前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

83.続く悲しみとコロナ禍

昨年は父が、今年は愛犬がこの世を去り、自分の治療の成功とは裏腹に悲しい出来事が続きました。そして追い討ちをかけるように、愛犬の死の少し後に母が旅立っていきました。母の死は本当にショックでした。と、言うのも、原因がコロナ禍だったからです。

母は、父が亡くなる前から体調を崩し入退院を繰り返していたのですが、父が亡くなった後は退院しても1人にする事が心配だった為、兄弟で話し合いやむなく病院の関連施設に入所してもらう事にしました。運良く個室の部屋が空いており、両親の自宅を処分してここを母の終の棲家にしてもらう事にしました。母は少し寂しそうでしたが、病院の関連施設でもあるので体調の変化にすぐ対応してくれるのが一番と、納得して入所してくれました。

その施設は高台に建っており、視界が良く窓から遠くに富士山が見え、私達が以前暮らしていた家の景色に似た風景が広がっていました。特に夕陽に映える富士山が綺麗で、母の終の棲家に相応しい施設だと思い、何より病院の関連なので安心してここで余生をゆっくり過ごし、いつまでも長生きして欲しいと思いました。

我々は1人になってしまった母の為に、兄弟で入れ替わり立ち替わり顔を出すようにしていました。父が亡くなりしょんぼりしている母を見るのは辛かったですが、施設にも少しずつ慣れてきて少しずつ元気になっている母を見ていると、このまま安らかに暮らして欲しいとしみじみ思ったものでした。そんな母の特効薬といえば私のお孫ちゃんとの面会です。母からするとひ孫は4人目となりますが、2歳弱という可愛い盛りの子供は格別のようで、娘には負担をかけましたが、なるべく一緒に面会に行ってもらうようにしました。

しかし、そこでコロナ禍です。このせいで施設の面会が禁止状態になってしまいました。確かに施設でクラスターが発生すると大変な事になるのは理解出来ますが、この面会禁止状態がいつまでも続きました。携帯電話も扱えない母は本当に天涯孤独状態になってしまい、毎晩のように兄が電話を掛けたりしていましたが、日に日に心を病んでしまっていたようでした。

そしてある日、兄から母の危篤の連絡が。その時に数ヶ月ぶりに面会を許され、病室に駆けつけて見た母はまるで別人。頬はこけ目は虚ろ、意識もあるのか無いのか、我々兄弟は目を疑う程の変わりようにショックを受けました。この時は何とか持ち直し、それからは特別に面会を許されるようになりました。その後一度、少しだけ会話が出来る程度に回復したのですが、5月の声を聞くとすぐに亡くなってしまいました。最後に交わす事ができた会話が、ひたすら「急に皆に会えなくなって本当に寂しかった」を繰り返していました。寂しさで精神を病んで生きる気力を無くしてしまったのだと思います。

こんな事があっていいのかと、怒りや憤りを通り越してコロナに対して憎悪の念を感じ、この感情をどこにぶつけていいのか自分自身も頭がおかしくなりそうでした。その後の葬儀も満足に出来ず、本当に母には申し訳ない思いとやるせない思いが重なり、すっかり元気が無くなっていく自分を感じました。なすすべが無いとはこの事か、ウィルスという自然の猛威に対して人間の無力さを始めて実感していました。

初夏の富士山。昔の自宅からも母の施設からもよく見えました。f:id:x-japanese:20210721163849j:image