前立腺癌、重粒子治療体験記

前立腺癌と重粒子治療について、私の経験をお伝えして行きたいと思います。

206.鉄チャン旅行の思い出8 旧型電車編

旧型電車とはもちろん古い型の電車という事ですが、専門的に言うと吊り掛け駆動方式の電車をいい、今みたいなスムースな走行音では無く、出発して加速して行く時にウォーンという鈍い音がするので直ぐに分かると思いますが、現在では殆ど見る事が出来なくなってしまったので、音を聞いてみたい方はYouTubeとかで探してみるしかないと思います。SLに似た感じで、そのウォーンという響きが一所懸命やっている感があり、どこか人間らしく感じたものでした。

私の小さい頃はとにかく色んな場所でたくさん走っていました。特に思い出深いのは常磐線で、小学生の頃、夏休み等長い休みとなると良く父の仕事に着いて行ってこの常磐線に乗っていました。その時の茶色の旧型電車は、先頭車の運転席寄りに小窓があったのでその窓を開けて顔を出して、凄いスピードで走る旧型電車の吊り掛けサウンドをいつも堪能していました。その唸るようなモーター音が大好きで、他の路線にも行って乗ってみましたが、結局この音に勝るような路線はありませんでした。その後は都心から少しずつ無くなって行く感じで、いつのまにか全く見なくなっていたという感じでした。

そんな中で、私の家の近隣では東武東上線でかなり長い間頑張って走っていたので、私が社会人になった辺りまで見る事が出来ました。その頃には偶然に乗れたりすると、「まだ頑張ってるんだ〜」と、そのビジュアルと共に走行音が本当に懐かしかったのを覚えています。この電車は途中から、旧型電車にも拘らず薄いベージュのような色に塗られてしまい、心無いファンは「厚化粧電車」や、上が茶色くて下がクリーム色から「カステラ電車」などと揶揄していました。f:id:x-japanese:20240302001008j:image

しかし、老体にムチ打って頑張る姿には共感さえ覚える事もありました。その無骨な格好や昔ながらの行き先看板、板張りの床はワックスの匂いがしていたりして、晩年は地元の人達からは「ウッディ」と愛称で呼ばれていました。この電車は1984年頃まで走っていたようですが、気がついた時には既に廃止となっていました。これで都会からは吊り掛けサウンドが消えてしまったと思いきや、都会のど真ん中には都電という物が走っており、車体こそ更新されていましたが、そこには随分長いことこの音を聞ける車両が走っていました。また地方に行けばまだまだ走っている所がたくさんあり、特に地方の私鉄ではかなり最近まで走っている所もありました。

これは1982年頃の東武日光線の同型の車両の写真です。f:id:x-japanese:20220319214801j:image

これは1978年頃の都電です。その後、車体が更新されましたが走行部分はそのままで、随分と長く走ってその音を聞かせてくれていました。f:id:x-japanese:20220322102615j:image

それでは旧型電車の思い出を書きたいと思います。まずは飯田線です。

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この写真の電車は長距離電車のパイオニア的な電車で、私の前の世代の方達にはそれまでの客車列車を廃止に追いやった電車という事で複雑な感情を抱いている方もいるのではないでしょうか?。私の鉄チャンが本格的になった頃は、既に東京辺りからはほぼ無くなっていて地方の線区に走っている感じでした。この写真の1980年頃はその地方線区から更にローカルな路線に移って走っており、そこの旧型電車を廃止に追いやっている役目を果たしていた感じでした。しかし、この飯田線の景色はこの電車にとてもマッチしており、古い旧型電車を追いやった電車としてちょっと憎らしい部分もありましたが、私は結構撮影に行きましたし、乗り鉄もしていました。この頃は既にこの電車も廃止の計画が出ていた頃で、ファンも多く撮影に訪れていました。この時はまさに「驕る平家も久しからず」という、色々と隆盛期を闊歩していた電車も、いずれ時代と共にその追いやった列車達のように自分達も追われて行く身になるという言葉を、まさにこの電車のようだと実感したのを覚えています。

次は冬の上越線の旧型電車です。

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これは塗装に注目して欲しいと思います。この向こう側の電車の色が当時は新潟色と言われた、黄色とワインレッド色の独特の塗色でした。一時、新潟県でこの塗装を再現した電車が走っていましたが、これは雪国特有の白い視界でよく目立つようにと考えられた塗装との事であり、よく踏切の黒と黄色の警告を現す塗装と同じ発想です。どうですか?手前の電車が当時の一般的な電車の塗装ですが、確かに目立つと言えば目立ちますよね。これが吹雪とか悪天候になると更に目立つと言われていました。こんな色についても学問がある事にも、鉄チャンをやっていたからこそ気づけたと思っています。本当に鉄道は奥が深いと思います。

これは南武線の写真です。

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1977年頃の稲城長沼駅近くで、この辺りはまだまだ梨畑が広がっていました。当時は南武線横浜線と並び旧型電車の宝庫と言った感じでした。双方ともまだまだ畑がたくさん、のんびりした路線でこの地区の稲城の梨は有名でした。最近は双方も都市化が進み随分と整備が進んでいますが、先日久しぶりに所用で南武線に乗ったのですが、車両は随分と近代的になって高架線にも所々なっていましたが、未だに当時と同じ6両編成なのにビックリしました。都市化に鉄道整備が追いついていない状況なのがよく分かります。既に朝のラッシュ時は人が乗り切れない光景が日常となっているようです。原因はホームの長さを伸ばせない場所が多く、また高架にもするのも難しい場所が多く電車の両数を増やせないとの事ですが、都市計画というのは先見の明が必要なんだという事がよく分かります。

これは東急の大井町線の写真で、確か二子玉川駅だと思います。f:id:x-japanese:20220402090851j:image

今はお洒落なニコタマも、昔はこんな旧型電車が走っていたのです。思えば東急というのは本当に街作りというかイメージ戦略が上手いと思います。同じ旧型電車でもお洒落に見えて来るから不思議です(笑)。私が一番凄いと思ったのは、今や住みたい街ランキングの常連の武蔵小杉です。私が南武線を撮影しに行っていた頃の武蔵小杉のイメージは工場の街と言った感じで、とてもお洒落な人達が住むようなイメージは無かったのに、今の変貌ぶりは目を見張る物があります。また最近ではここを走る目黒線です。昔は目蒲線と言ってやはり旧型電車が走っていたのですが(当時は武蔵小杉までは運転していませんでした)、当時は都心のローカル線という感じでしたが、今は地下鉄とも乗り入れをしてお洒落な路線への様変わりようは見事というしかありません。私がイメージ戦略というビジネスを肌で感じる事が出来た事も、旧型電車を追って鉄チャンをやっていた事が関係していたと思います。

