前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

206.鉄チャン旅行の思い出8 旧型電車編

旧型電車とはもちろん古い型の電車という事ですが、専門的に言うと吊り掛け駆動方式の電車をいい、今みたいなスムースな走行音では無く、出発して加速して行く時にウォーンという鈍い音がするので直ぐに分かると思いますが、現在では殆ど見る事が出来なくなってしまったので、音を聞いてみたい方はYouTubeとかで探してみるしかないと思います。SLに似た感じで、そのウォーンという響きが一所懸命やっている感があり、どこか人間らしく感じたものでした。

私の小さい頃はとにかく色んな場所でたくさん走っていました。特に思い出深いのは常磐線で、小学生の頃、夏休み等長い休みとなると良く父の仕事に着いて行ってこの常磐線に乗っていました。その時の茶色の旧型電車は、先頭車の運転席寄りに小窓があったのでその窓を開けて顔を出して、凄いスピードで走る旧型電車の吊り掛けサウンドをいつも堪能していました。その唸るようなモーター音が大好きで、他の路線にも行って乗ってみましたが、結局この音に勝るような路線はありませんでした。その後は都心から少しずつ無くなって行く感じで、いつのまにか全く見なくなっていたという感じでした。

そんな中で、私の家の近隣では東武東上線でかなり長い間頑張って走っていたので、私が社会人になった辺りまで見る事が出来ました。その頃には偶然に乗れたりすると、「まだ頑張ってるんだ〜」と、そのビジュアルと共に走行音が本当に懐かしかったのを覚えています。この電車は途中から、旧型電車にも拘らず薄いベージュのような色に塗られてしまい、心無いファンは「厚化粧電車」や、上が茶色くて下がクリーム色から「カステラ電車」などと揶揄していました。f:id:x-japanese:20240302001008j:image

しかし、老体にムチ打って頑張る姿には共感さえ覚える事もありました。その無骨な格好や昔ながらの行き先看板、板張りの床はワックスの匂いがしていたりして、晩年は地元の人達からは「ウッディ」と愛称で呼ばれていました。この電車は1984年頃まで走っていたようですが、気がついた時には既に廃止となっていました。これで都会からは吊り掛けサウンドが消えてしまったと思いきや、都会のど真ん中には都電という物が走っており、車体こそ更新されていましたが、そこには随分長いことこの音を聞ける車両が走っていました。また地方に行けばまだまだ走っている所がたくさんあり、特に地方の私鉄ではかなり最近まで走っている所もありました。

これは1982年頃の東武日光線の同型の車両の写真です。f:id:x-japanese:20220319214801j:image

これは1978年頃の都電です。その後、車体が更新されましたが走行部分はそのままで、随分と長く走ってその音を聞かせてくれていました。f:id:x-japanese:20220322102615j:image

それでは旧型電車の思い出を書きたいと思います。まずは飯田線です。

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この写真の電車は長距離電車のパイオニア的な電車で、私の前の世代の方達にはそれまでの客車列車を廃止に追いやった電車という事で複雑な感情を抱いている方もいるのではないでしょうか?。私の鉄チャンが本格的になった頃は、既に東京辺りからはほぼ無くなっていて地方の線区に走っている感じでした。この写真の1980年頃はその地方線区から更にローカルな路線に移って走っており、そこの旧型電車を廃止に追いやっている役目を果たしていた感じでした。しかし、この飯田線の景色はこの電車にとてもマッチしており、古い旧型電車を追いやった電車としてちょっと憎らしい部分もありましたが、私は結構撮影に行きましたし、乗り鉄もしていました。この頃は既にこの電車も廃止の計画が出ていた頃で、ファンも多く撮影に訪れていました。この時はまさに「驕る平家も久しからず」という、色々と隆盛期を闊歩していた電車も、いずれ時代と共にその追いやった列車達のように自分達も追われて行く身になるという言葉を、まさにこの電車のようだと実感したのを覚えています。

