前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

109.私のダイエットとランニング体験記12

ファンランを掲げてランニングを続ける事とした2人は、その後は色々と考えて、甲州フルーツマラソンに加えて館山若潮ラソンの両方は必ず走る事を決めました。それは私が熱狂的なファンであるロックバンド、X-JAPANのYOSHIKIとToshIの故郷が館山だからです。初めて館山でマラソン大会がある事を知って参加した時は本当に感無量でした。それまで私は行ってみたいと思いながらも家から遠かった為、一度も行った事がありませんでした。館山の街はファンの聖地となっており、マラソンを始めた事で2人の故郷を走る事が出来るなんてと、改めてマラソンに感謝した事を覚えています。そして1回目の大会の時は前日に館山に入り、彼らが育った街を散策しました。夕陽の綺麗な北条海岸や鶴谷神社、安房高校、高校の頃よく食べたという中村屋のパン屋など、昔ここに彼らがいたんだと思いを馳せながら歩くのはファンとして格別でした。

その他にも、この時期の魚料理が本当に美味しく、これだけでも毎年来る価値はありました。毎年、聖地で美味しい料理に舌鼓を打ちフルマラソンを走るなんて、何という贅沢でしょうか。ここのフルマラソンは一生のライフワークとして続けて行くつもりでいます。

肺炎の病気後、こんなランニング生活が安定して、しかし何故か刺激は求めていて、あの東京マラソンだけは毎回応募はしていました。あれ以来私はずっと落選、妻に至っては一度も当選していませんでした。ファンランという楽しいランニング生活が定着していますが、2人してどこかでつまらなさが残っていたと思います。何となく不完全燃焼、まだまだ出来るのではないかという気持ちが燻り続けている感じがしていました。

しかし、そんな時に、このブログのテーマでもある前立腺癌が私に見つかりました。せっかく肺炎の病気から立ち直り、2人してまたランニングを楽しんで行こうと努力していた矢先のこの宣告。肺炎からの復活どころでは無い、一気にこれまでの生活が全て崩れ去って行くという事象が発生したのです。この時の衝撃は、このブログの初めの方を読んで貰えれば分かると思いますが、それはそれは絶望的でした。ランニングどころではない、生死に関わる大変な診断でした。最近は癌も治る病気として認識されていますが、我々の年代では癌はまだまだ死の病というイメージで、暫くは何も手がつかない状況でした。この辺りの心の葛藤は二度と味わいたく無いと思います。

しかし、重粒子治療という治療法に出会った事で、ランニングを諦める事無く今に繋げられています。治療後にも、まず走りたいと思ったのが館山若潮ラソンでした。医学的な判断は医師に任す事にして、自分は何をして治療の成功とするのかを私なりに決めており、この館山若潮ラソンを完走する事を考えていました。さらに、こんな治療を受けていたにも関わらず、東京マラソンの申し込みもしていました。

その後、無事に重粒子治療が終了、社会復帰を果たし、また肺炎の時と同じように少しずつランニングを始めて行きました。QST病院の医師がランニングは大丈夫というOKを出してくれているので、不安なく直ぐに練習を再開していました。すると、とんでもない朗報が飛び込んで来ました。何と妻と2人で東京マラソンが当選していたのです。これには2人して涙する位の感激がありました。この治療は私だけではなく妻も一緒に戦ってくれました。その妻と一緒に東京マラソンに出れるなんて、まるで物語のようでした。妻も初めて当選した事もあり本当に喜んで、2人で頑張ろうと言ってくれました。そしてその前哨戦となった館山若潮ラソンには気合が入りました。私は退院後半年で迎えるフルマラソンでしたが、とにかく今現在どれ位で走れるのかを試すレースとしました。このタイム次第で東京マラソンの目標を決めようと思っていました。

そして、館山若潮ラソンの日がやって来ました。いつものように前日に館山入りし、夕方、北条海岸に出向きました。館山の町を夕刻の5時に流れる、X-JAPAN の「Forever Love」のオルゴールの音を聴きながら、病から再度復活出来たことの喜びと感謝、そして明日のマラソンの健闘、東京マラソンへの意気込み、これからの人生について等、しみじみと考えていました。YOSHIKIも悩んだ時にここに来て佇んだように、自分も長い間この海岸に佇んでいました。

夕刻の館山北条海岸の桟橋と富士山f:id:x-japanese:20210906230733j:image