最後に鶴見線です。

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ここも昔は旧型電車や旧型機関車の宝庫で、良く撮影に行っていました。そこはまさに京浜工業地帯のど真ん中。夕方になってくると工場の中の電気が灯り始めます。そして夜になるとそれが綺麗に見えて来ます。コンビナート施設の複雑なパイプや、クレーンの大きな鉄骨の周りで水銀灯が光る幻想的な風景は、それはそれは芸術的に見える位でした。当時はライトアップなどと言う言葉は無く、この光景が好きで行っていた部分もありました。それこそこんな夜景ツアーなんかがあってもいいのに、ビジネスとしてあってもいいと思っていた位です。その後はライトアップはもちろん、工場夜景ツアーも出来て、この夜景観光はメジャーになりました。こんな事も鉄道をやっていたからこそ感じられた物でした。こんな景色を色んな人に見せてあげたいと思ったのが現実となり、これがビジネスに繋がるという発想も、案外自分の周りにある物だと感じたのでした。

こんな感じで、随分と鉄道は私にビジネス的にも影響を与えてくれた物でした。こんな旧型電車を追いかけてそんなビジネス的な事を考えていた自分は、鉄チャンとしては変わっていた方なのだと思います。所謂コラボ脳というか、これからも頭を柔軟にして行く為にもやっぱり鉄チャンは続けた方がいいのかな〜と、思っています。お孫ちゃんもいる事なのでやっぱり続けようと思ってます😅。

 

205.鉄チャン旅行の思い出7 夜行列車編

昔は本当に沢山の夜行列車が走っていたものです。鉄チャン旅行でなくても、随分とお世話になったものでした。私は放浪癖があるのか学生の間は本当によくぶらっと何処かへ出掛けていました。そして本当によく夜行列車に乗って、「あの線に乗って来ようかな」とか「あそこに行ってみようかな」などとふらっと出掛けていました。また友人からの誘いも頻繁にあり、夜行列車は私の青春そのものと言った感じでした。

特にお世話になったのは、前にも書いてますが東海道線の大垣行きの347M夜行列車でした。これは主に西の方へ行く時には必ずと言っていい程お世話になっていました。その他には、東北方面で良く使ったのは急行「八甲田」、何故か帰りは急行「津軽」が多かったかな。上越線信越線では長岡行きの普通列車や急行「妙高」、時折スキーの臨時列車にもお世話になりました。中央線では長野行きの普通列車に乗っていました。私の家は当時結構便利な場所にあり、どこの始発駅にも大体30分程度あれば十分に行ける距離だったので、それもあって気軽に夜行列車に乗る事が出来ました。

これは上野駅の夜行急行妙高です。f:id:x-japanese:20220326154441j:image

私はSLの撮影が一段落した高一の秋辺りからは、京都でのSLの事故の一件もあり結構虚脱状態となり、その代わりと言っては何ですが東京近郊の電気機関車や旧型電車などを追いかけていました。暫くは遠くに行ってまで撮影する被写体が無く、特に長期休みや連休はバイト以外は割と暇していていました。するとだんだんと、高校で新しく出来た鉄チャンの友人から声を掛けられる事も多くなってきたのです。泊まりでの旅行に誘われ出したのは高2の夏位からでしょうか。大体がその日の家での夕飯の頃。親や兄弟から「電話だぞ」と言われて出ると(当時はケータイなど無く、家の電話だったんですね〜😅)、友人からの撮影のお誘いがあります。「〇〇に行くんだけど、一緒に行かない?」。それまでも自分で計画して、既に中2の夏にはSL撮影旅行で夜行列車には乗っていましたし、その後も北海道や東北の旅行の時などは度々使っていたので、夜行列車にはアレルギーはありませんでした。逆にあの寅さん映画のような旅情感がたまらなく、憧れに近い感情をいつも抱いていました。

最初は「泊まりで?、いきなりかよ」と驚いたものでしたが、指定された列車が347と聞くと、いてもたってもいられません。347とはご存じの通り東京駅から出る夜行列車です。夜行と聞くと急にウキウキして来るのはどうしてでしょうか(笑)。電話を切って夕ご飯を急いで食べて自分の部屋へ戻り準備を始めます。カメラよし、フィルムよし、着替えよし、軍資金よし(これも鉄道の指差し確認です。本当に鉄チャンだったんだな〜って思います😅)。カメラバックを担ぎナップザックのような物を背負い、始めの頃は、親には「〇〇君と△△線に行って来る。XX日戻らないよ〜。途中で電話入れるよ〜」と言って出掛けていました。それ以降、このブログでも書いたように、結構な回数の鉄チャン旅行に誘われ、都度ふら〜っと出掛けて行きました。そして段々と親への報告も適当になって行きました。

また鉄チャン以外でもこんなお誘いもありました。ある日、東海道本線富士川鉄橋が台風の増水で流されたというニュースが飛び込んで来ます。これは結構な大ニュースで、私の家族も日本の大動脈の路線の鉄橋が台風で壊された事に、とても驚いていたのを覚えています。すると数日後の夕方、友人から電話があります。「東海道線が仮復旧したようだから347で見に行ってみないか」。この不届者と思われるかもしれませんでしたが、死傷者が出た事故でも無かったので行ってみる事にしました。親からはそんな物を見に行くとバチが当たるような事を言われましたが、その晩、347に乗ってそれを確かめ目の当たりにした時は、自然災害の恐ろしさに絶句したのを覚えています。

これは帰りに乗った電車から撮った破壊された富士川鉄橋です。見事に真ん中の部分が流されています。f:id:x-japanese:20220312212945j:image

