前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

108.私のダイエットとランニング体験記11

リハビリを兼ね練習を再開しましたが、その後のランニングは悪戦苦闘の連続でした。やはり長期入院の影響で足腰の弱体化、特に病気が病気だった為に肝心の心肺機能も中々回復せず、10㎞を超えるとギブアップする位に体力は落ちてしまいました。そんな中でも少しずつ少しずつ元に戻すべく頑張って行く生活を続けて行きましたが、一度弱ってしまった足腰も中々回復してくれませんでした。そしてその後、復活を急ぐあまりスピード練習をしていたところ派手に転んで顔を怪我してしまいました。結構な怪我で頰の下を数針縫う位の怪我でした。今までした事のない大きな怪我で結構ショックでした。目立たせないように季節外れのマスク生活をして何とか凌ぎました。その後もまた転んでしまい、今度は左肘を側溝の鉄の部分にぶつけてしまい骨にヒビが入り、暫く左手を吊る生活になってしまいました。こうなると仕事に差し支えるようになり、これ以上会社に迷惑は掛けられないとの思いで、段々と練習を控えるようになって来ました。

すっかりスピード練習が怖くなってしまい、これ以降はタイムに拘る練習はとりあえずストップ。転ばないように走るというスタイルに変更して練習を続けて行きました。そして完治後から少し経ち、参加するか最後まで悩んでいた館山若潮ラソンは参加する事に決め、何とか5時間を切れて走れたものの、達成感や感動は少なく、この時、自分のマラソン人生は終わりかと思ったものでした。しかし走る事を止める事はまたあのメタボ生活に逆戻りする恐怖感があり、走る事は止めたくないと思っていました。

妻は妻で頑張っていました。既に私よりも早く走れてまだまだ可能性は十分と思われましたが、やはり怪我や故障に悩まされるようになっておりタイムにも限界を感じていたようでした。そんな中、ある日妻が、気分転換でマラニックというものを2人してやってみようと言ってきました。マラニック? 今まで聞いた事の無い言葉でした。マラニックとはマラソンとピクニックと造語で、ピクニックのようにゆっくり色々と見たり寄ったり食べたりしながら走っていく手法です。病気の一件から悪い事が続きランニングにも限界を感じてきていた時なので、妻の提案には、それもいいかもしれないと思い、早速家の周りでやってみる事にしました。

そしてこれが家の近所の再発見に繋がりとても楽しい時間となりました。私の家は駅から少し離れており、周りにはまだまだ畑が広がっている所です。道路も広めでしっかり歩道があり、またまだまだ雑木林も残っており走り易い所はたくさん有りました。美味しいパン屋さん、綺麗な花畑、何も通らない農道、寺などの史跡の数々、お洒落なレストラン、いも街道などはいつも通っている道に名前がついている事に初めて気が付きました。時には都内へ繰り出し、旧東海道マラニックした事もありました。また旅行にマラニックを組み合わせて色んな所を走ったり食べ歩いたり温泉に入ったりと、また新しい世界が開けて行きました。特に旅行&マラニックは、伊豆や軽井沢、長野、那須、仙台など、1泊2日程度で色々な所に行きました。その間、2人で今後のマラソンについて考え、このまま続けるか止めてしまって何か別のスポーツをするかも含めて色々考えて行きました。結論は、フルマラソンは時間は気にせず身体が動けるだけ走ろうという事になり、マラニックと並行して頑張って行こうという事になりました。

そして約1年ほどはマラニックを楽しみましたが、恒例とした甲州フルーツマラソンは10㎞、そして続けて館山若潮ラソンに参加しました。そしてこの館山若潮ラソンを走った事でやっぱりフルマラソンはいいなあと思い、その後もその時の体調を考えながら霞ヶ浦ラソンつくばマラソンを走る事にしました。タイムは考えず毎年出るとかも決めず、楽しみながら出走する事にしました。ここに来て初めて所謂ファンランという楽しみながら走るという事が出来るようになりました。このように地元の方のエイドを楽しんだり、景色を楽しみながら走ったり、その後の宴を楽しんだりと、このような走り方を、歳を取っても続けて行けたらいいと思うようになりました。

妻と旧東海道を約18㎞のマラニックf:id:x-japanese:20210905180419j:image