前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

178.鉄チャン旅行の勿体無い記憶.1

このブログも一周年を過ぎ、色々と脱線しており本来のテーマが霞んで来ていますが、引き続き体調もいいので私の趣味等を書いて行こうと思います。こう書いてくると、やはり鉄チャンは欠かす事が出来なくなったきました(笑)。いよいよ満を辞して、次は私の鉄チャンの記録を書きたいと思います。よろしければ読んで頂ければど思います。

早速ですが、北海道の美幌という町までSLを撮影しに行ったにも拘らず、すぐ近く来ているのに流氷見物や網走観光をしなかったという話は皆さんどう思いますでしょうか?。それもまだまだ北海道は遠かった時代です。これは鉄チャン連中特有の勿体無い行動であり、鉄チャン連中というのは皆んなそんな行動ばかりしていると思います。特この頃の私は、暇はあるけど金は無い典型的な学生であり、これと決めた被写体の撮影が命。それ以外は目もくれず、ひたすら食費や宿泊費をケチり、なるべく長い間旅をするという鉄チャン旅行ばかりをしていました。最近の「撮り鉄」は迷惑行為ばかりが目立ち、元祖の部類の私は少し肩身が狭い思いです。しかし、殆どの撮り鉄達はちゃんとしていると思います。そんな言い訳などどうでもいいのですが、次のシリーズは学生の頃、そんな鉄チャン旅行ばかりしていた私が、どんな勿体無い行動や思いをしていたかを書いて行きたいと思います。まずは基本1泊以上の旅行に限定して書きたいと思います。また写真はGoogleのスキャンフォトを利用したので、何分元の写真が古く画像が悪いのでご了承下さい。また写真の腕も少しずつ上がって行くのも分かりますので、その辺も見ていただければ面白いと思います。この鉄チャン旅行の勿体無い記憶の第一回目は、この北海道の事を書こうと思います。

まずは1975年、私が中学2年から3年の間の春休みの話です。もう47年も前、半世紀位経つんですね😳。当時から既に鉄チャンでSLに憧れていた私。しかし既に殆どの地域でSLは廃止となって来ており、僅かに会津と北海道と九州、山陰辺りに残っていました。そして友人2人とSLを撮りに、中2の夏休みに会津、春休みに北海道に行く事を決めました。親に頼み込み、お金は自分で出す、計画表をちゃんと書いていく、泊まるところはユースホステル(以後YHとします)との条件で許可を得て、撮影旅行に出掛けたのでした。旅費は、お年玉や父の会社で倉庫の整理や掃除のアルバイトを募集していたので、中学生ながら休みの日はアルバイトをして貯めていました(当時は緩い時代だったんです)。そして、春休み、6泊7日の強行日程で北海道に出かけました。この北海道旅行では勿体無いのはこの回だけでは無いので、続けて書いて行こうと思います。

この旅行はとにかく今北海道に残っている全てのSL形式を見たいという事で色々な場所を転々とする強行スケジュールでした。情報は当時「SLダイヤ情報」という雑誌があり、あとは数社の鉄道雑誌のみ。中学生という幼稚さでまだまだ情報の加工というか、使いこなす術を知らず、ただ闇雲にそこに行くという旅行だったと思います。ざっと説明すると、上野を夕方出発、青函連絡船で一夜を明かしSL撮影開始、追分に寄り夕張線へ撮影、続けて夜行で北見入り。そしてその日のうちには帯広に向かい広尾線で撮影、帯広のYHでやっと宿泊。そしてその翌日は始発で旭川に向かい撮影、その後、深川に寄り撮影、その後岩見沢を経由して登別のYHで2連泊。そこでも朝は始発に乗り追分でSL撮影、そして最終日は幌内線に寄り、札幌へ戻り夜行で帰るという今考えると殺人的な計画です。計画当初から途中に観光を入れるなど考えておらず、とにかくSLを見たい一心で旅行に出掛けました。旅費は当時、北海道周遊券とYHという安い宿泊費の施設を使い、確か3万円位だった記憶があります。昔は学割運賃という物があり、学校にその証明書を交付してもらう時、担当の先生が「北海道まで行くのか〜」と驚いていたのもいい思い出です。また出発する時に、母が心配して餞別をくれたのも懐かしい思い出です。