またある日は友人が故郷に里帰りする時に、数人で送って行く事になりお酒を持って上野駅まで見送りに行った事もありました。この時は大学生で、既に旧型客車は廃止となっており新しい快適な客車でしたがそれでも旅情感は変わらず、我々は暫くまだまだ空いている自由席のボックスを占領し飲んでいました。するとあっという間に発車時間。それ程列車も混んで無く迷惑を掛けそうでも無かったので、我々はそのまま乗って途中まで行く事にしました。まさに動く居酒屋状態です。しかし飲んでいると時間が過ぎるのはあっと言う間、気がつくと戻りの電車の時間が無い駅まで来てしまいました。我々はそのまま乗って行って、空が白々した明けてきた当たりの駅で友人と別れて下車。かなり遠くまで来てしまい、駅で呆然としていたのもいい思い出です。

またこんな感じで、いつも「行って来るね〜」と親に言って暫く帰って来なくなるものですから、親が心配する事もしばしば。私の実家は商売をやっていたため、祖父も父も母も忙しく中々家の事には目が行き届かなく、私の小さい頃は祖母が我々の面倒を見ていました。しかし我が家は子沢山でもあった為か、高校生や大学生ともなればそれも無くなって来て、かなり自由奔放な生活を送るようになっていました。すると母がある日、暫く私の姿が見えない事に気がつくのでしょう。友人やその時付き合っていた彼女の家まで電話された事もあり、旅行から帰って来ると、こっぴどく叱られる事もしばしばでした😅。

こんな雪まみれの列車を見ると本当にフラッと出掛けて行きたくなりますよね(笑)。f:id:x-japanese:20220315212812j:image

これは親になって初めて分かる事でした。自分の子がある日、「ちょっと行って来るね〜」と言って1週間位音信不通になったら、それはそれはびっくりするのは当たり前です。それも携帯電話も無い時代です。幸い私の子供は女の子でしたので、こういった目には合わずに済みました😅。初めの頃は結構母も気が動転して片っ端から私の友人に電話をしていたようですが、そのうちにキーマンの3〜4人に電話して、このうちの誰かが居ないと、私と一緒にまた鉄道旅行に行っているんだと思うようになっていました。しかし大学生にもなり彼女の家に電話された時は本当に恥ずかしかったものです。彼女からは呆れられ「またお母さんから電話があったよ、旅先からでも電話くらいしてあげなさいよ」などと、よく怒られた物でした😅。

こんな懐かしい夜行列車の思い出。私はサラリーマン人生を終えたら、まずはこの夜行列車三昧をするのが夢だったので、本当にそれが出来ない時代になったのが残念です。最近では地方の鉄道で夜行列車のイベントがあるので、それに行ってみようかなと思っています。しかし、夜行列車の醍醐味は、やはり気が向いた時にプラッと出掛けて、一杯やりながら動く居酒屋を味わう事が最高。こんな旅をまた一度でいいからしてみたいと思っています。

これは上野駅寝台特急あけぼのです。この頃はヘッドマークは無かったんです。

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204.鉄チャン旅行の思い出6 客車編

私の鉄チャン旅行は、随分と古い客車の列車に乗って色んな所に行ったものでした。私が言う客車とは、敢えて説明するとSLを初め色んな機関車が引っ張る列車の事です。しかし華やかなブルートレインのような冷房等の設備のある客車では無く、昔ながらの古い茶色や青色の冷房も無くドアも手動、扇風機、白熱灯、木枠の硬い椅子、編んである荷物棚、トイレも今では考えられないですが垂れ流し式、等。私が高校生辺りまでは、上野駅からは随分と沢山の客車列車が走っていました。夜行列車はもちろん昼間の列車まで、客車がのんびりと都心部を走っていたのです。私の高校の担任の先生は、よく夕方の東北本線の福島行きの普通列車で通勤していました。特に私が中学生の頃までは、東北本線の青森行きを初め、高崎線常磐線、中央線には長距離の客車の各駅停車が、東京からも何と鹿児島まで行く昼間の客車の急行列車があり、ふらっと列車旅をするには最高のシチュエーションでした。

これは中央本線の上り普通列車です。割と早く廃止されてしまいました。

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夜行列車や臨時列車を含めると、それはそれはたくさん走っていて、特に尾久の車両基地に行くとたくさんの旧型客車が休んでおり、入れ替え作業で行ったり来たりしているのが見えました。私は尾久の車両基地が大好きで、王子方面には2本の留置線があってその上の跨線橋ディーゼル機関車が行う入れ替え作業をよく見に行っていました。

そんな客車も時代の流れと共に時刻が改正になる度に減っていく感じで、当時はお別れのセレモニー等も無く、本当にひっそりと無くなってしまった感じでした。そんな中で、東北本線の各駅停車の客車列車の最後の日はセレモニーが行われるというので、友人に誘われてクラスの数人と見に行きました。確かこの友人がこのセレモニーの発起人の1人だったと思います。今でさえ、最後の列車などと言うとニュースになる位大騒ぎになる現場ですが、当時はそれ程でも無く、我々はどちらかと言うと数合わせ的に声を掛けられた感じでした。

当時はお昼前に岩手県の一ノ関という所まで各駅停車で行く列車があり、この列車でセレモニーを行うとの事でした。この列車にも随分お世話になったなあと思いながら当日、上野駅まで出掛けました。そういえばこのセレモニー、当日運転士さんと車掌さんに花束の贈呈があったのですが、その時頼んだ女性が寝坊してしまったようで中々来なかったのです。これは一大事、しかし出発時間は刻々と迫って来ます。仕方なくその時一緒に行ったクラスの女の子と、もう1人はその辺を歩いていた女性に頼み込んで急遽女性2人を組成。無事に贈呈式が行われ、友人のホッとした顔が印象的で、バタバタなラストランのセレモニーとなったのもいい思い出です(笑)。

これはその時の写真です。駅員さんも何か寂しそうです。f:id:x-japanese:20220308091825j:image

本当に旅情を誘う客車列車ですが、特徴と言えば開けっ放しのドアと何と言っても垂れ流しのトイレでしょう。これは今では信じられない光景と思いますが、本当にドアが手動で勝手に開け閉め出来たのです。その解放感がたまらなく、私はよく走っている間もドアの横にある棒に捕まって、強烈な風を感じながら外を眺めていたものでした。また連結部分のドアも手動。こちらも、開けると牽引している機関車が目の前に見え、特にデッキ付きの旧型電気機関車などは、そのデッキ部分に乗って更なる解放感を味わっていた物でした。双方とも揺れは結構な感じなので、今考えるとよく落ちたりせずに無事でいたと思います。