次は冬の上越線の旧型電車です。

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これは塗装に注目して欲しいと思います。この向こう側の電車の色が当時は新潟色と言われた、黄色とワインレッド色の独特の塗色でした。一時、新潟県でこの塗装を再現した電車が走っていましたが、これは雪国特有の白い視界でよく目立つようにと考えられた塗装との事であり、よく踏切の黒と黄色の警告を現す塗装と同じ発想です。どうですか?手前の電車が当時の一般的な電車の塗装ですが、確かに目立つと言えば目立ちますよね。これが吹雪とか悪天候になると更に目立つと言われていました。こんな色についても学問がある事にも、鉄チャンをやっていたからこそ気づけたと思っています。本当に鉄道は奥が深いと思います。

これは南武線の写真です。

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1977年頃の稲城長沼駅近くで、この辺りはまだまだ梨畑が広がっていました。当時は南武線横浜線と並び旧型電車の宝庫と言った感じでした。双方ともまだまだ畑がたくさん、のんびりした路線でこの地区の稲城の梨は有名でした。最近は双方も都市化が進み随分と整備が進んでいますが、先日久しぶりに所用で南武線に乗ったのですが、車両は随分と近代的になって高架線にも所々なっていましたが、未だに当時と同じ6両編成なのにビックリしました。都市化に鉄道整備が追いついていない状況なのがよく分かります。既に朝のラッシュ時は人が乗り切れない光景が日常となっているようです。原因はホームの長さを伸ばせない場所が多く、また高架にもするのも難しい場所が多く電車の両数を増やせないとの事ですが、都市計画というのは先見の明が必要なんだという事がよく分かります。

これは東急の大井町線の写真で、確か二子玉川駅だと思います。f:id:x-japanese:20220402090851j:image

今はお洒落なニコタマも、昔はこんな旧型電車が走っていたのです。思えば東急というのは本当に街作りというかイメージ戦略が上手いと思います。同じ旧型電車でもお洒落に見えて来るから不思議です(笑)。私が一番凄いと思ったのは、今や住みたい街ランキングの常連の武蔵小杉です。私が南武線を撮影しに行っていた頃の武蔵小杉のイメージは工場の街と言った感じで、とてもお洒落な人達が住むようなイメージは無かったのに、今の変貌ぶりは目を見張る物があります。また最近ではここを走る目黒線です。昔は目蒲線と言ってやはり旧型電車が走っていたのですが(当時は武蔵小杉までは運転していませんでした)、当時は都心のローカル線という感じでしたが、今は地下鉄とも乗り入れをしてお洒落な路線への様変わりようは見事というしかありません。私がイメージ戦略というビジネスを肌で感じる事が出来た事も、旧型電車を追って鉄チャンをやっていた事が関係していたと思います。

最後に鶴見線です。

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ここも昔は旧型電車や旧型機関車の宝庫で、良く撮影に行っていました。そこはまさに京浜工業地帯のど真ん中。夕方になってくると工場の中の電気が灯り始めます。そして夜になるとそれが綺麗に見えて来ます。コンビナート施設の複雑なパイプや、クレーンの大きな鉄骨の周りで水銀灯が光る幻想的な風景は、それはそれは芸術的に見える位でした。当時はライトアップなどと言う言葉は無く、この光景が好きで行っていた部分もありました。それこそこんな夜景ツアーなんかがあってもいいのに、ビジネスとしてあってもいいと思っていた位です。その後はライトアップはもちろん、工場夜景ツアーも出来て、この夜景観光はメジャーになりました。こんな事も鉄道をやっていたからこそ感じられた物でした。こんな景色を色んな人に見せてあげたいと思ったのが現実となり、これがビジネスに繋がるという発想も、案外自分の周りにある物だと感じたのでした。

こんな感じで、随分と鉄道は私にビジネス的にも影響を与えてくれた物でした。こんな旧型電車を追いかけてそんなビジネス的な事を考えていた自分は、鉄チャンとしては変わっていた方なのだと思います。所謂コラボ脳というか、これからも頭を柔軟にして行く為にもやっぱり鉄チャンは続けた方がいいのかな〜と、思っています。お孫ちゃんもいる事なのでやっぱり続けようと思ってます😅。