北見に着いた朝は本当に半端なく寒かった。青函連絡船で函館に着いた時とは雲泥の差。やっぱり北海道は寒いんだと、今もその記憶は鮮明に残っています。乗って来た夜行列車はここからお目当てのSLに変わります。列車から降りて機関車の交代風景を見ていましたが、寒さで大変でした。この旅行は録音機も持って行ったので、発車した後、列車のデッキへ出てマイクを出してSLの音を録音したのですが、手袋をしているのにみるみる手が寒さで痺れて来ました。途中で耐えきれず録音を断念しました。今調べ直すと美幌までは行っておらず、一つ手前の緋牛内という駅で交換するSLを撮影する為下車しています。列車を降りると息が真っ白で、日が出たばかりで朝もやが白くかかっていて、もちろん一面雪景色、とにかく白い世界だったのを覚えています。そして計画では来る列車で北見までトンボ帰りをして、帯広に向かう計画でしたが、このままこの列車に乗って行き、網走を少し観光する手もありました。それと言うのは、夜行列車の中は鉄チャンばかりだったのですが、中には旅行客もいてその人達がオホーツク海の流氷の話をしていて、その話に少し触手が動いたのです。まだ旅行の前半であり資金も余裕があります。時刻表を見ながら友人と少し相談しましたが、この寒さ、ちょっと撮影の為に外に出ているだけなのに既に手足はブルブルガタガタ。カメラを扱う手も震えて上手く構えられません。そのうちにお目当ての交換する列車がやって来ました。夢中でシャッターを切り、そしてすぐ巻き上げようと、巻き上げレバーを回しました。すると信じられない事にレバーが回りません。当時は今のようなデジタルでは無く、もちろんフィルムカメラです。あれっと思い力を入れたとたん、ブチッと異様な音がして急にレバーが軽くなりました。おそらく寒さでフィルムが切れてしまったのだと思います。私は何が起きたか分からずパニックになり、そのまま目の前にやって来るSLを見ていました。

そして、何が起きたか理解出来ずにこの後どうするか考える余裕が無くなり、また寒さに耐え切れない状態にもなりタイムアップ、そのまま計画通りやって来た列車に乗り換え北見へ戻りました。その後、乗った列車で暖をとって、気持ちも落ち着いて来ました。そして、恐る恐るカメラを確かめました。案の定フィルムが切れており、昨日撮影した室蘭本線や夕張線のSL達の記録が一瞬にして消えてしまいました。改めて極寒の脅威を感じました。そして、これ以上寒いところに行くのは無理と友人と話をして、そのまま計画通りに帯広に向かいました。北海道の寒さを舐めていた結果がこのような事態となったと思っています。

もしあの時、フィルムが切れずに冷静に話し合っていたら、網走まで行って流氷を見に行っていたでしょうか。あの時の記憶はこの所だけ曖昧であり、まさにパニックだったのでしょう。今となってはどうしようも無いのですが、そんな事考えてあの頃の写真を見ると、中々面白いものです。しかし今考えてもやはり勿体無い、あのまま列車に乗って、網走から釧網本線に抜け、そこから帯広へ行くルートもあったと思います。釧網本線の車窓からはオホーツク海の流氷が見られる所がたくさんあったはずなのです。ただ、流氷は今でも行こうと思えば見に行けます。そういった意味で諦めもつきますが、しかしその前に行った会津の旅行はそういったレベルでは無く、もう無くなってしまい二度と見る事が出来ないという経験をするのです。次の回はその会津の話をしようと思います。

緋牛内駅にやって来るSLです。この後フィルムが切れてしまいました。これは奇跡的に大丈夫だった写真ですf:id:x-japanese:20220106111441p:image

その後、改めて北見駅で撮ったSLですf:id:x-japanese:20240305232622j:image