こんな事をやって、本当によく無事でいられたモノです(既に40年以上前の事です。炎上はご勘弁を😅)f:id:x-japanese:20240302233050j:image

駅に到着となれば、まだ止まっていないにも関わらず乗客はどんどんと降りて行きます。発車の時も既に動いているのに飛び乗る人も大勢いました。本当に自分達も含め、よく事故が起きなかったと思います(知らなかっただけかもしれませんが😅)。

また上野駅は行き止まりのホームがあり、そこを使う客車列車は車庫がある尾久からバック運転(推進運転と言ってました)でやって来る姿がよく見られました。ホームで待っているとアナウンスが始まり、遠くの方からいきなりですが、ゆっくりと客車が顔を出します。既に扉は開いていたりして「しっかり止まるまで乗らないで下さい〜」と言った駅員さんのアナウンスが響きます。そして最後に今日の牽引機の機関車が見えてきます。なんとものんびりした光景でした。そして「これから遠くまで行くんだなー」という旅情を感じられたものでした。

もう一つは垂れ流しトイレです。本当にトイレを覗くと、そこから線路や石が見えていました。私は初めてこれを見たのは、小学生の時、父の田舎へ帰省する急行列車でしたが、本当にここで用を足していいものか悩んだ位でした。自分の「それ」はここからどこへ行くのだろうと思うと、本当にいいのか暫く考えていたのを覚えています。その後も、お気に入りの機関車を撮影しに行った時では、迫力ある写真を撮る為によく線路脇に陣取っていたものですが、いよいよやって来る時、カメラのファインダーから覗いていると、何やら列車の下の方から霧らしき物が吹き出しているのが見えます。「やばい、トイレだ!」っとシャッターを切って咄嗟に逃げるのですが、その霧が多少かかる事も珍しく無く、鉄チャン後半の方は、少し離れた場所から望遠レンズで撮影する事が多くなりました(笑)。

思い返すと、都心部、確か大宮から都心まではトイレは使えなくなっていたと思います。また当然、停車中は使えませんでした。と言うか、トイレの入口にそう書いてありました。しかし「出物腫れ物所構わず」という諺通り、そんな注意書き等は無視され結構使われていました。そんな現象を当時の公害という言葉を捩り「黄害」と呼ばれていました。沿線の住民は確かに我慢ならなかったんだろうと思います。

こんな事を綴っていると、やっぱり客車列車というのは無くなるべきして無くなったんだと思います。現在の列車は全てのトイレはタンク式になっていて、駅や車庫で処分する形になり衛生的になっています。ドアはもちろん自動だし、最近ではホームにまでドアが作られています。安全な運行という意味では本当にいい時代になったと思います。しかしどこか、寂しい気分になるのはどうしてでしょうか?単なるノスタルジーとは違ったこの感情。それが何かはハッキリしませんが、タイムマシンでも出来て、あの頃の客車に乗れたりなんかしたなら、きっと正解が分かるんだろうと思います。そんな時代が来たら本当にいいですね。

これは奥羽本線の客車列車です。こんな日の列車旅は最高ですね😊f:id:x-japanese:20240304135511j:image

 

 

203.鉄チャン旅行の思い出5 絶景編

絶景といえば、このブログの166回目、ぶらぶら旅6の姥捨の夜景のように.わざわざそこに行って味わう旅の方が書く機会は多いと思いますが、今回は鉄チャン旅行で偶然見た景色の中でこれはといったものを書きたいと思います。本当に沢山ありますが、まず一番最初に思い出すのはこのブログの192回目の勿体無い記憶15でも少し触れた、紀伊半島新宮の朝日です。これは夜行列車に乗って朝一番の列車の撮影の為に降りた新宮という街で出会った景色で、海岸に出て真正面に何も邪魔する物が無い水平線から上がる太陽がそれは見事で、私の見た朝日の中でこれを凌ぐ物には合った事がありません。次がこれも勿体無い記憶4で少し触れた、今は無き青函連絡船から見た津軽海峡の月です。これは船の甲板から真夜中に見た物で、暗い海の遠くに浮かぶ街明かりが点々と見える中、水面に映る月の光の帯がそれは見事で、いつまでも見ていた記憶があります。あとはブルートレインを撮りに朝一番の列車でやって来て根府川駅で降りた時、太平洋を望むホームから見た空が真っ赤に染まっていて、その水平線から上がってくる朝日もそれはそれは綺麗だったな〜。また中央線の夜行で勝沼駅(今の勝沼ぶどう郷駅です)辺りから見た甲府盆地の夜景も見事だったな〜。因みにここはその後、新日本三大夜景に選ばれたそうです。163回目のぶらぶら旅3にも書きましたし、この後予定している温泉シリーズでも描く予定なので、是非読んでみて下さい。その他にも赤い機関車の背景に見えた早春の那須連山も本当に綺麗だったな〜。これは写真をあまり撮らなかったからか、鮮明にその景色を覚えています。やはり、勿体無い記憶13のように、写真を撮らずにこの目で見た景色が思い出に残るのでしょうか。

そんな訳で特に撮影名所にもなっていない場所で見た絶景の思い出を綴りたいと思います。写真が昔の物なので見た目がそれ程綺麗ではないので、そこはご了承いただければと思います。早くデジタル化に取り組むべく、頑張って参ります😅。まずは御殿場線と富士山です。やっぱり富士山は絵になります。この時は御殿場線の旧型電車を撮影しに来ていて富士山とのコラボ写真を期待して来たのですが、あいにくの曇り空。富士山は望めそうもなく山間部で撮影していました。午後になり足柄辺りまで来て御殿場まで歩いてロケハンする事にしてブラブラ歩いていたら、少しずつ雲が取れだし少しモヤっていましたが大きな富士山が目の前に現れました。その大きさと言ったらありませんでした。そこに電車がやって来て、私は夢中でシャッターを切ったのでした。写真ではこの時の感動をお伝え出来ませんが、それはそれは素晴らしい富士山だったのです。この地域の人は皆、毎日この富士山を見ているのかと思うと本当に羨ましかったのを覚えています。f:id:x-japanese:20220326151500j:image

