前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

204.鉄チャン旅行の思い出6 客車編

私の鉄チャン旅行は、随分と古い客車の列車に乗って色んな所に行ったものでした。私が言う客車とは、敢えて説明するとSLを初め色んな機関車が引っ張る列車の事です。しかし華やかなブルートレインのような冷房等の設備のある客車では無く、昔ながらの古い茶色や青色の冷房も無くドアも手動、扇風機、白熱灯、木枠の硬い椅子、編んである荷物棚、トイレも今では考えられないですが垂れ流し式、等。私が高校生辺りまでは、上野駅からは随分と沢山の客車列車が走っていました。夜行列車はもちろん昼間の列車まで、客車がのんびりと都心部を走っていたのです。私の高校の担任の先生は、よく夕方の東北本線の福島行きの普通列車で通勤していました。特に私が中学生の頃までは、東北本線の青森行きを初め、高崎線常磐線、中央線には長距離の客車の各駅停車が、東京からも何と鹿児島まで行く昼間の客車の急行列車があり、ふらっと列車旅をするには最高のシチュエーションでした。

これは中央本線の上り普通列車です。割と早く廃止されてしまいました。

f:id:x-japanese:20220305172549p:image

夜行列車や臨時列車を含めると、それはそれはたくさん走っていて、特に尾久の車両基地に行くとたくさんの旧型客車が休んでおり、入れ替え作業で行ったり来たりしているのが見えました。私は尾久の車両基地が大好きで、王子方面には2本の留置線があってその上の跨線橋ディーゼル機関車が行う入れ替え作業をよく見に行っていました。

そんな客車も時代の流れと共に時刻が改正になる度に減っていく感じで、当時はお別れのセレモニー等も無く、本当にひっそりと無くなってしまった感じでした。そんな中で、東北本線の各駅停車の客車列車の最後の日はセレモニーが行われるというので、友人に誘われてクラスの数人と見に行きました。確かこの友人がこのセレモニーの発起人の1人だったと思います。今でさえ、最後の列車などと言うとニュースになる位大騒ぎになる現場ですが、当時はそれ程でも無く、我々はどちらかと言うと数合わせ的に声を掛けられた感じでした。

当時はお昼前に岩手県の一ノ関という所まで各駅停車で行く列車があり、この列車でセレモニーを行うとの事でした。この列車にも随分お世話になったなあと思いながら当日、上野駅まで出掛けました。そういえばこのセレモニー、当日運転士さんと車掌さんに花束の贈呈があったのですが、その時頼んだ女性が寝坊してしまったようで中々来なかったのです。これは一大事、しかし出発時間は刻々と迫って来ます。仕方なくその時一緒に行ったクラスの女の子と、もう1人はその辺を歩いていた女性に頼み込んで急遽女性2人を組成。無事に贈呈式が行われ、友人のホッとした顔が印象的で、バタバタなラストランのセレモニーとなったのもいい思い出です(笑)。

これはその時の写真です。駅員さんも何か寂しそうです。f:id:x-japanese:20220308091825j:image

本当に旅情を誘う客車列車ですが、特徴と言えば開けっ放しのドアと何と言っても垂れ流しのトイレでしょう。これは今では信じられない光景と思いますが、本当にドアが手動で勝手に開け閉め出来たのです。その解放感がたまらなく、私はよく走っている間もドアの横にある棒に捕まって、強烈な風を感じながら外を眺めていたものでした。また連結部分のドアも手動。こちらも、開けると牽引している機関車が目の前に見え、特にデッキ付きの旧型電気機関車などは、そのデッキ部分に乗って更なる解放感を味わっていた物でした。双方とも揺れは結構な感じなので、今考えるとよく落ちたりせずに無事でいたと思います。

こんな事をやって、本当によく無事でいられたモノです(既に40年以上前の事です。炎上はご勘弁を😅)f:id:x-japanese:20240302233050j:image

駅に到着となれば、まだ止まっていないにも関わらず乗客はどんどんと降りて行きます。発車の時も既に動いているのに飛び乗る人も大勢いました。本当に自分達も含め、よく事故が起きなかったと思います(知らなかっただけかもしれませんが😅)。

また上野駅は行き止まりのホームがあり、そこを使う客車列車は車庫がある尾久からバック運転(推進運転と言ってました)でやって来る姿がよく見られました。ホームで待っているとアナウンスが始まり、遠くの方からいきなりですが、ゆっくりと客車が顔を出します。既に扉は開いていたりして「しっかり止まるまで乗らないで下さい〜」と言った駅員さんのアナウンスが響きます。そして最後に今日の牽引機の機関車が見えてきます。なんとものんびりした光景でした。そして「これから遠くまで行くんだなー」という旅情を感じられたものでした。

もう一つは垂れ流しトイレです。本当にトイレを覗くと、そこから線路や石が見えていました。私は初めてこれを見たのは、小学生の時、父の田舎へ帰省する急行列車でしたが、本当にここで用を足していいものか悩んだ位でした。自分の「それ」はここからどこへ行くのだろうと思うと、本当にいいのか暫く考えていたのを覚えています。その後も、お気に入りの機関車を撮影しに行った時では、迫力ある写真を撮る為によく線路脇に陣取っていたものですが、いよいよやって来る時、カメラのファインダーから覗いていると、何やら列車の下の方から霧らしき物が吹き出しているのが見えます。「やばい、トイレだ!」っとシャッターを切って咄嗟に逃げるのですが、その霧が多少かかる事も珍しく無く、鉄チャン後半の方は、少し離れた場所から望遠レンズで撮影する事が多くなりました(笑)。

思い返すと、都心部、確か大宮から都心まではトイレは使えなくなっていたと思います。また当然、停車中は使えませんでした。と言うか、トイレの入口にそう書いてありました。しかし「出物腫れ物所構わず」という諺通り、そんな注意書き等は無視され結構使われていました。そんな現象を当時の公害という言葉を捩り「黄害」と呼ばれていました。沿線の住民は確かに我慢ならなかったんだろうと思います。

こんな事を綴っていると、やっぱり客車列車というのは無くなるべきして無くなったんだと思います。現在の列車は全てのトイレはタンク式になっていて、駅や車庫で処分する形になり衛生的になっています。ドアはもちろん自動だし、最近ではホームにまでドアが作られています。安全な運行という意味では本当にいい時代になったと思います。しかしどこか、寂しい気分になるのはどうしてでしょうか?単なるノスタルジーとは違ったこの感情。それが何かはハッキリしませんが、タイムマシンでも出来て、あの頃の客車に乗れたりなんかしたなら、きっと正解が分かるんだろうと思います。そんな時代が来たら本当にいいですね。

これは奥羽本線の客車列車です。こんな日の列車旅は最高ですね😊f:id:x-japanese:20240304135511j:image