって来ます。気合も少しずつ薄れてきて、フルマラソンも段々とマンネリ化を感じ、大会自体が旅行のようになって来ました。準備もそこそこに走るようになり、走った後はこれを食べようとかここに行ってみようとか、走る目標がこの頃からブレだし、ダイエットなのかタイムなのか旅行なのか、分からなくなってきていました。

そんなマンネリが暫く続いた中、起死回生の起爆剤となったのは、東京マラソンに当選した事でした。これには一気にやる気が戻ってきました。当時で既に競走率は7倍近くあり、ランナーの憧れの大会でした。今までのマンネリはどこへやら、下手な走りは恥ずかしいと、しっかりと練習メニューの計画を立てて初心に戻って頑張るようになりました。やはり人間は目標を持つと強いと思います。練習にも気合が入り、その結果、谷川真理ハーフマラソンは体調があまり良くなかったのにも関わらず、1時間49分というハーフのベストタイムをたたき出しました。そして東京マラソンは長い間達成出来なかった4時間30分切りを初めて達成出来、4時間28分で走る事が出来ました。これを契機にスランプを脱出、その後の直ぐに走った霞ヶ浦ラソンはさすがにダメでしたが、秋の甲州フルーツマラソンの20㎞では、アップダウンの多いコースにも関わらず1時間52分で走る事が出来、その後のつくばマラソンは自己ベストの4時間23分を出す事が出来ました。続けて翌年の館山若潮ラソンでも、こちらも後半にキツイ山越えがあるにも関わらず4時間24分でゴールする事が出来ました。そして業界の駅伝大会では会社の代表で5㎞の責任区間を23分で走る事が出来、完璧にスランプがら脱出し、これはこのまま4時間切りも夢では無い、このままの調子で爆進して行こうと心に決めていました。その後も、参加した地域の10㎞走で49分と、好調を維持して行きました。

この頃には、それまで体験出来なかったランナーズハイという現象も初めて体験する事ができました。これはいつまでも走って行けるような錯覚になる現象であり、息も辛くなく足腰も快調、本当に身体が滑っていくような現象であり、ますますランニングが楽しくなって行きました。参考にこの頃の月間走行距離は大体200㎞、サブ4を目指し気力体力が充実していました。妻も、東京マラソンには参加出来なかったのですが、私に刺激され東京マラソンを目標に一緒に頑張るようになりました。

しかし、好時魔が多しとはこの事か、という事が起きました。何と原因不明の肺炎を患い、約3週間の入院をする事になってしまいました。何でこんな事になったのか、誰にもこの怒りをぶつける事も出来ず、ただ絶望感で一杯だったのを覚えています。やはり病気は、特に既に55歳となるこの歳に長期入院はかなりの逆風でした。病気の方は幸いと順調に完治し、社会復帰を果たせましたが、暫くはランニングは無理。退院後1ヶ月位経過してから徐々に走り出し、それでも暫くは10㎞を走るのが精一杯、当然、甲州ラソンを初めつくば等も全て一旦白紙、せっかくサブ4を目指すべく頑張ろうと思っていた矢先にこんな風になってしまい、自暴自棄に陥ってしまいました。

東京マラソンの事前受付の日のイベント会場にてf:id:x-japanese:20210904234602j:image