次は飯田線の山の中の景色です。ここはのんびり旧型電車に揺られて乗り鉄をやっていた時、ふと停車した駅で周りに何も無い駅があったのです。どこの駅だったか、この駅はどうなってるんだろう?と興味本位で降りてしまいました。すると本当に周りには何もありません。上り坂の道が一本あり、とりあえず歩いてみる事にしました。しかしある程度歩いても何もありません。仕方無しに今来た道を戻ってみると、山の中にさっき乗って来た飯田線の電柱が見えました。周りは緑一色。すると可愛い2両編成の旧型電車がやって来ました。その景色がまるで模型のよう。それはそれは夢のような光景でした。この写真でこの感動が伝わるでしょうか?。たった1人で見る大自然の緑の中をのんびり走る旧型電車の絶景は今でも覚えています。f:id:x-japanese:20220319214451j:image

次は月並みですが、山寺です。ここは鉄道の撮影ポイントでは無く観光スポットなのですが、1070段の階段を上り立石寺の五大堂から見る下界の光景は本当に素晴らしいものです。そこから見える仙山線もまるで模型のよう。当時は客車列車や貨物列車がのんびりと走っており、本当に絵になる景色でした。これは、勿体無い記憶8の時の写真です。この時は鉄チャンというか普通の旅行のような位置づけだったので、列車ダイヤ等は特に調べて来ませんでした。長い階段を登り、五大堂からの景色の絶景に浸っていた所にこの貨物列車がやって来たので、それはそれは感動した絶景となったのでした。フォトスキャンはこう言った遠景の写真は中々綺麗に出来ないので、この写真はそれ程でも無く見えますが、実物は本当に素晴らしかったのです。こう言った景色は写真など撮らずに、勿体無い記憶13のように目に焼き付けておくのがいいのでしょうか。すると松尾芭蕉のような句が読めるのかもしれませんね(笑)。松尾芭蕉の頃はもちろん仙山線はありませんが、もしこの貨物列車の景色を見てたら、また違った句を詠んだのかもと思うのも楽しいものですね。「閑けさや 岩にしみ入る蝉の声」ならぬ、「閑けさや 岩にしみ入るカマの音」なんてどうでしょう?カマとは鉄道用語で機関車の事です😅。季語が無くなっちゃったかな?😵

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最後は、やはり紀勢本線が思い出されます。色々と撮影旅行には行きましたが、それまではどちらかと言うと記録写真的な撮り方が多く、景色に重きを置いて撮影してはいませんでした。カメラが良くなり、段々と写真自体に興味を持ち始めカメラ雑誌等も読むようになり、こう言った景色や写り具合等を意識した写真を撮り始めるようになって来たのです。今思い返すと、私の行った中での1番の風光明媚な路線はやはり紀勢本線だと思いました。ここは、山あり海あり川あり峠あり、古い街並みあり、鉄道もまだまだ旧式設備でムードも満点。確かに紀伊半島と言うと全体が観光地のようでもありますが、それでも他の鉄チャン旅行とは違い、ここの風景は未だにハッキリと覚えています。f:id:x-japanese:20220326152302j:imagef:id:x-japanese:20220326152528j:image

この紀伊半島は妻とも数回お伊勢さんに旅行に行っていますが、参拝以外でも近隣を巡り、食事、景色、街並み等、旅行の場所としてもここが1番と思っています。伊勢については、173回目のぶらぶら旅にも書いてあるので読んで頂ければと思います。日本にはまだまだこんな素晴らしい景色があるんだと思います。これからも鉄チャン旅行やぶらぶら旅行をして、たくさんの絶景風景を見つけて行きたいと思います。

 

 

202.鉄チャン旅行の思い出4 恐怖編

鉄チャンをやっていると、楽しい経験や人生の糧となる経験等たくさん出来ましたが、その反面怖い思いもたくさんしました。今まで仲間から聞いた中で一番怖い話は北海道の常紋トンネルの話で、私は列車に乗って通った事はありました。これは調べてもらうとすぐに分かりますが、私は幸いそこまで怖い思いはした事はありませんでした。その中で二つ、私がした怖い思いを書こうと思います。

一つは、北海道でのSL撮影の時の話です。これは初日に夕張線の紅葉山という所まで行って、SLの引く貨物列車を撮りに行った時の事。3月終わり頃というのにまだまだ雪が多く、道路は何とか歩けましたが車が来ると怖いので少し道を外れると、今度は雪が腰の高さくらいまであり、思った場所まで行くのが困難な状況でした。そうこうするうちにSLがやって来る時間。我々は仕方なく場所を変え夕張線の鉄橋が見える所に向かうべく、川沿いの土手のような所を線路の方に歩いて行く事にして、撮影する所を探していました。そして、深い雪に足を取られながらも進んで行くと、そこを少し外れた友人が、スポッという感じで首だけ出ている感じで雪に埋まってしまいました。一生懸命友人を引っ張り出しますが中々這い上がれません。何とか事なきを得ましたが救い出すのに結構な時間がかかり、すぐにSLがやって来る時間になってしまいました。我々は急いで川の側まで移動し、何とか鉄橋を渡るSLを撮影する事ができ、大満足。さらにもう一本撮影すべく、道路まで戻りました。

しかし、戻るのも一苦労でした。友人も雪に埋まったりして大変だったなーと道路へ戻る途中、何気なく鉄橋の方を振り返ると、一瞬目を疑う光景が広がっていました。我々が撮影していた雪原の場所のすぐ横は直角に切り立った場所になっていて、すぐ下が川。さらに下の方が少し抉れている感じがしました。よく大雪や大雨で道路が見えずに足を取られたり滑ったりして流されて行方不明になる事故が毎年ニュースになっていますが、まさにその可能性があるような場所でSLの撮影をしていたのです。実際、友人は少し道を外れてだけで雪に埋まってしまいました。

