前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

286.私の会社員時代、やってらんない記憶.36

ここでちょっと残業について話したいと思います。

この早く帰るという意識が会社で出始めたのは、ちょうどバブルが弾けて、失われた10年と言われるようになった頃からだったと記憶しています。時は金融危機が騒がれ、所謂貸し剥がしという言葉も流行りだしました。何を隠そう、私の実家の会社はこれで倒産の危機に瀕した位だったのです。やたらと弊社も決算内容を気にするようになりました。利益を出す事は当然、財務内容も金融機関からお墨付きを得ないと格付けが落とされて、貸し剥がしの目に合うと言われていました。しかし景気は良く無く、売上は中々上がりません。すると経費を節減して利益を出そうと会社は努力します。この頃からライフワークバランスと関連付けて、早く帰る事が推進されました。そして残業代のカットに動き出したのです。

私は早く帰って好きな事をしたいタイプだったので、この流れはウェルカムでした。しかし、今までのブログで出てきた社員なんかは、こう言った動きには鈍感で、中々早く帰る事はしなかったのでした。また事務の係の連中も、効率的に早く終わらせて帰るなんて意識には中々ならず、会社や人事部はかなり長い間苦労していました。その大きな理由は残業代でした。会社の言い分も都合が良過ぎるとは思いますが、社員から見ると、同じ仕事量で残業代が減り収入が減るとなれば、モチベーションが下がるのは理解出来ます。

それまでは残業については割とおおらかで、事務の係なんかは、それこそ会社にいるだけ残業代が付いている感じでした。営業はと言うと営業手当があり、それにある程度の残業代が加味されていた為、早く帰ると得する勘定になっていたのです。しかし当然そんな早くには帰れませんでした。そして、営業だけは何故か、残業には上司の検印が必要だったのです。しかし最後まで残って施錠をする当番の時は、比較的簡単に検印が貰えたのです。なので前回登場した社員はここぞとばかりに、施錠を代わって残業代を稼ごうという魂胆が見え見えだったのです(こいつは家に帰りたく無かったのも理由だったようでした😵)。

それからは、早く帰る為に、様々な事務の勉強や効率化をさせれられました。あらゆる無駄を炙り出し事務の平準化をして、1人でも残らないように努力する日が続きました。そして、それだけ努力するので残業は減って行く訳です。結果、早くは帰れますが、残業時間が減ると言う事はそれだけ収入が減るのです。努力した結果、給料が減るのですから、これはますます力が入る訳がありません。暫くはこの不毛な戦いが続きました。残業族の抵抗勢力は相当な物だったのです。少しでも店長やリーダークラスが手を抜くと、すぐに戻ってしまいます。するとまた手綱を締め付ける事が続きます。会社側と社員側が正反対な方向を向いているのは仕事も上手く回りません。本当にやってらんね〜、と思っていた時期はかなり長く続きました。

すると、社員側にも変化が見られて来ました。残業が減り、その結果収入が減りおそらくお小遣いが減ったのでしょう。また早い時間に会社から追い出される訳ですから、その分居酒屋や雀荘にいる時間が長くなります。しかし小遣いが減っている以上、以前のようには遊べません。すると前と比較して、随分とその付き合いの数が減っていました。この現象に私は、こいつらは今まで会社の残業代で飲んだり麻雀したりしていたのかと思ったのでした。

こんな状態だったから、私の新人の頃は、こいつらは遅くまで残っていたのです。何の事は無い、真面目な会社人間ではなく、ただのお小遣い稼ぎの残業なんだと思ったら、とてもシラけてしまったのを覚えています。その後もこの時間については更に厳しくなり、さすがに仕事が回らなくなって来ました。中には残業代なんて要らないから残らせてくれ、なんて言う営業担当も出て来ました。これこそサラリーマンの鏡と思いましたが、しかしこれは労働基準局が許す訳がありません。ここまで来ると、会社も正規の残業代を払って仕事をさせてあげるべきと思いますが、そうなるとまたダラダラ仕事をする連中が増えるのでしょう。私の会社員生活の終わり頃には、帰れと言うのを無視する社員なんかも出て来た位です。

これは永遠のテーマなのでしょう。会社のぶら下がり社員がいる限り、この残業問題は永遠に無くならないのでは、と思っています。

この頃は夜景を見ると綺麗とかでは無く、残業で皆大変だなあと思っていましたf:id:x-japanese:20220810210209j:image