これには我々は一瞬固まってしまいました。下手をするとあの土手の雪が崩れて全員川に落ちていたかもと考えると、震えが来る位恐ろしかったのを覚えています。これは自然を甘く見ると大変な事になる。それもここは北海道の山奥。都会暮らしの我々なんかひと溜まりも無いと感じました。この事があって私は自然という物の恐ろしさを肌で感じ、ある意味用心深い人間になったと思っています。本当に我々が皆、もし川に落ちてしまったら恐らく誰とも連絡が出来ず、まだ冬の冷たい川に落ちれば間違い無く凍死でしょう。まだ旅行は始まったばかり。この晩も夜行列車の予定でした。おそらく異変に最初に気がつくのは翌日宿泊予定だった帯広のYHの人。翌日の夕方まで気づかれない可能性があったのです。考え過ぎかもしれませんが、想像するだけでも恐ろしい。自然を舐めてはいけないと思った教訓となりました。因みにこの時の写真は、勿体無い記録1に書いてありますが、フィルムが切れてしまって喪失してしまっています😱。

二つ目はぶらりと撮影に行った時の話です。この時は都心に近い所を走る旧型電車を撮影しに、カメラ一つ持ってやって来ました。ここは既に何回も来た事があり、今回も都心部では無くちょっと山間部に入った所で撮影しようと思ってました。そしてある駅で降りてぶらぶら、お目当てのトンネルがある切り通しの場所へ向かいました。するといつの間にかトンネルが新しく出来ていて電車はそちらの新線を走っている事に気がつきました。

という事は、今までの旧線はどうなったのだろうと撮影そっちのけで見に行ってみると、線路は付け替えられて完全に分離されていました。要するにこの線路には電車がやって来る事は無いのです。線路も錆びておらず、まだまだ付け替えられて数日といった感じに見えました。私はこの時すかさず「トンネルを歩いてみようか」と思いました。電車が通る事も無く危険や迷惑を掛ける事はありません。また隣の駅まで行く近道にもなります。さっそく旧線を歩いて行きトンネルの前に立ってみました。

このトンネルは真っ直ぐで、向こう側に小さく出口が見えました。見た感じも500mも無い感じです。歩いても5分位、それなら危険も無さそう。明るさだって向こうの出口が見える距離なのだから大丈夫だろうし、つい最近まで使っていたのだから安全面や衛生面も問題無さそうです。トンネルを歩くなんて初めての経験です。それならと、1人でトンネルに入って行きました。バラスト(敷石)に脚を取られないように枕木の上を一つ一つ歩いて行きます。この時はまだ早春、それでも暖かい日でしたがトンネルの中はひんやりとした感じです。

まだ入口近くは光が届き足元もしっかり見えて歩くのには問題はありませんでした。この路線は10年位前まで貨物列車にSLが使われていた事を記事を読んで知っていました。このトンネルもSLが走っていたのかなあ、などと思いながら歩く気分は上々。壁面にSLの煤など残っていないかな〜などと思いながら最初はご機嫌でした。しかし中は思ったより暗く、そしてトンネルの中は結構風が通り抜けます。進んでいくうちに段々と嫌な気持ちになって来ました。早く出たいと思うようになってきましたが、中々出口が近づいて来る感じがしません。

そのうちに足元が殆ど見えなくなって来ました。トンネルの入口と出口は小さいけどしっかり明るく見えるのですが、その光が届かないようで自分の手や脚も見えなくなって来ました。今のような携帯電話なら灯りを付けて歩く事も出来ますが、カメラ一つでトンネルの中ではどうしようもありません。自分の周りは真っ暗になり、歩く事もおぼつかなくなって来ました。トンネルの中というのは何とも言えない雰囲気があります。急に怖くなり、ちょっとしたパニック状態になってしまいました。行く前には、こんな事になるとは想像もしなかったのです。

心を落ち着かせ、枕木の足の感触を頼りに一歩一歩、手探りならぬ足探り状態で進みます。こんな時にあの常紋トンネルの話を思い出したりします。このトンネルはそんな事は無いのかなと思うと、本当に怖くなって来ました。今でこそ廃線跡をハイキングコースにしてトンネルも歩ける所がありますが、明かりがしっかりあるから歩けるのです。そして一歩一歩、必死で歩きました。数分間が本当にとても長く感じ、本当に出口が遠く感じました。

そして何とか足元に光が届き始めます。少しずつ枕木や線路が見えて来ました。やっと歩く速度が元に戻り、ようやく出口に来れました。トンネルから出た時は思わずホッとして暫く線路に座り込みました。正直止めておけばよかったと思いました。これが少しでもカーブして出口や入口が見えなかったら本当に危険だったと思いました。思いもよらなかったトンネルの暗さに、もう二度とこんな事はしないと思ったのでした。この時、いつも行っている慣れている場所とは言え、舐めて掛かると大変な事になるという教訓を学びました。

今書いてみるとそれ程大した事なく、そして少しオーバーな位な教訓ですが、その時は本当に恐ろしい位の体験だったのです。これもその後の人生において無茶な事をしなくなった大切な経験です。本当に鉄道には色々と頭が下がる思いです。

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201.鉄チャン旅行の思い出3 347M編

鉄チャンをやっていた時期は、本当に色々な思い出もたくさんありました。今となっては本当に懐かしい思い出。よくもまあそんな色んな事があったなあと思ってしまいます。これは私が無事成人を迎え、大手を振ってお酒が飲めるようになった頃の話で、よく乗っていた大垣夜行の347Mの面白い経験談です。この時から人間ウォッチングの元祖のような事をやるようになり、終電車が織り成す人間模様にとても興味を持ったのでした。

既に私は鉄チャン活動は随分と下火になっていたのですが、ある時、懐かしの飯田線の撮影に誘われました。この時はちゃんとした民宿に泊まるというので、私は飲み会のつもりで参加しました。ここは既に、私が高校の時に撮影に来ていた頃の旧型電車は無く、後継としてまた違った旧型電車が走っていました。私はこの電車を少し撮った後は、主にこの旧型電車特有の、あのウォーンという音を楽しむ為に乗り鉄をする予定でした。もちろん覚えたてのお酒をチビチビやりながら(笑)。今テレビ番組でも時折見る「呑み鉄」の元祖といったところでしょうか。

出発はもちろんいつもの大垣夜行の347M(その後色々と列車番号は変わったようですが、私は大垣夜行と言えばこの番号です😊)。この時は夏休みも終わり初秋の頃、さほど混雑しておらず数人の友人とボックス席を2っ確保。早速買っておいたウィスキーで乾杯。最初は水割りとかコーラ割りでいい気分でしたが、そのうちに酔いが回ってくると割るのが面倒になり、紙コップにストレートで飲み始める奴が出てきました。ウィスキーは民宿での宴会の為に数本あったのですが、電車の中では割るものが無くなり、私もストレートでチビチビやるようになりました。

今まではこの列車に乗っている時は、翌日からの撮影があったので大体早々と寝ていました。しかし夜行列車での呑み鉄は本当に幸せな気分。流れる夜景、適度な揺れ、気持ちいい酔い加減と、寝ている時間が勿体無い位です。よく見ると周りの乗客も結構飲んでいる人も多く、騒がしく無い程度の動く居酒屋と言った感じで、クセになる感じがしていました。そしてこの347Mは終電車という性格も持った夜行列車という事が関係して、色々な人達の色々な場面が見られるのが分かりとても面白く感じ、それからというもの、この列車に乗ると人間ウォッチングをするようになってしまったのです。

当時は東海道線と言えども今のように頻繁に列車が走っていたわけでは無く、夜の時間帯になると結構本数も限られていました。出発間際になるとサラリーマン風の人達もかなり乗って来ます。おそらく二次会三次会と飲んで来た人達が多いのでしょう、赤い顔した人達ばかりが目立ちます。出発して暫くはその人達は起きていて事件は起きません。そのうちに深夜の時間帯に入り、茅ヶ崎、小田原と進んでくると、面白い(失礼😅)光景を見る事が出来ます。

すぐ後ろでうたた寝をしていた人が突然ガバッと起き上がります。「しまった〜、乗り越した〜」と言いながらバタバタと下車して行きます。まだこの辺りならタクシーとかで何とかなるのでしょう。まだまだ元気で降りて行き、それ程絶望的では無い人も多いですが、大体の人は「やっちまったな〜」といった感じで降りて行きます。これが熱海や沼津を過ぎると今度は逆にそれ程のショックはない感じで起きる人が出てきます。ガバッと起きたかと思うと、「あ〜、またか〜、折り返すか〜」。この人達は347Mの逆バージョンの344Mに乗って帰って行くのでしょう。結構慣れている感じがする人もいます。しかし中には初めて来た場所のような人もおり、何が起きたか理解出来ず網棚の荷物を落としたり、急いで降りる時に荷物を落としたりして、慌てふためいている人もいます。

そして富士、静岡と進むと、これまた違うリアクションの人達が出てきます。特に静岡や浜松では長い間駅に止まります。当時はこの電車は停車時間に貨物列車に抜かれており、初めて体験した時は旅客列車が貨物列車に抜かれるなんてと、本当に驚いたものでした。その時間にホームに降り立つ人は、殆どが鉄チャンか寝過ごしたサラリーマンの人。何とかしないとと対応策を考えても頭が働かないといった感じの人が多く、駅員さんに相談している人も多く、始発の東京方面の新幹線の時間を聞いている人も多かったです。夜行列車にはさまざまな人間模様があるんだな〜と、これ以降いつもこの列車に乗ると思っていました。

そして我々が降りる豊橋以降では、ガバッと起きた人は暫く立ったまま呆然としてまた座り、頭を抱えている人が見受けられます。既に新幹線の始発でも会社に間に合わない時間なのでしょうか。日本のサラリーマンは大変だなと思い、これから自分もあのような会社員になるのかと思うとちょっとウンザリ。しかし自分はあのようにはならないと強く誓ったものでした(しかし、しっかり自分も同じようサラリーマンになっていました😵)。

そしてこの時は初めての人間ウォッチングで殆ど寝ない状況で豊橋駅に降り立ちました。初秋の早朝は気持ちよく、暫く駅のホームのベンチに座って酔いを覚ましていました。しかしその気持ちいい気候が強烈に眠気を誘います。今日の予定としては、私は夕方までに民宿まで行けばいいのでのんびりとしてしまい、そしてそのまま皆もベンチで寝てしまいました。

すると何やらザワザワガヤガヤと耳に入って来ます。眠い目を擦りながらふと目を開けると、人がたくさん立っています。私の目に入って来たのは逆さに立っているように見える人々の姿でした。何が起きたか分からず、すぐに腕で目を覆いました。腕の下からうすうす覗いてみると、我々はベンチのシートに横になってそのまま寝ていたのでした。辺りは既に朝の8時頃。豊橋駅は通勤通学ラッシュの時間になっていたのです。数人の人達が我々を見てうんざりしている顔が認識出来ました。中には我々に向かいおおっぴらに軽蔑した言葉を投げている人もいました。先程まで自分がしていた人間ウォッチングを自分がされている状況に、顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えています。そのうちに電車が到着。ラッシュの人達は電車に吸い込まれ発車。ホームはガランとしました。

すかさず私は飛び起き、皆を起こしました。我々は先程一緒に降りたサラリーマンのように暫く呆然としていました。我々は見事な二日酔いとなり、この日は早々と民宿に辿り着いのでした。日本の企業戦士達を面白がって見ていたバチが当たったのか、しかしこの347Mで人間ウォッチングはその後も利用する度に続けていました。本当に色んな人達がいて面白く、その後も必ずこの夜行列車には同じような人達と巡り合え、本当に興味深かったのを覚えています。

今こんな列車は既に無く、味気ない世の中になった物だと思います。人に興味を持つというのは、本当に大事な事だと思うのに、今は逆に人と会うな接するなの時代でテレワークが当たり前な時代。初老の私は本当に寂しい限り。せめてコロナが収まり、行き来位は自由に出来る世の中になる事を切に願っています。

当時の347Mと同じ型の電車です。中間に関西地区の新快速塗装の電車が入っていますね。この頃はこんな列車はたくさん走ってました😅f:id:x-japanese:20220317204200j:image

 

200.鉄ちゃん旅行の思い出2 今ならあり得ない編

記念すべき200回目は感動編の続編で、古き良き時代、今ならあり得ない編です。こんな時代がまた来たらいいなという希望を込めて書きたいと思います。

今は本当に生きにくい時代になりました。私が思うには、コンプライアンスとやらがこの世に言われ始めた辺りから、何やら窮屈な時代に突入したと思っています。法令遵守やら倫理観やらといった公平公正な業務を行うといった、一見ごもっともな物なのでしょうが人間は機械ではありません。私は現役社員の時にも、このコンプライアンスに対して随分と抵抗した部類に入ると思います。別にパワハラやセクハラ、アルハラ等を認めている訳ではありません。仕事でこの場合は仕方ないでしょうといったような場面でも、一方的にコンプライアンス違反として罰せられる、そんな状況がおかしいと反論していたのです。

思えば前回の感動シリーズの、三笠のバスの運転手も細かく言うとコンプライアンス違反です。深川駅の駅員だってそう、出発を待ってあげた駅員もそう。しかし、このような人達がいたお陰で、どれだけの人間が暖かい気持ちになり、私のように考え方を変えてまともに生きる事が出来るようになったか。それを考えると現役を離れた今でも反論したいと思ってしまいます。そしてこの事は、前向きな失敗や一生懸命やった事についても、一度違反となれば容赦無く罰っせられる事になります。すると人間はどうなるでしょう?益々積極的な人が減って行き、指示待ち人間や無気力人間を作っていく事になると思います。結局何もやらない人間が得するようなこのコンプライアンス、最近の日本のさまざまな停滞もこれが原因だと私は真に思っているのです😤。「何もしない」というこの事こそ、大罪だと思っているのです😤😤。

そんな事は別の機会で話す事にして、今回は鉄チャン旅行で体験した、今では考えられない事を書こうと思います。今行えばもちろんコンプライアンス違反、下手をすると解雇です。しかしこれが果たして本当にそうなのか。既に時効と思いますが、場所と時間は念の為伏せておきます。以前、私の友人が聞いた話の中に、ある駅でSLを撮影してたら、機関士が次の駅まで運転席に乗せてくれたという話がありました。まさかそんな事は無いでしょうと、ずっと嘘だと思っていましたが、ある日、それが現実に私に起こった時の話です。

私がある路線の貨物列車の夜間撮影をしに行った時の話です。ある山間部の駅まで行き一通り撮影した後、ベンチで座っていました。次の列車はこの貨物列車が発車してから数時間後。気候も良く、この後何か予定がある訳でもなかったので、のんびりベンチに座り機関車を見ていました。この機関車ももうすぐ廃止の噂があり少し寂しさを感じながら、じっくりと目にその光景を焼き付けていました。

すると運転席から機関士の人がこちらを見ている事に気がつきました。何気なく挨拶をすると、その機関士は「次の電車はかなり後だよ。大丈夫?」と言ってくれました。自分は別に予定がある訳でも無いので大丈夫との返事をしたところ、「どこまで行くの」と聞いて来たので、終点までと言ったところ、「乗せてってあげようか?切符持ってるんだろ?」と言って来たのです。一瞬冗談だと思い、「いえいえ、大丈夫です」と断ったのですが、「本当にいいよ。ほら」とドアを開けてくれました。私は半信半疑、「本当にいいんですか?」と聞くと「もちろん、だけど黙っててよ」と言いました。それを聞いて周囲に誰もいないのを確かめてホームを降りて機関車へ向かいました。間近に見る機関車は本当に大きい、そして開けてくれたドアは結構高く、入るのに苦労しました。

中に入ると運転室は結構狭く暗く、結構過酷な労働なんだという事がすぐに理解出来ました。機関士さんは私のような鉄チャンを見るとつい声を掛けたくなるそうで、やはり自分の仕事を興味を持ってくれる事に素直に嬉しいと話してくれました。そしてこの機関車ももうすぐ廃止となり、貨物自体も廃止となる事、それがとても寂しく感じると話してくれました。

そして発車です。信号が変わり出発。結構な衝撃、そして速度が上がるに連れて振動が激しくなって来ます。旅客用ではなく、それも古い機関車というとクッションという概念が無いようで、とにかくガッシャンガッシャンという感じで進みます。ライトも暗めなのでとても見通しが悪いです。機関士さんも真剣そのもの。話し掛けるのも怖いくらいで、私も真剣に乗っていました。想像以上に過酷な作業現場には私は絶句してしまい、時間としたら30分位だったでしょうか、楽しい時間を想像していましたが返ってグッタリ。鉄道業務の過酷さに本当に頭が下がる思いでした。

機関車は終点の駅の構内に入って行き、停車位置にピタリ止まると機関士さんがやっと笑顔になりました。「お疲れさん。ここは駅から少し離れているから気をつけて。駅の場所は分かるよね」と言ってくれました。「見つかると面倒だから、早く行った行った」と笑いながら見送ってくれ、私は大感激して何度も御礼をしてその場を後にしました。

まだ学生身分だった時のこの経験は、その後の職業を考えるに当たりとても役立ちました。一見華やかだったり憧れる職業でも実際は大変な作業であったりする事が身に染みて分かったのです。そして機関士の過酷な業務や真剣な態度には感動すら覚えました。今まで、憧れというか側から見ると楽しそうな職業に見えた機関士という職業。しかしそこには壮絶な現場の姿を目の当たりにして、自分もこのような真剣な仕事を見つけたいと思ったのでした。

思えば昔はこんな事がたくさんありました。「本当はいけないんだけどね、だまってて」などと食堂のおばさんが一品多く出してくれたり、「本当はダメなんだぞ」と言いながら見逃してくれた先生とか、他にもさまざまありました。勿論それを逆手に取って更に悪い事をする奴等がいる事も事実です。そういった輩が増えて来たから、こんなコンプライアンスなどという物が出来たとも言えるかもしれません。

こうなると鶏が先か卵が先かの論争で、気が滅入ってしまいます。今は機械も発達、医学も発達、ネットも発達していい時代になりました。私の前立腺癌も今の技術があるからこうして生きていられるのです。昔ならとっくに死んでいたかもしれません。しかし人間の義理や人情は昔の方が良かったと思うのは私が年取ったからでしょうか。今の時代、何もかもがんじがらめで杓子定規で少し息が詰まるように感じる事も多くあります。こんな時代でそもそも感動するような事があるのかも疑問です。せめて人間同士、昔ながらの暖かい付き合いをして行きたいと思います。

これは青梅線を走る旧型電気機関車です。撮影していたらライトを付けてくれました。こんな心遣いもほのぼのしますよね。f:id:x-japanese:20220314211317j:image

これは池袋〜目白間を走る貨物列車です。短めの汽笛を鳴らしてくれました。この頃は本当におおらかな時代でした。f:id:x-japanese:20220316081518j:image